前々回のブログで書いたことの続きになりますが、京都には「見る」ための庭ではなく、「環境」としての庭がつくられ、残されています。雑木の庭に造詣の深い庭師の方に教えてもらって、今回の旅行で訪れた庭園が、東山にある無鄰菴。「むりんあん」とよびます。
「見る」ための庭は、特に室内から見たときに美しくみえるよう、整った形の樹木を選び、バランス良く見えるように構図を決めて配置していきます。それに対して、「環境」としての庭は、クヌギやコナラなどの雑木を多用します。雑木というのは形も細く曲がっていたりして、従来の日本庭園にとっては、まったく価値のないものとして扱われてきたものでした。これらを思い切って6,7メートル以上の高さのものを、ある間隔で植え、上の方には葉を残し、下の方は枝をはらうと、おもいがけないぐらいに地面にはゆったりとしたスペースができあがります。そう、小さなテーブルとチェアを置いてお茶を飲んだり本を読んだりするのにちょうどいい感じ。上を見上げると葉がざわめき、緑を通した光線が心地よく感じられます。冬には落葉するので、地面には明るい光が注ぎます。
シンボルツリーなどがあるわけではないので、庭の中心もありません。だから、庭木が一番よく見える特等席があるわけでなはく、すべてが居場所になる感じ。もともと雑木を用いた自然な庭ですので、逆に掃き掃除もこまめにする必要もないようです。
季節ごとの熱環境をコントロールするのに、雑木の庭を採り入れるのは良い方法だとも言われます。たしかに、人間の知恵で、技術力で、人間の住む環境をコントロールするよりも、なるべく本来の自然の力に委ねる方が、地球にすまわせていただく、という謙虚な感じでいいかもしれません。
思い切って建物の際に雑木を植えると、窓のそばで葉がそよいでいる光景も心地よいでしょうし、細い幹が互いに重なって、フレームを切り取るように風景が見え隠れするのも、おもしろいと思います。
まだ4月ですが、あっという間にどんどん暑い季節になっていきます。窓際の庭木によって遮光や遮熱の効果もあるでしょう。それはなるべくエアコンを使わずに涼風を呼び込む工夫にもつながっていくことでしょう。そのためには、それを実現するための敷地内のプランの検討が不可欠なのですが・・・。
いつのまにか、建物と庭、という風に分かれて捉えられることが多くなってきていますし、建築に関する学校教育も、建物の力でものごとを解決しようとする観点がいまだにほとんどです。前近代の時代の価値観に目を向けると、むしろ新しい発見があるような気がしてなりません。
無鄰菴、勉強になりました。