京都さんぽ9 ~追憶の庭~

2009-08-25 19:58:32 | 京都さんぽ
 

090825

京都に、僕にとってとても気になる寺があります。大徳寺 高桐院。大徳寺にある塔頭寺院のひとつで、通常見学できる4つの寺院のうちのひとつです。以前にJR東海のCMにも登場しましたが、紅葉が美しいことで有名な場所です。ただ、僕が惹きつけられてやまないのは、紅葉の美しさではなく、その境内がもっている独特の静かな雰囲気でした。これまでに何度となく通って、時間を過ごしてきました。紅葉の季節でなく、むしろそれ以外の人が少ない季節に。
 建築史にもほとんど登場することのない、建築学的には無名の寺。でもその空間には、独特の引力があると思っています。開放的で明るいこととか、風が抜けて気持ちよいとか、そういう意味での心地よさではないようです。うまく言えませんが、何かに思いを馳せる場所、というようなニュアンスでしょうか。
 どんなに美しい風景であっても、ずっと見ていればいずれ飽きるかもしれません。でも、その風景のなかに散りばめられた事物に、何らかの物語を感じとったとしたら。例えばそれが戦国の動乱期を生きた細川三斉・ガラシャ夫妻や、千利休にまつわるものであったとしたら。幽玄な雰囲気のアプローチを抜け、片耳の欠けた燈籠に出会い、敷地奥に配された極端に暗い茶室のなかに、一条の光を感じとる。境内を歩きまわり、それらの断片に接しながら、頭のなかでゆっくりとそれらがつなぎ合わされ、次第に、この寺にまつわる3人のエピソードに重ね合わされていきます。

090825_2

 明るくて開放的である、風が抜けて気持ちよい、など。人間が心地よく過ごすための場所は、本来そういうことで十分なのだと思います。ですが、何かに思いを馳せることができるような場所がつくられれば、そこは、より懐の深い人間的な空間だと言えないでしょうか。文化人類学者レヴィ・ストロースは、客観的な価値が与えられないような単なる事物にも、個人的な愛着や思い入れが、価値としてきちんと備わっていると言いました。カタチの背景にある記憶をたぐり寄せるようにして、居場所をつくる。そんなことができたら素適だと思います。高桐院はそのよう場所だと思いますし、そのヒントがつまっているように思うのです。
 雨に濡れた飛び石ひとつひとつが、何かの物語をもって浮かび上がっているかのような、高桐院の空間。「静かな場所」の真意があるように思います。

090825_3

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都さんぽ8 ~夏の山寺~

2009-08-16 20:59:34 | 京都さんぽ

 小学校の同窓会があり京都に行きました。集まる人数が少ない割には頻繁にあるこの会、今年の会場は上七軒のビヤガーデン。上七軒歌舞練場のなかにあります。詳しくはわからないのですが、この界隈は花街として祇園や先斗町よりも歴史が古く、かつ格が高いとのこと。新選組のエピソードに出てくる花街も、ここだそうです。その中にあって、このビヤガーデンは一般の人でも気軽に入れる場所として人気が高いそうです。歌舞練場や茶室などに囲まれた中庭がビヤガーデンのスペースとなっており、舞妓さんや芸妓さんもテーブルで談笑している、不思議な光景。庶民的な雰囲気になっているのが、気苦労がなくていい感じ(笑) カメラを持って行かなかったのが悔やまれる・・・。
 その日はとても暑く、とてもじゃないけど市中にはいられないような感じでした(後で聞いたところ、毎日こんなもんやで、京都の暑さ忘れたんかいな、しゃあないやっちゃなと同級生にも苦笑いされる始末。)やはり京都の夏は暑いんですね。そこで僕は同窓会の時間まで、山へと逃げ込んだのでした。北西にある高雄という地域の、有名な山寺ふたつを訪れました。神護寺と高山寺。高山寺についてはこのブログでも書いたことがありました。
 建築を職業としていると、おのずと社寺仏閣への興味がわきます。学問としての建築史に通じているのはもちろん必要なことだけれども、それ以上に、それらが現在でもなお心地よい居場所になり得ていることは敬服すべきだし、そのエッセンスをしっかり体感し学びたいものだと思っています。そのとき、建築専門外の人の著作や話のなかに、居心地の良さや美しさの本質が見え隠れするときがあります。例えば、写真家・土門拳。彼の著作に触発されて、このふたつの山寺をもう何度となく訪れてきました。行くたびにいい。いつ来てもいい。そんな風に思える場所は、なかなかありません。

