京都に、僕にとってとても気になる寺があります。大徳寺 高桐院。大徳寺にある塔頭寺院のひとつで、通常見学できる4つの寺院のうちのひとつです。以前にJR東海のCMにも登場しましたが、紅葉が美しいことで有名な場所です。ただ、僕が惹きつけられてやまないのは、紅葉の美しさではなく、その境内がもっている独特の静かな雰囲気でした。これまでに何度となく通って、時間を過ごしてきました。紅葉の季節でなく、むしろそれ以外の人が少ない季節に。
建築史にもほとんど登場することのない、建築学的には無名の寺。でもその空間には、独特の引力があると思っています。開放的で明るいこととか、風が抜けて気持ちよいとか、そういう意味での心地よさではないようです。うまく言えませんが、何かに思いを馳せる場所、というようなニュアンスでしょうか。
どんなに美しい風景であっても、ずっと見ていればいずれ飽きるかもしれません。でも、その風景のなかに散りばめられた事物に、何らかの物語を感じとったとしたら。例えばそれが戦国の動乱期を生きた細川三斉・ガラシャ夫妻や、千利休にまつわるものであったとしたら。幽玄な雰囲気のアプローチを抜け、片耳の欠けた燈籠に出会い、敷地奥に配された極端に暗い茶室のなかに、一条の光を感じとる。境内を歩きまわり、それらの断片に接しながら、頭のなかでゆっくりとそれらがつなぎ合わされ、次第に、この寺にまつわる3人のエピソードに重ね合わされていきます。
明るくて開放的である、風が抜けて気持ちよい、など。人間が心地よく過ごすための場所は、本来そういうことで十分なのだと思います。ですが、何かに思いを馳せることができるような場所がつくられれば、そこは、より懐の深い人間的な空間だと言えないでしょうか。文化人類学者レヴィ・ストロースは、客観的な価値が与えられないような単なる事物にも、個人的な愛着や思い入れが、価値としてきちんと備わっていると言いました。カタチの背景にある記憶をたぐり寄せるようにして、居場所をつくる。そんなことができたら素適だと思います。高桐院はそのよう場所だと思いますし、そのヒントがつまっているように思うのです。
雨に濡れた飛び石ひとつひとつが、何かの物語をもって浮かび上がっているかのような、高桐院の空間。「静かな場所」の真意があるように思います。