街に向かって悪態をつく。
空に向かって暴言をはく。
自分の陥った境遇のすべてを
自分以外のすべてに責任転嫁して
顔をどす黒く染めて呪う。
「馬鹿野郎! てめえ」
それから小さな声で謝る。
力なく視線を落とし謝る。
自分のしてきた事すべてと
自分のしてこなかったすべてに
顔を薄赤く染めて謝る。
「馬鹿野郎が・・・・・・・」
街に向かって悪態をつく。
空に向かって暴言をはく。
自分の陥った境遇のすべてを
自分以外のすべてに責任転嫁して
顔をどす黒く染めて呪う。
「馬鹿野郎! てめえ」
それから小さな声で謝る。
力なく視線を落とし謝る。
自分のしてきた事すべてと
自分のしてこなかったすべてに
顔を薄赤く染めて謝る。
「馬鹿野郎が・・・・・・・」
高橋是清と言う人の自伝を読んでいる。どうもすごい人物である。若いときにアメリカに渡ると、騙されて奴隷のように働かされ、日本に戻ってきてからは実に多種多様な仕事に就いたり辞めたり、一念発起して猛勉強したり、飲んだくれて放蕩したりしている。大事業にも失敗する。そのあと日銀総裁になり、さらには日本の首相にまでなるはずだが、まだそこまで読み進めていない。これだけ乱暴に生きながら、なおかつ大きな仕事を成し遂げるところがすごい。
翻って我が身を思うと、乱暴にも生きていないが、大したことをしていないなあとつくづく感じる。器も違うが、時代も違う。と、時代のせいにしたがるところが、何より器の小さい所以かもしれない。
雨上がりに湧水を汲みに行きながら、そんなことを考えた。
仕事と仕事の合間を縫って、夫婦で鷲が峰に登る。前回悪天候で断念した山である。
牛が背中を丸めた、その背中の稜線を登る感じの山である。険しくはないが木立もない。眺望はいいが、夏の盛りには木立が欲しい。天日に晒され、危うく熱射病になりかけた。
往復で二時間とかからない山だから、時間を持て余し、麓の八島湿原まで歩く。
空き地の前を通りかかると、ちょうど昼時で、四方から約束しあったように人々が次々と集結し、弁当を広げ始めた。コンロを焚いている人もいる。ああ、ここならと、我々も携帯コンロを取り出し、念願のマルタイラーメンを作った。隣では魔法瓶の湯でカップラーメンを啜っていた。離れたところでは缶ビールを二、三本空にしている年寄り衆もいた。みんなそれぞれだが、なぜか寄り集まって食事をするのである。こういう暗黙の了解のような場所がどの山にもあるらしい。こんな風景を見ていると、みんな本当は歩きたいのではなく、食事がしたいのだ、それも、自分たちの献立をさりげなく見せ合いたいのだと思ってしまう。つくづく不思議な人種である。我々夫婦ももちろんその仲間である。
マルタイラーメンはあっさりして美味しかった。
食事を終え、再び歩き出す。次回は何を作ろうか、リゾットにしようか、などと言い合いながら歩いていたら、突然の大雨に打たれた。全身濡れ鼠である。あまりよこしまな考えで歩いていたから、天罰が下ったのかも知れない。
次回は乗鞍か。
雨の中、バス停で佇んでいたら、俺が待っているのはバスではないことに気付いた。
誰かを待っていたのだ。水飛沫にズボンの裾を濡らしながら、ずっと、俺は誰かを待っていたのだ。だが誰を、何のためにここで待っているのかは、どうしても思い出せなかった。
背後でガマガエルがゲ、ゲ、と鳴いた。
雨は時刻を誤解させるほど激しく降った。日はもう沈んだかもしれない。それともまだ沈んでないかも知れない。バス停に立っているのはまったく俺だけであった。山あいの崖の多い田舎道である。こんな辺鄙なところにバス停があること自体が不思議でしょうがない。いったい日に何人が利用するのだろうと思った。だが自分は雨の降りしきる中、傘を差して、何かが来るのを目を凝らし、じっと待った。
そのうち俺は、自分が過去の人生においてずいぶんひどいことをしてきたような気分に襲われた。吐き気を催すように、急にそんな気持ちになった。なぜそう感じたのかはわからない。だいたい具体的に何をしたのか全然思い浮かばない。だが、何にせよ相当ひどいことをしたに違いない。そうでなければ、こんな土砂降りの中、待ちぼうけを喰わされている必要もないではないか────
────いや、馬鹿馬鹿しい。俺は冷笑を浮かべた。心に余裕を持たせるためあえて笑ってみたのだ。もっとも、疲れと冷たい雨のせいで、俺の浮かべた笑みは不自然に歪んだに違いないが。どうも自分は冷静さを失いつつあるようだ。それも致し方ない! 靴なんてもう海に浸かったようにぐちょぐちょだし、ズボンときたら脚にべったりとひっついて、不快なこと極まりない。何より苛々させられるのは、さっきから何のためにここでこうして待っているのか、どうにも思い出せないことだ。こんな風にいつまでも来るかわからないものを待っていたら、それこそ自分の正気が────ええい、帰ってやれ。どこへ? ここでないどこかへ!