神護寺の、夏の石段。いつ来ても、特別の高揚感があります。

090816


 同じく神護寺の大師堂。土門拳が「しっとりとした佇まいが魅力」と述べた、弘法大師の簡素な住宅。単に素朴であるのとは違い、簡素とはなんたるか、この住宅を前にするとしみじみ考えさせられます。

090816_2


 高山寺石水院。明恵上人の住宅。土門拳はとりわけ冬ざれの高山寺に惹かれていたようだけど、僕にとっては夏もいい。大きな庇が日射しを除け、風が心地よく抜けていく。黒くシルエットになった柱や雨戸と、緑や花との鮮烈な対比が、美しい。単純なつくりなのに、懐のふかい、不思議な不思議な住宅。あちこちに散りばめられている、物語りの込められたような愛らしい造作も、懐を深くしている要因かもしれません。

0908163


 今回訪れて気がついたのですが、残念なことに、愛くるしい造作のひとつ「六葉の釘隠し」が、すべて新しいものに取り替えられてしまっていました。鎌倉時代からの風雪に耐えてきた優美な釘隠しを、来るたびに撫でながら土門拳はいろいろなことを考えたそうです。僕もマネして撫でながら考えること数回。でも、もう叶わぬものになってしまいました。在りし日の写真を思い出に。

0908164




 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都さんぽ7 ~雑木の庭~

2009-04-12 15:41:58 | 京都さんぽ

前々回のブログで書いたことの続きになりますが、京都には「見る」ための庭ではなく、「環境」としての庭がつくられ、残されています。雑木の庭に造詣の深い庭師の方に教えてもらって、今回の旅行で訪れた庭園が、東山にある無鄰菴。「むりんあん」とよびます。

090412_4

「見る」ための庭は、特に室内から見たときに美しくみえるよう、整った形の樹木を選び、バランス良く見えるように構図を決めて配置していきます。それに対して、「環境」としての庭は、クヌギやコナラなどの雑木を多用します。雑木というのは形も細く曲がっていたりして、従来の日本庭園にとっては、まったく価値のないものとして扱われてきたものでした。これらを思い切って6,7メートル以上の高さのものを、ある間隔で植え、上の方には葉を残し、下の方は枝をはらうと、おもいがけないぐらいに地面にはゆったりとしたスペースができあがります。そう、小さなテーブルとチェアを置いてお茶を飲んだり本を読んだりするのにちょうどいい感じ。上を見上げると葉がざわめき、緑を通した光線が心地よく感じられます。冬には落葉するので、地面には明るい光が注ぎます。

シンボルツリーなどがあるわけではないので、庭の中心もありません。だから、庭木が一番よく見える特等席があるわけでなはく、すべてが居場所になる感じ。もともと雑木を用いた自然な庭ですので、逆に掃き掃除もこまめにする必要もないようです。

季節ごとの熱環境をコントロールするのに、雑木の庭を採り入れるのは良い方法だとも言われます。たしかに、人間の知恵で、技術力で、人間の住む環境をコントロールするよりも、なるべく本来の自然の力に委ねる方が、地球にすまわせていただく、という謙虚な感じでいいかもしれません。

思い切って建物の際に雑木を植えると、窓のそばで葉がそよいでいる光景も心地よいでしょうし、細い幹が互いに重なって、フレームを切り取るように風景が見え隠れするのも、おもしろいと思います。

まだ4月ですが、あっという間にどんどん暑い季節になっていきます。窓際の庭木によって遮光や遮熱の効果もあるでしょう。それはなるべくエアコンを使わずに涼風を呼び込む工夫にもつながっていくことでしょう。そのためには、それを実現するための敷地内のプランの検討が不可欠なのですが・・・。

いつのまにか、建物と庭、という風に分かれて捉えられることが多くなってきていますし、建築に関する学校教育も、建物の力でものごとを解決しようとする観点がいまだにほとんどです。前近代の時代の価値観に目を向けると、むしろ新しい発見があるような気がしてなりません。

無鄰菴、勉強になりました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都さんぽ6~素朴で雅な家~

2009-03-25 12:52:38 | 京都さんぽ

先日、京都に行ってきました。参観許可をもらって、いくつかの古建築~京都御所、桂離宮、修学院離宮、茶室「待庵」~を見学しました。これら4つの古建築は、最近の再開発問題で話題になっている東京中央郵便局の設計者・吉田鉄郎が、こよなく愛した建築でした。彼の何十年も前の著書にも、これら4つの建築が美しい写真とともに紹介されています。東京中央郵便局は破壊されつつあるけど、彼の創作の源泉となったこれらの古建築は、国の所有になりしっかり保存・手入れされています。ありがたいことですね。

