おおきな木/作・絵:シェル・シルヴァスタイン 訳:村上 春樹/あすなろ書房/2010年
いまから50年前以上にかかれていて、村上春樹訳で読みました。村上訳は最近で、以前のものとは微妙に違う感じがあるようです。
表紙の濃い緑と淡い緑、まっかなリンゴをのぞけば、本文の絵はモノクロで、リンゴの幹は、線だけ。
あるところに、りんごの木があって、その木はひとりの少年がだいすきでした。
木のぼりや、枝にぶら下がって遊んだり、リンゴを食べたり。くたびれると少年はこかげで眠ります。
少年もその木が大好きでした。
時間が流れ、少年が大きくなると木はひとりぼっちになることが多くなります。
ある日、少年が木のところへやってきます。木は遊んでおいきと言いますが、少年は言います。
「もう木のぼりして遊ぶ年じゃないよ。ものを買って楽しみたいんだ。お金がいるんだよ。お金がなくっちゃ。ぼくにおかねをちょうだい」
木は困りましたが、りんごの実をすべて与えます。
大人になった少年は家を欲しがり、木はその枝を与えます。年老いた少年は船を欲しがり、木はついにその幹を与え、切り株になってしまいます・・・
旧訳版(ほんだ きんいちろう)では、少年が”ぼうや”とされ、出だしが旧訳で”昔”が”あるところに”と訳されているようです(確認していません)。
”昔”と”あるところに”とはじまるのは、微妙なちがいがありそうです。
はじめは相思相愛であった少年と木が、少年が成長するにしたがって、木の片思いに変化するのですが、困ったときにあらわれ、リンゴの実や、枝、幹を与え続けてもそれが当然のように思っているかのような少年。
この少年がどんな人生をおくったのかは、いっさいえがかれていません。
ただ、はじめリンゴの木には”ぼくと木”と彫られていますが、少年が成長するにしたがって”ぼくとあのこ”とが加わって、初恋を思わせるだけです。
おかねや家をほしいという少年ですが、「ふねがほしい。ここじゃないずっととおくに ぼくをはこんでくれるふねが。ぼくにふねをおくれよ」というセリフにどんなことがおこったのか想像するだけです。
リンゴの木と少年は親と子のようにも思えます。親にとっては子どもはいつまでも子ども。子どもにとっても最後に行きつくのは親なのでしょう。この作品には、さまざまな解釈の余地がありそうですが、木(親)が少年にしてあげたことは、本当に少年のためになったのでしょうか。