た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

小雨《10月6日改訂版》(一杯目)

2005年10月04日 | 寄席
 えー、お耳汚しな身上話ってところを一席。
 「雨の日は雨を楽しむ簾かな」ってな句をどなたさんかお作りなすったのを拝見したことがございますが、いい句でございますね、あの晩は珍しい小雨の晩でして、何しろ年中乾燥したこの街には小雨も慈雨と思えるわけでして、ひょいと時間のできたのを幸い、傘も差さずに街をぶらついたわけでございます。
 秋口でしたから、秋雨、といったところだったんでしょうなあ、しばらくひと気のない交差点でじっとたたずまないと、降ってる雨脚にも気づかないような、そんな気持ちのよい霧雨でございました。
 元来が私は、冒険てなもんにおくてな方でありまして、とくに金のかかる冒険には金をかけたくないという根っからの貧乏根性でありまして、スナックなんぞというお絞り突き出し付き一杯何千円という所にはもう、会社の金か取引先の金でない限り足を踏み入れたことがなかったんでございますが、ちょうどその晩、小雨の降る夜の街の橋のたもとで、私は見つけたんでございます。「小雨」という名の看板を上げたスナックを。(つづく)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小雨(二杯目)

2005年10月04日 | 寄席
 また景気の悪い名前をつけたもんだと思いながら、ちょうど小雨の降る晩ってこともありましたし、何やら心ひかれて、冒険嫌いの私が冒険心を起こして、店のドアを押したんでございます。へへ、私事で恐縮ですが、ちょうど女房と私のやりくりのことで大喧嘩して、まあ私の酒が過ぎるだの、月給を考えて飲めだの、あんまりうるさいんで私が灰皿を叩き割ってやったら女房のやつ、泣きながら離縁の話を持ち出しやがって、それで余計に頭に来て私から家を飛び出したと、まあ打ち明けちまえばそういう晩でしたんで、それも私を大胆にした遠因だったんでしょうなあ。へへ。性の悪い日にゃ性の悪いことが起こります。
 樫かなんかでできてんのか、やたら重い木造りのドアを押し開けますてぇと、中には四十代くらいの細面の綺麗なママさんが一人でいらっしゃいました。「小雨」さんです。ええ、「小雨」ってのはママさんの名前だったんでございますよ。(つづく)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小雨(三杯目)

2005年10月04日 | 寄席
 したたか飲みましたなああの晩は。金がないのにダルマ一本空けましたもんねえ。何しろママに味わいがあるんだ、でしゃばらず、かといって気がつかないわけじゃなくて、たとえば私の煙草が雨でしけっているのに気づいてですな、私がライターで火をつける前に、かるく煙草を遠火であぶってくれたほどですからねえ。
 「ママさん、ママさんの名前が小雨ってことはわかったけど、そりゃもちろん本名じゃないでしょう。違うかい?失礼ながら。ねえ、どうして小雨って名前をつけたんだい」
 私のそういう若気の至りの不躾な質問にですな、ママさんはバージニアスリムの煙を細く噴き出してから、困ったように微笑んで因縁を聞かせてくれました。
 あ、申し上げるのが遅れちまいましたが、ママさんは黒いシャツの胸元に見える、そう、ベージュ色のツィードってやつを着てました。ちょっと鬢のよじれた、二重まぶたの物憂げなママさんには、それが妙に似合ってたんでございます。(つづく)
                                                 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小雨(四杯目)

2005年10月04日 | 寄席
 「なんとなく陰気な名前でしょ」
 ママさんは慌てて首を横に振る私を、無視するように遠くを見つめて言葉を続けましたね。
 「でも、この名前にしないと、待ってることを忘れてしまう気がしてね。恐いんですよ」
 ほう、何を────というか誰を、と私は聞き返しました。たぶん男だろうな、とは見当がつきましたんでね。
 ママさんは静かな笑みを浮かべながら煙草を人差し指で叩いて、長い灰を落としました。
 「誰をって、そうねえ。何を待ってるってことに答えるなら、小雨の降る晩かなあ・・・」
 「へえ。じゃあ、まさに今晩じゃない」
 「正確に言えば、小雨の降るあの晩です」
 私は頬杖を突きました。実はちょっと寒気がしたんですが、まさか秋口にエアコン入れてくれも言えませんからねえ。さては雨に長く濡れすぎたか、と今更ながらその晩の徘徊を後悔しましたね、ちょっとだけ。
 「この話聞きたいですか?」
 ママさんは物憂げな目でじっと私を見つめました。物憂げな目で美人に見つめられたらですよ。もちろん、と答えるより他ないでしょうに。(つづく) 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小雨(五杯目)

2005年10月04日 | 寄席
 それなら、とママさんは新たな煙草を取り出しました。煙草を箱に軽く叩きながら四五分間もあったでしょうか、火を点けるまでずいぶん長かった気がしますねえ。
 「もう二十年も前のことになります」
 ようやくママさんが口を切りました。
 「この店の前に橋があるでしょう」
 ええ、と私は相槌を打ちました。
 「小さな橋ですが、私にとっては人生のすべてと言っていい橋なんです」
 私ゃ相槌も控えましたよ。
 「ちょうど今日みたいな小雨の落ちる晩でした。好きになった男がいて、私より四つも若い医大生だったんですけどねえ。酒場で偶然知り合ってから、三ヵ月後のその小雨の晩まで、ずいぶん・・・ごめんなさい、のろけのようですけど、ずいぶん逢瀬を重ねました。私にとって人生で一番濃い時間の流れる三ヶ月でした。
 「でも当時の私は、仕立て屋のミシン娘。生きる唯一の楽しみは月に一度きりの外で飲むお酒だってくらいですから、将来を保証された医大生と添えるわけはないんです。ふふ、あの当時冗談で思ったんですけど、同じ縫う仕事でも、針が違えば人生が違うくらいの開きになるんですよ。(つづく)
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小雨(六杯目)