「建築」という言葉で書き始めましたが、これは的を得た言葉ではないかもしれませんね。建築というとどうしても、工事でつくる床・壁・天井のことをイメージしてしまいますが、これらの古建築はむしろ、自然を人間が住む環境として整備し直し、そのなかに溶け込むようにして住み処を築いています。ここから、「建築」あるいは「住宅」ではなく、「住環境」としての在り方が見えてくるように思います。これからの時代に、より重要になっていく観念ではないでしょうか。

090325_2 

上の写真は修学院離宮内にある建物。全体像を見せぬまま、地形と呼応するようにそっと置かれた壁や屋根。そのなかに映える障子の白。緑とうまく補色になっている左官壁の色。吟味を重ねたことがわかりますが、そのセンスは、慎ましやかで素適だと思います。

090325_3

これは桂離宮内にある、池に面したパビリオン。現代の住宅のインテリアは、ホワイトがベースカラーになることが多いのですが、この時代は、障子と漆喰以外は、ほとんどホワイトという色がありません。その分、窓辺から見る外の風景が鮮やかで、情緒がありますね。

090325_4

「住環境」というテーマからすると、家の内部だけに居場所があるのでは物足りません。家の外に生活を導き出すような仕掛けがあると、暮らしが楽しく豊かなものになります。この燈籠は鑑賞用ではなく、池の周りで過ごすことをうながすようにして立っています。もうすっかり黒ずんでしまった、ずんぐりとした愛らしい表情。時を超えていく形というのは、シャープでカッコイイだけではダメなんですね、きっと。

090325_5

窓からはいってくる光や風景が美しいと、穏やかな気持ちになります。そしてそこでお茶を飲めるスペースになっていたら、素適だなあと思います。素朴な感覚かもしれませんが、コーヒーを飲んだり、ふうふう言いながらおそばやうどんをすするのが心地いいスペースをしっかりと、でも慎ましやかにつくる努力が必要なんだろうと思います。

今回見た古建築は、手入れされた庭と共にあるものでした。でもそれは、いわゆる和風庭園として眺めるものではなく、生活の一部として積極的に入り込み、そのなかで過ごし、楽しむためのものでした。それは、里山の雑木のなかで遊んでいるような感覚にも近いかもしれません。家の内と外の両方を、生活の場として楽しむ。京都にはそんな住まい方を楽しむ「住環境」が、他にもいくつも残されています。それらに多くを学びながら、現代の都市部のように、狭くまとまった庭がとれないよう土地でも、「住環境」として家の内外の生活を考え抜く努力が、これからますます必要なんだと思います。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石水院の釘隠し

2007-08-16 20:31:17 | 京都さんぽ

先日、京都に日帰りで同窓会に行った際、せっかくなので足を伸ばして、高山寺に行きました。京都駅からバスで1時間弱、栂尾の山中にある小さな山寺です。

僕がはじめて高山寺を訪れたのは6年ほど前、写真家・土門拳の著作「古寺を訪ねて」(小学館)を見たのがきっかけでした。元旦。とても寒い日でした。土門いわく、「冬ざれの高山寺こそ、もっとも高山寺らしい真面目にふれる」そうで、その追体験を求めたのでした。

070816

今回は、真夏。しかも猛暑つづきのまっただ中。紅葉の名所ですが、冬と同様さすがにこの季節も人はまばらで、蝉の声だけが延々に鳴り響きます。

土門はその著作のなかで、高山寺石水院の釘隠しについて語っています。とにかく、鎌倉時代からの風雪に耐えた愛らしい六葉の釘隠しをなでているだけで、心が落ち着くのだそうな。僕もついでに、釘隠しをなでながら、いろいろなことに思いを巡らせてみました。

070816_1

建物は「間に合えばそれでよい」という簡素古朴な佇まい。しかも移築。全体よりも、ほんの小さな釘隠しのなかに、積み重ねられてきた長い年月を感じ取る。

それらはどれをとってみても、現在流布している建築学的な評価軸とは、少し距離があるように思います。しかしながら、とても簡素で美しく、これでいいんだ、と思えるような懐の深い雰囲気に満ちています。

建築を勉強し始めてから、大学ではいろいろなことを教わりますが、いつの間にか、建物の見方の判断基準がかたよってきているかもしれません。ひとつの寺に対してだって、建築学的な見方もあれば、写真家からの見方、あるいは宗教からの見方など、解釈の仕方も評価も様々です。盲目的になることなく、懐の深いモノの見方を養いたいものだと、盛夏の小さな古寺にて、つくづく思ったのでした。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする