た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

暗証番号

2012年02月25日 | essay
 郵便局に行く。外はみぞれ混じりの雨である。咳をしながらATMの順番を待ち、ようやく自分の番が来て機械の前に立つ。キャッシュカードを挿入し、操作画面をのぞき込み、ここではじめてがく然とする。

 四ケタの暗証番号が思い出せない。

 またか、と思う。なぜ自分はこんなに阿呆なんだと自己嫌悪に陥る。たかが四ケタ、されど四ケタ。銀行のカードが二枚と郵便局のカードが一枚。都合三枚のカードに、各々別々の四ケタの暗証番号が存在する時点で、すでに私の記憶の処理能力を超えてしまっている。ATMの前でがく然とするのは、私の恒例行事である。しかしいくら阿呆でも保身術には長けているので、自己非難の集中砲火を自ら浴びる前に、さっさと責任を社会へと転嫁してしまうのが私である。

 四ケタの暗証番号を覚えさせることは、果たしてサービスなのか。便利なのか。進歩なのか。

 サービスなのかという問いは、郵政公社や諸銀行に対して発したい問いである。彼らは利用者へのサービスの一環として、利用者に暗証番号を覚えさせ、金の出し入れの作業をセルフでやらせ、結果人件費を削減して儲けている。我々は巧妙にだまされていないか?

 便利なのか、とは、ATMの技術一般に対して放ちたき問いである。老若男女に無味乾燥な数字の記憶を強いて、それでもってセキュリティーの一環とする。個々の人間の能力に大きく頼るシステムである。これは果たして優れた発明と言えるのか?

 進歩なのか。いったい、これは。人類がこうして「慣れないこと」に煩わされていくのは、果たして進歩なのか。これは世界全体に発する問いかけである。我々が手に入れたのは、果たして自由なのか、それとも全く違う何かか。我々は、四ケタの数字を一生懸命暗唱し、忘却の不安と闘いながら日々何度も復唱しつつ社会生活を送ることで、あるいはひそかに、見えざる権力といったものに管理統制されてしまっているのではないか。

 とこれだけ心の中で社会批判を言い放ったのち、私は無言でキャッシュカードを引き抜き、すごすごと郵便局を退散するのである。私の後ろで待っていた人の好奇の目を避けながら。

 重いみぞれが首筋を冷やす。

 まあ客観的にみて、私が阿呆なのだろう。
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相性

2012年02月15日 | essay
 向かいの家が飼っている柴犬がしばらく姿を見せないなと思ったら、どうやら子どもが生まれたらしいと妻が興奮して報告してきた。平生は塀の内側で綱でつながれており、そもそもが大変利口で大人しい犬なので、一体どこでどなたに種を頂戴してきたのだろうと、我々夫婦はその晩、酒の肴に想像をたくましくし合った。

 そのうち、向かいの家から子犬を一匹譲り受けてくれないかと打診してきた。犬を飼いたい、という欲望がこちら側も漠然とあったところである。満更でもない申し出だが、ためらいの声も次々と耳元に聞こえてくる。犬小屋はどこに置くのか、誰が毎日散歩するのか、そもそも我々は、犬の飼い方を知っているのか。息子は、柴犬ではなく何とか犬を飼いたいと言い出す(何とかがどうしても覚えられない)。妻は、できれば室内犬の方が・・・と言う。私はどちらかというと野性的な育て方を好む。意見はなかなか収束を見ない。家族三人で差し当たり一致しているのは、父親はどこの犬なのだという不安である。どこ、と特定できない野良犬などであれば尚更気が引ける。飼い犬と飼い主との間にも相性というものがあろう。飼ってみてから予想外の成長をされて、相性が合いませんでしたと途中放棄するわけにもいかない。向かいの家への返事は、今のところ留保し続けている。

 相性というのは難しい。いやそもそも、難しいのかも不明である。

 先日、東京から男二人組が訪れた。

 鹿児島出身の同い年。たまたま高校大学と一緒になり、それぞれ東京で働くようになってからも、年に何度か会って小旅行を企画したりするらしい。そのイベントの一つが、ここ松本に来て私と飲み、スノーボードをやるというものである。もう何回目になるだろうか。会う度に、不思議な取り合わせの二人だと思う。一人は活発で、言うことがはっきりし、テンポの良い会話を好む。もう一方は、万事が熟慮型であり、大人しく、会話の中の些細な発言にも考え込んでしまう。私は大人しい方と大学時代、先輩後輩の関係だったというだけで、活発君とはこのスノボツアーで初めて知り合った。

 二人はお互い相性がいいのか、といえば、疑問である。彼ら自身、互いに腐れ縁だと言い合っている。しかし腐れ縁と言い合える仲は、そんな簡単にはこしらえられないのも事実である。性格も嗜好もぴったり一致する友人関係といったものが長続きするとは限らない。振り返ってみれば、私自身の交友関係も、なぜあいつらと、というような面子ばかりである。彼らも私のことをそう思っているだろう。お互いに気に食わないことも多々あろう。それでも付き合っているのは、もはや「相性」の一言で尽きるものではない。

 では相性とは一体何なのか?

 たまたま学生時代を共に過ごしたり、たまたま同年だったり、果てはたまたま、互いのスケジュールが何度か合ったり・・・そのような、まったくの物理的偶然のもたらす結果に過ぎないのではないかと、最近思えてきた。逆にこう言うこともできよう。そういう瑣末な条件さえ合えば、人は、ほとんど誰とでも付き合えるのではないか、と。いやあんなやつとは絶対、と思う相手がいたとしても、彼と「相性」を合わせるチャンスは、可能性としては割合広く存在するのではないか。たまたま帰宅する方向が一緒だったり、たまたま十分間長く話す機会ができたり、といった程度のことで。

 こんな発想に至ったのは、あるいは、私が結婚したせいかもしれない。そんなことを言えば妻に叱られよう。しかしどう頭を捻って考えても、またどの夫婦を総覧しても、結婚は「たまたま」の産物としか私には思えないのである。

 向かいの仔犬たちを見せてもらった。柴犬にしては毛が浅黒い。何だかひどく凶暴な父犬だったらどうしようと空想してしまう。母犬のように、賢く大人しく、がこちらとしては理想ではあるが、まあこれも予定できない「相性」というやつか。飼ってみなければわかるまい。また、飼ってみれば解決する程度のことなのかもしれない。

 飼うかどうかは、あくまで未定である。しかし何より私は、たまたま向かいの家で、という偶然性に強く惹かれている。どうするかを決める前に、我々夫婦間では、犬に服を着せるべきか否かで、早くも揉め始めている。
 


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スキーツアー第二弾

2012年02月08日 | essay
 二回目のスキーツアーは二月上旬と聞いていたのだが、親分(六十代)の休みの都合で急きょ、先日火曜日に敢行された。

 前日夜から大雨。雪ではなくて大雨なのである。どう考えてもスキー日和ではない。それでも男たちの約束は蜂蜜の瓶の蓋よりも固く、三人とも定時に──つまり朝七時にスキーウェアを着て板を持って集合。進路を北に取り、大町を抜けて白馬を目指したが、やっぱり雨は降り続いているのであった。さすがの我々も中途で断念。方向転換し、一路、葛温泉へ。熱い温泉につかって食事をし、六十代と四十代がべろんべろんに酔っぱらったところで下山した。

 こういう日もある。自分たちのことながら感心したのは、朝の土砂降りを横目に、それでもスキー板を車に積んだことである。あのとき我々は、確かに、大義名分を積んだのであった。

 


 雨止むを 待ちて長湯の 葛の森 (筆者作)


 露天風呂 やってこないか ギャル二人 (四十代作)

 
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