国立西洋美術館の常設展示のなかに、とても惹きつけられる絵があります。カルロ・ドルチ「悲しみの聖母」と題された、一枚の油彩。
常設展示ですから来場者もまばらなのですが、比較的多くの人が、すっと寄っていっては、しばらくご覧になっていることが多いようです。人を惹きつける何かが、きっとこの絵にはあるのでしょう。
カルロ・ドルチという画家について、ぼくは何も知りませんでした。この画家が描く絵だからすばらしいのだろう、というような予備知識にたよることなく、絵そのものに惹きつけられたことは、とても新鮮な経験でもありましたし、本来は大切なことのように思います。
この画家について少し調べてみると、17世紀のフィレンツェに生きた人であることがわかりました。宗教画家で、聖母像などの比較的小品をくりかえし描いたのだそう。いくつかは名画として名だたる美術館に収蔵され、そのひとつが、この西洋美術館の作品なのだそうです。
聖母像ですから、基本的な構図はすでに概ね決まっています。ですから画家の個性は、色の選び方や絵の具の付き方、そういったところに大きく表れるのだろうと思います。ですがこのカルロ・ドルチの作品は、作品を個性的たらしめようとする作為が感じられないのが、深く内省的な気分をより高めているように思います。
驚きや物語性があるような画面ではないのに、なぜ、ずっと観ていることができるのだろう。画面には描かれていないけれども、目には見えないけれども、それでも画面を通して滲み出ているものとは一体、なんだろう。西洋美術館に行くたび、そんなことを思いながら、この絵の前で時間を過ごしています。
展示室の周りに並ぶあらゆる絵画のなかで、この聖母像の絵は、極めて単純な構図と配色であることも、特徴といえるかもしれません。単純でありながら、その掘り下げ方に凄みがあるというべきでしょうか。ラピスラズリの印象的でありながらどこまでも深い青。自己の内面を見つめているような表情。それは決して説明的ではないですし、暗示的にふるまうこともないのですが、観る者を深い静けさと穏やかさのなかに誘うものだと思います。もちろん宗教画に課せられた本来の役目があるとはいえ、観る者の胸の内に、このような静けさや穏やかさをもたらすことにこそ、この作品の極めて重要な意味があるのではないか、そんな風に感じています。
17世紀に生きた画家が、くりかえし同じ題材を描くことによって自身の技を磨き上げていき到達した画風。何世紀も昔に描かれたものとはいえ、フレスコ画などと異なり、「古びていく」美徳があるわけではありません。むしろモザイクタイル画のように変わることのない、普遍的ともいえそうな美しさに満ちていると思います。モザイクタイル画は、光を受けて美しく輝きますが、カルロ・ドルチのこの聖母像は、油彩ゆえ寡黙です。その分この絵は、まるで絵の内側から光が発せられるような美しさをもっているように思います。その美しさが、数世紀を隔てた人間の心にしっかりと届いているという事実に、感銘を受けずにはいられません。