た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

春・一番

2016年03月31日 | 短編

   怒りと憎しみは違う。憎しみと悪意はもっと違う。だんだん下等になるのだろうが、気がついて見れば、世間一般その辺の機微を一緒くたにごった煮にして、悪臭をまき散らし、わりかし平気である。

   ただこれらに連続性があるのも事実である。怒りは憎しみを呼び、憎しみは悪意を喚起させずにいられない。順次、正義感は薄まっていくが、欲得打算の気配は次第に濃くなっていく。そんなことを考え始めると、ひょっとして資本主義の根幹は悪意ではないかとまで勘ぐってしまうが、もちろんそれは勘ぐり過ぎであろう。

   桜が咲き始めた。桜はあくまで、あくまで美しい。たとえ人類が滅んでも、桜の木一本残れば、それは春に確かな花を咲かせよう。可笑しなことを言うようだが、逆を考えてみられたい。花が滅んで、人が独り地上に生き残ったとして、その人物は果たして幸せを咲かせようか。

   人間の営みなど所詮その程度である。憎しみは執念く居場所を探し、花は潔く咲いて散る。

   三月が終わった。四月である。

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夜酒

2016年03月29日 | essay

  庭のフットライトと会話をする。庭と言っても猫の鼻下程の小庭、フットライトは当然ながら太陽光発電のホームセンター安値量産型だが、ウィスキーのストレートをくゆらせながらの春の夜のフットライトと二人きりの小庭は、さほど悪くない。

  私「私にはまだ力がありますか」

  フットライト「・・・・・」

  私「力があったとして、私にはその力を出せますか」

  フットライト「・・・・・」

  私「それとも、私がまだ出したことのない力がこの体のどこかにあったりしますか」

  フットライト「・・・・・」

  私「そうですか────そうですよね。さて。どれだけのことを、あと私は、学ぶ必要がありますか」

  フットライト「・・・・・」

  私「はい。ごちそうさま」

  さほど悪くないとは言ったが、フットライトとの会話は、もちろん、さほど盛り上がりもしない。グラス半杯分のウィスキーをあおった後で、冷えた体を温めに、私は家人たちの待つ家の中に戻っていった。

 

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春スキー

2016年03月24日 | 俳句

   スキー部(部員三名)念願の一泊スキー合宿を実現する。白馬は山独特の気まぐれな天候を垣間見せながらも三月としては贅沢すぎるほどの雪を用意してくれた。おっさん三人が夜は一升瓶片腕に学生気分で語り合い、昼はスキー教室さながらにノンストップで滑るのだから、なかなか侮れない部活動である。

 

               ゲレンデと   春日と   仲間と   今生酒(こんじょうしゅ)

 

  

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準備

2016年03月17日 | essay

 新しい仕事場のペンキ塗りをする。人に頼む余裕がないから自分でペンキを買って塗る。ペンキ塗りは自分で言うのもなんだが相当に下手くそである。小中学校の水彩画のころから、自分は塗るという作業が救いようもなく下手なのだなあと思っていた。ムラが出るのである。線描はそこそこ自信があるだけに、いつも彩色の段階で絵を駄目にするのが悔しかった。

 それでも今回は、わが仕事場でありわが城となる場所のペンキ塗りなのだから、気合が入った。わずか壁一面分を、三時間ばかりかけて、何度も何度も塗り直した。塗り下手自認派が初めて挑戦した壁塗りにしては、そこそこの仕上がりだと満足している。

 新しく何か歩み始めるときは、新しい呼吸の仕方をしなくてはいけない。何となくそう思う。深く、しっかり、息を吸い込まないといけない。そう思いながら、『八時だよ全員集合』の終盤並みにどたばたした日常の中で(懐かしいなあ)、息継ぐ間もなく日々を過ごしていた。ローラーを置き、そこそこ綺麗になった壁と、まだ何も備品の入っていないがらんどうの空間を眺め回しながら、私はようやくまだ浅めではあるが長い吐息を一つ吐いた。

 

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一人酒盛り

2016年03月14日 | essay

 人は逆境に立たないと創造的にならない。キノコを見給え。環境が良すぎると地中に菌糸ばかり伸ばして地上にキノコを生やそうとしない。環境が悪くなってこそ、胞子を飛ばそうとしてキノコを屹立させるのだ。人間もしかり。賢者ポアンカレは確かそんなことを言った。何かで読んだ本にそう書いてあった。

 逆境と言えば、自分の人生はどこからどこまでが一つの逆境だったかわからないほど逆境続きだったようにも思えるし、翻せば大した格別の逆境もなく今日を迎えられた気もする。逆境がたとえあったとしても自分がその都度創造的になりえなかったのは、逆境の程度の低さのせいか、わが身のふんばりの弱さのせいか、多分後者だろうが、ここに来て人生四十余年、ようやく、結構本式の逆境と対面する羽目になった。

 人の憎しみと対面している。それも、同時に複数の。そして自分の愚かさも身に沁みて感じている。打開策に迷う。自分にそれができるかどうか。自分の能力は、自分が見込んだほどあるのかどうか。

 私は果たして、キノコを屹立させることができるか。私は果たして、次の我が半生を創造することが出来るか。乞うご期待。そんな思索に耽りながら飲むと、夜更けのビールもことのほか苦く、旨い。

 

 

 

 

  

 

 

 

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コンサート

2016年03月06日 | essay

 人からもらったチケットで、天満さんのストラディバリウスを四賀村まで聴きに行く。ここ数週間休みがなく、おまけに早急に決断を下さなければいけない案件を幾つか抱えており、とてもクラシックに身を委ねる余裕がなくも思えたが、ここが私の卑しいところで、人からタダでもらったチケットなら会場で寝ても構わないと踏んだのだ。

 車を山間に走らせ、道に迷い、村役場の会場に着く。ステージに、村の陽気でおしゃべりなおばちゃんが出てきたと思ったら、その人が天満さんだった。大変失礼な誤解をした。それにしても飾らない人柄である。たとえリハーサルでも、音楽家たるもの、もう少し威厳があるべきではないかしらん。そう思っていたら、彼女の弓が弦に触れた瞬間、不覚にも涙が溢れ出た。

 私は人からチケットをもらったから来た身である。別にクラシックに造詣が深いわけでも、耳が肥えているわけでもない。もっと言えば、私のそのときの精神状態も多少は影響したかも知れない。いずれにせよ、私は最初の曲目で完全に打ちのめされた。あれは誰でもわかる凄さではなかろうか。最前列に少年が座っていたが、あの少年でさえ打ちのめされたに違いない。それくらい深い音色であった。魂を揺さぶる響きであった。

 くどいようだが、人からもらったチケットである。まったくタダも申し訳ないので、入場前に入口で地元の「おやき」を六個ほど購入した。帰りには、天満さんのCDを買おうとまで思ったが、本人のサイン会が始まり、手帳にサインしてもらったら、満足してCDのことを失念してしまった。

 溜まった疲れが綺麗に吹き飛んだわけではない。抱えた案件ももちろん、音楽を聴いたくらいでは片付かない。しかし、確かに、何かをいただいた。サインだけではなく。

 人間というのはいろんなことができるのだなあと、そんな妙なことにまで感心した音楽会であった。

 帰宅してから「おやき」を食べてみた。地粉で作られており、なかなかに旨かった。

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探し物

2016年03月05日 | 断片

 春のような日差しの下、探し物をして街をさまよう。何年も前に閉じたタバコ屋の前で、老人が杖を手に、横を向いて日向ぼっこをしている。私は脇道に入る。探し物はなかなか見つからない。ぐるぐると路地を回って元に戻ると、老人はまだ日向ぼっこを続けている。多少この老人が憎くなる。横を向いた鷲鼻がひときわ大きく見える。どんどん大きく見える。まるでインディアンの顔に似た一枚岩の砦のように。そうだ、と私は愕然として悟る。この横を向いた老人を乗り越えないと、私の探し物は見つからないのだ。彼の立ちふさがる向こうに、その何かはあるのだ・・・・。しかし、彼に立ち向かっていくことはできない。そんなことはまだまだ、私にはとてもできない。老人は身動き一つしない。車も通らない。通りは壊れたおもちゃのように静かである。

 春のような日差しの下、探し物を探す動機すら見失って、私は呆然と道にたたずむ。

 

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