ガマガエルがすぐ背後でゲ、ゲ、ゲ、と鳴いた。
俺が横を向いた瞬間、雨音や蛙の鳴き声に混じって、遠くから車の音が聞こえてきた。おそらく大きな車体である。あれはバスか。バスが、来るのか。忽然と、ずっと昔、俺はこの場所でバスを待っていたことを思い出した。あれは確か、小学校の低学年の頃だった。俺は隣村に独りで探検に出かけた。夕方になり、急に怖くなって、帰るためにバスに乗ろうとして────でもあの時は、雨は降ってなかったはずだ。それにあの日、結局バスは来なかった。長い田舎道を独りでとぼとぼ帰った───だが今は、ほら、バスのはっきりと近づく音がする。来る・・・・・・左手に百メートルくらい離れた曲がり角から、バスが現れた。相当古い型の錆びついたバスである。水溜りのあちこちに出来た峠道を、飛沫を上げ、ガタゴトと振れながらこちらに近づいてくる。目を凝らすと、意外なことに、満席らしい。つり革につかまっている人影も見える。こちらに近づくにつれ、乗客の表情まで見えてきた。どの座席の顔も、一様に青白く、苦痛に歪んでいる。車酔い? 小さな子供も窓にへばりつくようにいる。ねじれた腕を差し上げている老人もいる。それにしても酷い表情ばかりである。なぜそんな思いまでして、バスに揺られて・・・・・・バスは俺の目の前で、ガタン、と停車した。
運転席の窓が開き、運転手が顔をこちらに向けた。額と頬骨の張った、ひどく仏頂面の男だった。
「乗っていくのかね」
雨でも掻き消されない野太い声である。
俺はうろたえた。一刻も早くここを立ち去りたかったが、正直、このバスには乗り込みたくなかった。だいたいこれだけ人が乗っていて、自分の入る余地などあるのだろうか。そうだ、ひょっとして、これはどこか焼き場にでも向かう貸し切りバスなんじゃないか。だからみんな、こんなに悲しげな表情をしているのだ。その全員が、今や珍しいものでも見るように俺を見ている。それは決して気持ちの良い風景ではなかった。
「この人たちは・・・」
俺は、このバスの行き先を聞くつもりで口を開いた。
運転手はほとんど憤慨せんばかりに俺の言葉を遮った。
「この人たちかい、この人たちは、お前さんが殺してきた人たちだよ」
俺は傘を落とした。大粒の雨が俺を激しく打ち据えた。今や、はっきりと思い出した。俺は、**社の開発事業部で働いていたのだ。俺たちが作り出した化学薬品を経口摂取することで、何人もの人々の寿命が縮まったのだ。すぐには死なない。すぐには死なないが、その効果は長期にわたり身体を蝕み、様々な健康被害をもたらす。その因果関係が内部調査で明るみになっても、会社の利益保護のため、俺たちは事実を完全に隠蔽し続けたのだ。警察もマスコミも、ついに気づかなかった、それが真実なのだ。しかし開発グループの主任として、俺は自責の念に苛まれた。体調を崩し、会社を辞め、自殺しようと思い立ってこの村を訪れたのだ。だが────
雨か冷や汗かわからないものを全身に感じながら、俺は考えを巡らせた。もし、もしそのことだとしたら、犠牲者の数は、こんなちっぽけなバス一台に入り切る人数じゃない・・・・・・・
俺の耳に、また別のエンジン音が届いた。遠くの曲がり角から同じ型のバスが現れた。それに続いて、また別のバスが、次々と。
膝の関節が勝手に踊りだし、俺の体が崩れ落ちた。
(おわり)