郵便局に行く。外はみぞれ混じりの雨である。咳をしながらATMの順番を待ち、ようやく自分の番が来て機械の前に立つ。キャッシュカードを挿入し、操作画面をのぞき込み、ここではじめてがく然とする。
四ケタの暗証番号が思い出せない。
またか、と思う。なぜ自分はこんなに阿呆なんだと自己嫌悪に陥る。たかが四ケタ、されど四ケタ。銀行のカードが二枚と郵便局のカードが一枚。都合三枚のカードに、各々別々の四ケタの暗証番号が存在する時点で、すでに私の記憶の処理能力を超えてしまっている。ATMの前でがく然とするのは、私の恒例行事である。しかしいくら阿呆でも保身術には長けているので、自己非難の集中砲火を自ら浴びる前に、さっさと責任を社会へと転嫁してしまうのが私である。
四ケタの暗証番号を覚えさせることは、果たしてサービスなのか。便利なのか。進歩なのか。
サービスなのかという問いは、郵政公社や諸銀行に対して発したい問いである。彼らは利用者へのサービスの一環として、利用者に暗証番号を覚えさせ、金の出し入れの作業をセルフでやらせ、結果人件費を削減して儲けている。我々は巧妙にだまされていないか?
便利なのか、とは、ATMの技術一般に対して放ちたき問いである。老若男女に無味乾燥な数字の記憶を強いて、それでもってセキュリティーの一環とする。個々の人間の能力に大きく頼るシステムである。これは果たして優れた発明と言えるのか?
進歩なのか。いったい、これは。人類がこうして「慣れないこと」に煩わされていくのは、果たして進歩なのか。これは世界全体に発する問いかけである。我々が手に入れたのは、果たして自由なのか、それとも全く違う何かか。我々は、四ケタの数字を一生懸命暗唱し、忘却の不安と闘いながら日々何度も復唱しつつ社会生活を送ることで、あるいはひそかに、見えざる権力といったものに管理統制されてしまっているのではないか。
とこれだけ心の中で社会批判を言い放ったのち、私は無言でキャッシュカードを引き抜き、すごすごと郵便局を退散するのである。私の後ろで待っていた人の好奇の目を避けながら。
重いみぞれが首筋を冷やす。
まあ客観的にみて、私が阿呆なのだろう。
四ケタの暗証番号が思い出せない。
またか、と思う。なぜ自分はこんなに阿呆なんだと自己嫌悪に陥る。たかが四ケタ、されど四ケタ。銀行のカードが二枚と郵便局のカードが一枚。都合三枚のカードに、各々別々の四ケタの暗証番号が存在する時点で、すでに私の記憶の処理能力を超えてしまっている。ATMの前でがく然とするのは、私の恒例行事である。しかしいくら阿呆でも保身術には長けているので、自己非難の集中砲火を自ら浴びる前に、さっさと責任を社会へと転嫁してしまうのが私である。
四ケタの暗証番号を覚えさせることは、果たしてサービスなのか。便利なのか。進歩なのか。
サービスなのかという問いは、郵政公社や諸銀行に対して発したい問いである。彼らは利用者へのサービスの一環として、利用者に暗証番号を覚えさせ、金の出し入れの作業をセルフでやらせ、結果人件費を削減して儲けている。我々は巧妙にだまされていないか?
便利なのか、とは、ATMの技術一般に対して放ちたき問いである。老若男女に無味乾燥な数字の記憶を強いて、それでもってセキュリティーの一環とする。個々の人間の能力に大きく頼るシステムである。これは果たして優れた発明と言えるのか?
進歩なのか。いったい、これは。人類がこうして「慣れないこと」に煩わされていくのは、果たして進歩なのか。これは世界全体に発する問いかけである。我々が手に入れたのは、果たして自由なのか、それとも全く違う何かか。我々は、四ケタの数字を一生懸命暗唱し、忘却の不安と闘いながら日々何度も復唱しつつ社会生活を送ることで、あるいはひそかに、見えざる権力といったものに管理統制されてしまっているのではないか。
とこれだけ心の中で社会批判を言い放ったのち、私は無言でキャッシュカードを引き抜き、すごすごと郵便局を退散するのである。私の後ろで待っていた人の好奇の目を避けながら。
重いみぞれが首筋を冷やす。
まあ客観的にみて、私が阿呆なのだろう。