2005年10月04日 | 寄席
 「身も心も奪われた挙句、男に切られました。これから国家試験が控えてるだの、自分はこの先まだどうなるかわからないだの、いろいろ言い訳を並べ立てられて。それを聞かされたのがあの橋の上で、小雨の降る晩だったんです」
 ママさんは私に酒を注いでくれました。ダルマはとうに空になってたから、おごりですよ。私ゃヘネシーってな酒を、あの晩初めて飲みましたよ。それ以降一度も口にしてませんが。
 「男は気づいてたんですよ」
 ママさんは煙草の煙を吐いて続けました。「私のお腹に赤ちゃんができてるってことを。その話がしたくて私がその晩彼を呼んだんですが、さすが医大生ですよね。前から大体気づいていたんです。気づいてたはずです。だって私がその話を切り出す前に、別れ話を持ちかけたんですから。私に何一つ自分の話をさせてくれなかったんですから。
 「男はその橋に私を残して去っていきました。傘だけ残して。その傘は風が吹いてすぐに川面に飛ばされちゃいましたけど。赤ちゃんは」
 ママさんは押し黙りましたね、そこで。言葉を捜してる按配でした。
 「流産しました」
 その辺はママさんのほんとの事実かなあと疑いましたよ、私も。言葉を捜す表情からしてね。ま、よくわかんないですが。
 「すべてを失って、私はそれ以降の二十年間を生きてきました。あの橋で、すべてを失ったんですよ。すべてを。記憶だけは────失いたくても、失えなかったです」
 ママさんは表情を明るくしました。痛々しかったですけどね。
 「ごめんなさいね。暗い話をして。でもね、小雨が降ると、どうしてもあの晩を思い出して、ひょっとしてあの人が帰ってくるかしらと、馬鹿な望みを持ってしまうんですよ」(つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小雨(お勘定)

2005年10月04日 | 寄席
 私はまた寒気を感じましたね。しまったな、どうも風邪をひきそうだぞ、と思いました。大したことのない雨っていっても、案外肩の辺りがいつまでも湿ってたりするもんですからね。
 「じゃあママさんは」
 と私はここでなんか言わなきゃな、いろいろ話してくれたんだから、と思いましたよ。
 「じゃあママさんは、二十年間、この店を開いてずっと小雨の降る晩を待ってたんだ」
 ええ、と彼女は小さな声で答えました。
 「でも待ったかいがありました。ようやくあの人が戻って来てくれたんですから」
 
 びっくりしましたね、私は。慌てて周りを見回しましたが、もちろんこの店には私とママさんきりしかいません。そのとき地震が来たように全身がぐらぐらっときて、頭の中で何か殻みたいなものが割れた気がして、突然、思い出したんですよ、私は。鮮明に思い出したんです。私には二十年前、小雨の降る晩に、あの橋でふった女がいて、その女はそれから一ヶ月も経たない内に、同じあの橋から身を投げて、死んじまっていたことを。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小雨(  )

2005年10月04日 | 寄席
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小雨(二日酔いの翌朝)

2005年10月04日 | 寄席
 そこからの私の記憶が、無いんですよ。ええ、きれいさっぱり。無いんです。まあ酔いつぶれて記憶が飛ぶってこたぁそれまでも再三ありましたがね。あれだけ見事に、カッターで切り取ったようにきれいに記憶が飛んだのは初めてだ。
 「もうお昼過ぎるよ。いい加減起きないとほんとに離縁するよ」
 って女房に起こされて気がついたら、我が家の布団の上ですよ。私ゃ再度びっくりしましたんでございます。聞きゃ、明け方、泥酔してふらふらになって帰って来たって言うじゃないですか。しかも、びしょ濡れでね。
 「そんな土砂降りでもなかったはずだけどね。どんだけ長い間外をほっつき歩いてたんだい」
 そう女房は言うんですよ。確かにゆうべはずっと霧雨だった。明け方に土砂降りになったって話もついぞ聞きません。それに気持ちの悪いことに、緑色の水草みたいなものがスーツについていたらしいんです。そいつは私ゃ確認してません。女房がすでに洗い落としてたんでね。

 不思議なのは、まあ何もかもすべてが不思議でならないんですが、とりわけ私が不思議に思うのはでございます、夢か幻かはともかく、あのスナックでママさんと話したところまでは鮮明に覚えてまして、それはいっくら時が経っても忘れないんでございます。夢とも幻とも、正直、とても私には思えないんですなあ。
 いいですか。私がふったあと自殺した女なんていないんですよ。いないんです。いないに決まってるんです。二十年前だろうが三十年前だろうが。でも、ああ、俺には確かにそんな女がいた、とあのとき強烈に思い出した、その背筋が凍るような感覚だけは、この五体に、入れ墨のようにしっかりと刻み込まれて残ってるんでさあ。
 そういうことってございますかねえ。
 あの女の最後に放った言葉、待ち人が来たって言葉。あれがどういう意味だったか、確かめたくて、それから何度もあの橋のたもとの辺りをうろうろしてみたんですけどねえ。「小雨」って名前のスナック、いまだに見つけきれないんでございます。
 それが不思議と言やあ、一等不思議でございますが。


(終わり) 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする