花と最終電車/あまんきみこセレクション4 冬のおはなし/三省堂/2009年
小学校の国語教科書にのっているというので、あまんきみこさんの童話を読み始めました。
どれも優しさがあふれていますが、このお話も優しい。
多くの花が土の中にねむっているのに、一つだけ咲いていた青い花。
冷たい雨に打たれてふるえている花をみて、みっこちゃんは花のそばに穴をほり、そこに傘をさしてあげます。
雨の音が強くなって、心配になったみっこちゃんは花をみにでかけます。
すると青い短い服をきた女の子とあいます。
青い花の精です。
素敵な家で二人で遊んでいると、遠くから電車が走ってくるようなひびきがおこります。
みっこちゃんがたずねると、女の子は、「あれが今年の最終電車なのよと」とこたえます。
女の子が電車にのって電車が走り始めると、レールは氷のとけるように、みるみるうちにきえていきます。
線路がみるみるうちに消えていくところで、不思議な世界に入っていくようです。
花が電車にのって、きえていくというイメージは、作者の感性なのでしょう。
わがままくまさん/作:ねじめ 正一 絵:高畠 那生/そうえん社/2012年初版
冬がちかずいて、冬ごもりの準備をする時期。
くまさんはまったくそのきはありません。
心配した森の動物たちがあの手この手でくまさんを冬ごもりさせようとしますが、なんどやっても、次の日になるとくまさんはあなからでてきます。
それでは疲れたら冬ごもりするだろうと、イノシシと競争させることに。
森の動物たちのもくろみどおり、イノシシが競争に勝ち、くまさんはくたくた。
でも翌日には・・・・・。
まずうさぎが代表してくまさんに声をかけ、イノシシはくまさんの肩をもんで、うさぎは子守唄を歌って、りすさんはせなかをさすり、もぐらさんはくまさんの耳掃除をするなど、くまさんを心配する動物たちの懸命なさまに、仲間を思う気持ちがこめられています。
十二人の娘/ものぐさ成功記 タイの民話/森 幹雄・編訳/筑摩書房/1980年初版
ヨーロッパの昔話では、長い話も紹介されているが、アジアのものではあまりふれることが多くなかった。
このタイの昔話にはいろいろなパターンが詰まっている。
出だしは、子どもにめぐまれない長者。
(子どもにめぐまれない夫婦という出だしは、一つのパターン)
しかし、長者がバナナを十二本頭にのせて、ほとけさまにお供えすると、長者の願いはかなえられ、なんと十二人もの女の子にめぐまれる。
子どもが多すぎて、長者は貧しくなり、娘たちを森の奥深くに置き去りにしてしまう。
(捨てられるところからはじまるのも昔話らしい)
十二人の娘たちがたどりついたのは人間を食べてしまう魔女の家。
逃げ出す娘たち。追いかける魔女。
娘たちは、はじめにゾウのはらの中に入り込み、次にウマ、ウシのおなかのなかにはいりこんでなんとか魔女から逃げ出します。
娘たちが池のそばの木によじのぼり枝に座って疲れをいやしていると、王様の命令で黄金の水がめをもったせむし娘が、水汲みにやってくる。
すると池の水が美しく光り輝く。この輝きは自分のからだから出ているにちがいないと思ったせむし娘は、美しい自分がどうして水汲みをしなくてはならないと黄金のみずがめをたたき割ってしまう。王様は銀の水がめをせむし娘にもたせるが、娘はこの銀の水がめを割ってしまう。
王様は三度目に皮の水がめを娘にもたせるが、皮の水がめはこわそうにもこわれない。せむし娘は根負けして水を汲んでひきあげようとした。
これを木の上に座ってみていた美しく目もまばゆいばかりに光り輝いている十二人の娘がこらえきれずに笑い出すと、それを見たせむし娘が、見たことを王様に報告する。
ここで十二人は王様のお妃に。
ところが面白くないのは魔女。十二人がお妃になったのをみて、美しい娘に変身して王様の妃になることに成功します。
ここで、変身した魔女は十二人を追い出そうと、仮病をつかい、この病は、十二人の目玉を取り出してくれないと治らないといい、十二人の目玉をくりぬき、洞窟に閉じ込める。
一番末の娘は、この洞窟で男の子を産み落とす。
りっぱな若者に成長した男の子は旅にでることに。
そして、無理やりさそわれた闘鶏で勝ち続け、十二袋のコメを手に入れて洞窟の母親たちのもとに運ぶ。
闘鶏の名人とうわされるようになった若者は、王様とも勝負するがここでも勝ち続ける。王様は若者にいろいろ尋ねると、自分の息子だったことにきずく。
このお話は、ここまでで半分。
目玉をとりもどすまでまだまだ長い。
天をかける馬が、森や風、火、雨、雲をよびだす魔法の薬がでてくる。
さらに手紙を持参したものを殺せと書いてある手紙の書き換えがあって、若者と魔女の娘が結婚するなど
次から次へと話が展開する。
こんなに長い話がどのようなところで、話されたのか興味があるところ。
アラビアンナイトの世界が、身近なところにもあるようです。
しかし、なぜ十二人の娘なのでしょうか。何か意味のある数字でしょうか。
ハリー びょういんにいく/作・メアリー・チャルマーズ おびか ゆうこ・訳/福音館書店/2012年初版
手帳をひとまわりおおきくした小型の絵本。シリーズになっています。
こねこのハリーがドアにしっぽをはさんで、けがをしてしまい、お母さんと病院にいくことに。
嫌がるハリーの手をひき、お母さんはハリーを病院につれていきます。
待合室は、耳にばんそうこうをはっている犬や、ギブスをした犬、のどを痛めたおんどり、かえるもねこもいます。やがて、ハリーが先生に見てもらう順番がやってきて・・・・・・。
診察をまっている間のいやだなあという感じがよくでています。
先生からたいしたことがないといわれ、緊張感がとけて、次々にやってくる患者?に大丈夫だよといってまわるのがほほえましい。
こどもたちも、病院にいく不安感と大丈夫といわれたときの安心感は、一度は経験していそうです。
野のピアノ/あまんきみこセレクション3 秋のおはなし/三省堂/2009年
調律師のおじさんのところに、トランプの箱二つぐらい重ねたぐらいの小さな小包がとどきます。
草野保育園の園長さんからです。
おじさんはおととい草野保育園のピアノ調律にいって、そのお礼だったのです。
草野保育園はねずみの保育園。
ちいさなちいさなねずみのピアノの調律をどうするのかなと思っていたら、カゼクサの野原をジグザグして行くとおじさんがねずみとおなじくらいになってしまうというので納得しました。
草野保育園の子どもたちはピクニックの日で、子どもたちがいないときにピアノの調律をするのですが、調律しているときに子どもたちがかえってきて、窓からのぞいて大騒ぎ。おじさんが手をあげると、子ねずみの目がみんな細い糸になります。
とりたてて大きな事件がおきるわけでもなく、悪役もでてきません。
なにかほっとする優しさがあふれている世界です。
小包の中身は、赤い秋グミの実で、秋の風情を感じさせてくれます。
松井さんの秋/あまんきみこセレクション3 秋のおはなし/三省堂/2009年
テレビドラマや小説では珍しくないが、主人公が同じ連作で4話が収録されている。
ひとつひとつのお話が独立しているが、同一の主人公がでてくるのでスムースにはいっていける。
タクシー運転手の松井さんは結婚式の式場にむかう途中、どうしてもおじいさんにあいさつしたいというネズミのカップルをのせることに。<ねずみの魔法>
若い男のいうとおりに車を走らせていると、男はいつのまにかは山ねこに姿をかえていました。母親が病気になって、見舞いに行くという医者のたまご。”山ねこ、おことわり”のねこ語の張り紙を残していってくれるのですが。<山ねこ、おことわり>
白い服を着た娘さん二人をのせて、虹の林の入り口まではしらせます。二人は飼われていたいた白鳥ですが、自分の家族のもとにかえるところでした。<虹の林のむこうまで>
道路の真ん中でシャボン玉で遊んでいた女の子が道をふさいでいたので、注意しようとすると、女の子は大泣き。こまってながめていると、松井さんは小さくなっているような気がします。
今度は小指くらいの男の子が「なんてこった。なんてこった」と松井さんの口つきをまねます。
自分の車が怪物のように大きく見え、かなしくなった松井さんが大泣きすると、今度は松井さんがどんどんのびてもとにもどります。
あわてて車にのった松井さんが車をとめてふりかえると、たくさんのシャボン玉がきらきらつぶつぶかがやいているのがみえます。<シャボン玉の森>
乗車拒否をしない松井さん。いずれも松井さんの優しさがつたわってきます。
松井さんは、いくつぐらいの人でしょうか。子どもがいたのでしょうか。そもそも結婚していたのでしょうか。
おおきな木/作・絵:シェル・シルヴァスタイン 訳:村上 春樹/あすなろ書房/2010年
いまから50年前以上にかかれていて、村上春樹訳で読みました。村上訳は最近で、以前のものとは微妙に違う感じがあるようです。
表紙の濃い緑と淡い緑、まっかなリンゴをのぞけば、本文の絵はモノクロで、リンゴの幹は、線だけ。
あるところに、りんごの木があって、その木はひとりの少年がだいすきでした。
木のぼりや、枝にぶら下がって遊んだり、リンゴを食べたり。くたびれると少年はこかげで眠ります。
少年もその木が大好きでした。
時間が流れ、少年が大きくなると木はひとりぼっちになることが多くなります。
ある日、少年が木のところへやってきます。木は遊んでおいきと言いますが、少年は言います。
「もう木のぼりして遊ぶ年じゃないよ。ものを買って楽しみたいんだ。お金がいるんだよ。お金がなくっちゃ。ぼくにおかねをちょうだい」
木は困りましたが、りんごの実をすべて与えます。
大人になった少年は家を欲しがり、木はその枝を与えます。年老いた少年は船を欲しがり、木はついにその幹を与え、切り株になってしまいます・・・
旧訳版(ほんだ きんいちろう)では、少年が”ぼうや”とされ、出だしが旧訳で”昔”が”あるところに”と訳されているようです(確認していません)。
”昔”と”あるところに”とはじまるのは、微妙なちがいがありそうです。
はじめは相思相愛であった少年と木が、少年が成長するにしたがって、木の片思いに変化するのですが、困ったときにあらわれ、リンゴの実や、枝、幹を与え続けてもそれが当然のように思っているかのような少年。
この少年がどんな人生をおくったのかは、いっさいえがかれていません。
ただ、はじめリンゴの木には”ぼくと木”と彫られていますが、少年が成長するにしたがって”ぼくとあのこ”とが加わって、初恋を思わせるだけです。
おかねや家をほしいという少年ですが、「ふねがほしい。ここじゃないずっととおくに ぼくをはこんでくれるふねが。ぼくにふねをおくれよ」というセリフにどんなことがおこったのか想像するだけです。
リンゴの木と少年は親と子のようにも思えます。親にとっては子どもはいつまでも子ども。子どもにとっても最後に行きつくのは親なのでしょう。この作品には、さまざまな解釈の余地がありそうですが、木(親)が少年にしてあげたことは、本当に少年のためになったのでしょうか。
紅葉の頃/安房直子コレクション7 めぐる季節の話/偕成社/2004年/1993年初出
8月前半の猛暑から後半は雨、くもりの日が続き、なんとなくすっきりしない日々。
季節は秋に。秋は紅葉の季節。
紅葉は紅葉の精が、山のはたのある家にいっせいにはいりこんで、峠の紅葉、谷の紅葉、ふもとの紅葉を織ります。
峠の紅葉は、赤や黄色になってみんな、こぼれてゆくよ。紅葉はわらいながら、こぼれてゆくよ。それから谷に落ちて、またわらいながら、流れてゆくよ。
安房作品は音が聞こえ、色がはっきりしたイメージであるが、どれもギラギラしたものではなく、落ち着いたもの。
そして季節もギラギラの太陽の下ではなく、秋とか冬、そして息吹を感じさせてくれる春がふさわしいようだ。
この話を読んで、紅葉のイメージがふくらむ。
この機織り機はいずれも古くなって、いまはあまり使われていないもの。小屋の片隅にひっそりおかれた機織りへの愛着も感じられた。
川に流れてきた紅葉の裏側には、山のうさぎの手紙が書いてあるのですが、どんな内容でしょうか。