世田谷美術館で開催されている、建築家・石山修武の展覧会に行きました。石山先生は、僕が建築を学んだ早稲田大学建築科の教授で、大ボスのような存在でした。
はじめて講義を受けたのは大学2年の時。既往の建築意匠論とは距離を置き、社会的な活動として建築を位置づける価値観は、僕ら学生にとって刺激的なものでした。しかし、もともと凡庸な頭の持ち主が、先生の講義を受けていきなり有能になるわけではありません。いざ課題ともなれば、200人もの学生がレースのように案を競うわけですが、僕などはそのたびに凡庸さ・愚鈍さをこき下ろされ(笑)、どのようにしたら石山先生からも好評を受けるか知恵をしぼったものでした。200人ものマンモス学科ともなれば、学生の課題作品ひとつひとつについて先生からコメントを下さるわけではありません。単純に、「普通ではないもの」をつくり先生の目に留まらなければ、コメントをいただくことすらできないのでした。
時間は経ち、僕は村田靖夫さんの事務所に入所し、勉強をすることになりました。「変わったことをするのが建築家だと世間で思われているなかで、変わったことをしない建築家として知られている」という自身への評を好んだ方でした。先生お得意の自嘲気味な(?)態度かもしれません。ただ、その「普通」さは徹底的な検討と努力の果てにあることを身をもって叩き込まれました。そして、その「普通」さを繰り返していく果てに「洗練」があることも、です。古来から続いてきた品格ある建築の文化を担っていく迫力が、実作品には染み渡っていたように思います。
学生時代に、課題作品で村田事務所で担当したような案を提出したら、きっとコメントの壇上には上がらなかったでしょう。「なんだこれ、普通じゃないか」と。でも今は、もう少し複雑に考えるようになりました。「普通」さは決して凡庸などではなく、「洗練された普遍」ともいうべきものになるのではないか、というようなことです。そしてそれは最終的に、社会の中に力強く残っていくものにもなり得ていくのではないか。
一方で、今日、石山先生の展覧会を見ながら、その溢れ出るイマジネーションにはやはり気圧されるものがありました。もう卒業して10年、学生当時のようにその言説にワクワクすることはなかったけれど、大事なモノを感じることができました。自分の道に、仕事に、迫力を持つこと。「オマエら、小さくまとまんなよ」という先生の静かでコワイ言葉が聞こえてきそうでした。小さくまとまることのない、誇り高き「普通」。これはムズカシイ。
石山修武と村田靖夫。1歳違いの同世代のおふたり。顔がコワイところはそっくりで、その作風と哲学は真逆。作品が紹介される誌面でも、同じ壇上に居合わせることはありませんでした。そのおふたりの先生を見て建築を勉強できたことを、有り難く、そして誇りに思います。