雑誌「芸術新潮」の今月号の特集は、「パリと骨董」。僕は特に骨董趣味もないし目利きでもありませんが、「パリ」と「骨董」という組み合わせ、そして味のある表紙や中味の写真に惹かれ、またもや今月号を購入。いろいろと難儀な論戦が繰り広げられそうなテーマでも、ほどほどにお軽く、素人目線を意識した適度に茶化したコメントを織り交ぜつつ、美しい写真と味のあるエッセイでうまく構成してくれるのが、この雑誌のいいところ。それに釣られついつい買ってしまい、いつの間にかだいぶたまってしまった・・・。
さて。パリと骨董といえば、パリの下町クリニャンクールの蚤の市を思い起こす人も多いのではないでしょうか。実際に「芸術新潮」でもそのことが取り上げられていて、界隈のいきさつからはじまって、最近の名物商人のことなども紹介されていました。
僕自身は、12年前にはじめて海外旅行に行ったときに、クリニャンクールの蚤の市を訪れました。とにかく見る風景がすべて新鮮に目に映ったときのことですから、この市場でも、やたらと写真をパチパチとって、一生懸命スケッチをしてまわった記憶があります。そして、記念にひとつだけ何か買って帰ろうといろいろ物色してまわったのですが・・・蚤の市とは言っても、今はなかば観光客相手の商売、単なる雑貨が必要以上の値段で売っていました。なかには本当に貴重なものもあるのでしょうけれどもね。
結局、僕が選んだのはこの燭台。
とりわけ怪しそうな店で、怪しそうな物があれこれと並んでおり、そのなかで妙に味を出しているように見えたのでした。実際のところ、これがどういうものなのかはわかりません。古くから使われてきたことは間違いなさそうでしたが。パリのどこかの廃屋で拾われてきた、ような。時を味方につけて、この単なる真鍮の燭台は、静かな存在感をたたえています。
日常にある、たんなる物が、美しいものに思える。誤解を恐れずに単純に言えば、骨董のもともとの魅力はそんなところにあるかもしれません。そう考えれば、普段僕が使っているお箸やお皿、コップ、テーブルやソファだって、そしていつも眺めている緑だったって、ぜんぶみんな「骨董品」として高い位を授けられるのかも知れません。
とまあ、それは言い過ぎですが(笑)、でも、物には、デザインや値段とは異なる価値が備わってくると思います。それは使い続けたり存在し続けたりすることで、個人にとっての思い入れなどの特別な価値のことです。他人の目にはたんなる普通の物に見えても、別の人には特別な物に思えるかも知れない。物の姿かたちは誰の目にも同じですが、それを通して何かを連想したりイメージさせたりする物は、より味わいの深い「物」と言えるのかも知れませんね。普通だけど、普通じゃない物。イメージのなかで、奥深い何かが流れ出す物。そういうものを意図的にデザインできたら素晴らしいなあ、と、常々思います。カタチが同じであるならば、その置き方や見せ方で、そんな雰囲気はつくることができるかも知れません。そういう置き方なり見せ方をつくれるところも、建築がもつ大きな可能性かなあと思っています。