た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

私は犬。(11/29更新)

2022年11月29日 | 連続物語

※これは下書きです。更新の度に書き換え、書き増していますので、ご了承ください。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ああ、犬、犬、犬! 私はどうせ犬よ。犬として生まれてきたからにゃ、死ぬまで犬よ。わかってるわそんなこと。でも私にとって最大の不幸は、犬なのに、なまじ人間に飼われたことね。そうよ。それは私の最大の不幸であり、同時に最大の幸福だったわ!

 くそっ、首が痒いったらありゃしない。首輪のせいだよ。この黒ずんだ赤い首輪、さすがにそろそろ替え時だと思うんだけど。うちの主人ときたら、ずぼらな上に羽振りがよくないと来てるもんだから、もう十年以上も同じ首輪。同じリード。扱いが雑なのよね。

 この家に引き取られたときのことは、あんまり覚えていないわ。まだ生まれて間もない頃だったから。あとから主人と奥さんの会話を盗み聞きしたんだけど、私の産みのお父さんはどこの犬だかわからないらしいの。お母さんが家出した時できたの。でも、生まれた兄弟の毛がみんな柴だから、多分お父さんもお母さんと同じで柴犬だろうって。多分って何?て感じ。そんなこんなで突然ぽこぽこ生まれた子犬たちを持て余したお母さんの飼い主が、方々に頼みこんで、ただで配ったらしいのよ。採り過ぎた竹の子じゃあるまいし、ひどい話よね。それで私は今の主人に引き取られたってこと。うちの主人は今でも言ってるわ。「柴犬って、買えば五十万とかするらしいぞ。五十万だぞ。それを菓子折り一つでもらえたんだから、すごい得したぞ」ですって。随分ね。それに付け加えて言うには、「ま・・・父親も柴犬かどうかはわからんけども」だって。ふん。そういう根性だから、丁寧に飼うわけないよね。

 飼い犬は飼い主を選べない。これは犬界じゃ有名なことわざだからね。

 

 主人は小さな塾を独りで営んでるらしいの。まあつまり、言い換えたらあまり風采の上がらない男ね。塾を大きくする勇気は無いみたい。ぼさぼさ頭の眼鏡顔。眼鏡の奥はギョロ目だけど、世の中を直視する勇気がないのよ。始終眠たげだったり虚ろだったり。それか意味もなくニコニコしているかね。何が楽しいのかわからないわ。要するに凄みがないのよ。もう少し男としての凄みってものがあれば、財産も貯まったと思うんだけど。

 私に対してはさ、一応飼い犬という意識はあるみたいで、することはしてくれるんだけどさ。とにかくめんどくさがり屋なの。朝の散歩でも、私がトイレさえ済ませりゃもう一目散に引き返そうとするんだから。心に余裕がないのよ。朝一時間散歩させるくらい、どうってことないでしょ。忙しいふりして、二十分くらいで済ませるのよ。別に世の中の重要人物じゃあるまいし。多忙なわけないと思うんだけどね。悪いけどこっちは、散歩に命かけてるからさ。大袈裟じゃなくて。だって、散歩と食事だけが生き甲斐だよ。飼い犬なんて、しょせんどこまでも飼い犬だし。自分の生きる意味なんか真剣に考え始めたりしたら、ノイローゼになるよ、ほんと。だから深く考えないことにしてるの。とにかく、散歩の時は少しでも長く散歩する。食事を出されたら皿を舐め回してでも残さず食べる。それだけのことよ。だって毎日やることって、それくらいしかないんだから。私の散歩の姿なんてすごいわよ。のたうち回りながら、ぐいぐいリードを引っ張るの。人間たちのやる綱引きって感じ。喉を締め付けられるから、しょっちゅう咳き込むんだけど、それでも引っ張るの。げほげほ言いながら引っ張るの。主人はなるべく早く帰ろうとする。私は少しでも寄り道しようとする。毎回その駆け引きね。

 夕方の散歩は奥さんの担当。またこの人は女だからさ。愛情深い言葉はたくさん掛けてくれるわけ。「モモ、モモ」って言いながら、撫で回したり、頬を摺り寄せたり、抱きしめたり。あ、モモって私の呼び名ね。奥さんが付けたの。平凡な、よくある名前よ・・・・でも、散歩は呆れるくらい短いんだな、これが。旦那より短いんだから。歩いて五分の公園に行って、トイレさせて、はい終わり。こっちの言い分としたらね、愛撫は半分でいいから、散歩を二倍にしろっつうの。その辺の愛情の履き違いがはなはだしいのよ。

 ま、人間って勝手なもんよ。どれだけ賢いんだか知りませんけどね。木を切り倒して、道路作って、ビル建てて。でも私に言わせりゃ、自分たちがラクしたいだけなんだよ。そう、その辺は猫と一緒。猫なんてまさしく、ラクして生きることしか考えてないもん。我が儘と身勝手が交尾して生まれた動物なのよ。

 

 近所に「たまこ」って名前の白い猫がいるんだけどさ。飼い主の婆さんをどうたらしこんだか、いい餌ばっかりもらってるの。それでぶくぶく太って、憎たらしくなって。傲岸不遜を絵に描いたような面さ。これが私と主人の散歩の途中で、羽二重餅みたいにどでん、と座り込んで、塀の上から見下してくるわけ。

 「おや、今日も紐を付けられてお散歩かい。へへ。ずいぶん幸せなこったね、奴隷犬が」なんて言うの。腹立つよね。

 「うるさい! あんたみたいに役立たずじゃないもん、こっちは」、て吠えてやるのさ。「こっちはね、番犬っていう立派な役割があるんだよ!」

 するとたまこの奴、厚かましくも大口開けたりしてさ。「番犬? 聞いてあきれるよ。ふん。信用されてないから紐を付けられてんじゃないのさ。馬鹿だね。あんた、奴隷って言葉わかるかい。わかんないだろうね。奴隷の一番悲しいのはね、自分が奴隷であることに気づかないことだよ」

 「うるさい! 豚猫! ぶくぶく太るだけ太りやがって、もうネズミも満足に取れないくせに。この役立たず!」

 たまこの奴、喉をゴロゴロ言わせると、毛を逆立てて睨みつけてくるんだ。

 「役立たずで結構。あたしゃ自分が生きたいから生きてるだけだよ」

 そう言い捨てると、丸まってそっぽ向いてさ。もう相手にもしてくれないの。悔しいったらありゃしない。二、三発きついのを言い返してやりたかったけどね。「お前さんだって、人間様に餌を頂戴してる身分だろ」とか。「だったら私と変わりないじゃないか、この自惚れ猫が」とか。でも、何しろ散歩を急ぐ主人に紐を引っ張られるもんだから、げほげほ言って立ち去るしかないんだよ。いつものことだけど。情けないね。

 私だってね。生きたいから生きてるんだよ。

 

 ああ、畜生。首が痒い。

 そりゃ私だってね。もっと自由に生きたいさ。そりゃ憧れるわさ、自由ってものに。毎日紐に繋がれて、狭い小屋に入れられて、人間の勝手気ままに振り回されて。人間様は好きなところへ遊びに行けるからいいけど、こっちはいつでも狭い犬小屋でお留守番ざんすよ。大概にして欲しいよね。人間なんてね、ほんと猫と同じ。けど猫より始末に負えないから。周りに迷惑かける点においちゃね。あれ何、あの、変な臭い煙。あんなもの吹きかけたりしてさ。あんなけったいなもの掛けられたら、大概の虫たちは死にますよ。当たり前ですよ。何だろうね、あれ。ああやって自分たち以外の種族に迷惑かけなきゃ、生きられないのかね、人間って。みんな文句言ってるよ。蟻もカマキリも。何で俺たちを追い出さなきゃ気が済まないんだって。居座るだけならまだしもね。こんな我が儘勝手な生き物は、いつか必ず滅ぶって。そういや最近も誰かがそんなことぼやいていたな。そうそう、隅田さんとこに飼われているモンジロウだ。モンジロウ。これはまたけっこう年老いたゴールデンレトリバーでね。若い頃は、それはそれは立派な毛並みで、すれ違う雌犬たちがもう大変だったって、本人が言ってるよ。本人が言ってるだけだけどね。けど今は、よぼよぼで、おまけに主人が昼カラオケに夢中でさ。こっちに全然手をかけてくれないから、ひどい毛並みになっちゃって。玄関先にほったらかしにされてるの。私なんかが通りかかっても大儀そうに寝そべって、見向きもしないのよ。こっちが吠えると、うるさそうに耳を上げてさ、

 「お嬢ちゃん」

 てこれ、私のことよ。私ももうお嬢ちゃんって年じゃないけどね。こう呼ばれると正直嬉しいもんだけどね。

 「お嬢ちゃん、怪我しねえうちにとっとと行っちまいな」

 「あんたみたいなじじいに怪我なんてさせられるもんか」

 私も生意気なのよね。                                                                                  

 「いいから行っちまいなってんだ、畜生。頼むからさ。人間どもを見るのもうんざりだが、人間に飼われて喜んでいる同族の輩を見るってのは、もっとうんざりなんだ」

 「どうしてよ」

 「どうしてもへったくれもあるか。誇りを失ってんだよ。俺たち犬族は。誇りだよ。わかるか? 畜生。俺たちの牙はな、獲物を引き裂くために尖ってんだ。俺たちの喉はな、遠吠えするためにあるんだ。それが何だ、かじったって旨くもねえ板切れをほうり投げられて、キャンキャン言いながら取りに行かなきゃなんねえ。それで頭撫でられて喜んでんだ。そんなプライドもへったくれもねえ馬鹿犬だらけになっちまったんだよ、いつの間にか」

 「畜生」と「へったくれ」ばかり言う老犬なんだよね、モンジロウは。私はひときわ威勢よく吠えてやったよ。

 「どうせあんただって若い頃は人間に媚びへつらったんだろ! そうやってエサもらって生きてきた癖にさ!」

 「だからこそ落ち込むんじゃねえか、馬鹿。おい、おめえさんも年取ってからてめえの生涯を振り返ってみろ。たいがい落ち込むぜ、馬鹿娘が。さあわかったろ、畜生、早くあっち行きなって」

 お嬢さんが馬鹿娘になったところで、主人に引っ張られておさらばだよ。

 まったく、あんな風に年老いたくないもんだね。

 

 一度だけ、脱走を試みたことがあるの。

 春先だった。桜も散った後の、ぼんやりと生暖かい夜でね。なんだか体がむずむずして、無性に恋がしたくなったの。相手もいないのに、惚れてる感じ。変でしょ。とにかくいてもたってもいられないのよ。あんな気分になること、ときどきあるのよね。

 たまたま首輪が外れやすくなっててね。私って、本当にちっちゃいから。この子豆柴じゃない?って、道で会う人に言われるくらいちっちゃいの。もちろん豆柴じゃないわよ。そんな、豆と柴犬をかけ合わせたみたいな、へんちくりんな生き物じゃないわよ。立派な柴犬よ。多分。でも私としてはね、自分が成長しないのは、エサが少ないせいだと思うんだ。主人の稼ぎが少ないせいか知らないけど、なぜかいつもエサが少なめなのよね。それでおなか減って、散歩の時なんて道端に落ちているものならガムでもティッシュでも何でも食べようとしちゃうんだけど。私、豚みたいに年中腹減っているのよ。可愛そうよね。自分で言うのもなんだけどさ。

 そうそう、脱走の話だった。なんだかその晩は無性に脱走したくなってね。それに、いろんなことがいい加減うんざりしたのかしら。エサが毎日少なかったり、散歩が短かったり。飼い犬としての宿命なんてことをつくづく考えたり。わかんない。とにかくいろんなことが頭を巡っているうちに、腹が立ってきたのよね。苛々っとしてさ。そのとき奥さんが散歩させてくれてたんだけど、思い切り紐をぐいって引っ張ったら────痩せてるからさ────首輪がすぽっと外れたのよ。前も話したように、飼い方がいい加減だもんだから。首輪が首回りに対して大き過ぎるのに、飼い主夫婦が二人とも気づいてなかったのね。ずさんよね。私もそのときまで、気づいてなかったんだけど。

 私、まず首輪が取れたことにびっくりしてさ。奥さんを見つめたままその場に立ちすくんじゃった。けど、奥さんが何か言い出す前に、すぐに駆け出したの。どこへ向かって? そんなことわからない。ただ、走ったの。思いっきり。何だろう。首輪が取れて自由になったことの、驚きと、喜びと、それに不安かな。おまけに全身をむずむずさせる恋心ってやつに駆られたのね。

 奥さんは慌てて、「モモ!」って叫んだ。「モモ!戻っておいで!」って。

 でも私は戻らなかった。戻れって言われても戻らなかった。そんな大胆な行動、それまでしたことなかったけど。いや、あったかな。いずれにせよ、私基本的に臆病だし、現状維持派だからさ。逃げられる、と思っても、ちょっと名前呼ばれたら、大抵すぐ戻ってきちゃうのよ。どうせ野良犬として生きていく自信なんてないし。野宿するって言ったって、寒いのとか嫌だからさ。

 でもそのとき、私は逃げた。

 生まれてこの方、したことがないくらいの全力疾走で。近所の鉢植えを倒して、小路に飛び込んで砂利を蹴散らかして、とにかく駆けた。

 においに導かれてたの。体を鷲掴みするような強烈なにおい。ようやく我に返ったら、私、公園に面した、大きな家の前に立っていた。

 息を切らせながら、私はにおいの発信源を凝視したわ。

 大きな家の庭先の立派な犬小屋。そこからその発信源であるクロが顔を出した。なかなか男前の柴犬でね。名前の通り毛が真っ黒いのよ。

 そう。私、なぜだかクロに引きつけられたのよね。どこに逃げても良かったんだけど、結果そうなったの。好きだったのかしら、クロのこと。普段はあんまり意識したことなかったけど。むしろたまに会うと、クロの方がぶしつけなくらい強引に私のお尻をくんくんかいで来るからさ。どっちかと言うとうっとうしい方だったけどね。

 両家はいつも散歩時間がずれているみたいだし、ここの大きな家の前がうちの散歩コースになることがほとんどなかったからね。クロの顔を見るのは一カ月ぶりくらいだった思う。ただ、彼のにおいが風に運ばれてくるのは、いつも感じていた。

 ところが、よ。

 久しぶりに見たクロは、驚いたことに、全く別の犬みたいに目つきが変わっていたの。とろんとしてね。ちょっと靄がかかったように虚ろなのよ。もっとずっと精悍な目をしていたはずなのに。私、あんまりびっくりしたもんだから、思わずワン、と叫んじゃった。

 見えてんだか見えてないんだか、クロはしばらくじっと私の方に顔を向けたまま、無言だった。

 暗い公園のはす向かいの方で、小さな子どもがキャッキャ騒ぐ声が聞こえた。

 クロは力なく首を振ると、呟いたわ。「なんだ、塾のところの小娘か」

 その声は十歳年を取ったように老けてたね。

 「小娘じゃないわよ、私。もう六歳なんだけど。あんたこそ、今日はまたえらく元気がないわね。どうしたのよ」

 「うるさいな」

 クロは尻尾を垂らしたままぐるぐる回って、座りこんじゃった。

 「とっとと帰ってくれ」

 「何よ。言い寄ってきたのはあんたの方じゃんか」

 「いつの話だよ」彼の顔は本当に迷惑そうだった。「もうそんな気になれないんだよ」

 「どうしたのよ一体」                                                                                

 クロは首をもたげて、遠い目になったね。ちょっと潤んでたと思う。

 「去勢されたんだよ」

 「は?」

 「去勢だよ。わかんないのかよ」

 「去勢って何よ」

 「ふん」クロはまた立ち上がると、居心地が悪そうにまた一周したわ。「人間同士の会話聴いてりゃわかるだろ。あそこをいろいろいじられるんだよ。わけわかんないんだ。それで、家に連れ戻されて、しばらくして気づいたけど、その、つまり、あれをする気がまったくなくなってたんだ」

 「ちょっと、どういうことか全然わかんない」

 そう言っては見たものの、私だって、クロがいわゆるオスじゃなくなったことくらいは十分感じ取っていたわ。

 「あんた、ほんとに去勢されたの」

 「ほっといてくれよ」

 言い捨てると、クロは私に背を向けて小屋の中に入って、それきり出てこなくなっちゃった。

 私は呆然と立ち尽くしたね。

 寒くも暑くもない晩だった。庭の綺麗な家だったから、いろんな花の香りがしたな。公園から子どもたちの歓声と一緒に、桜の花びらも風に乗ってやってきて、アスファルトに散らばっていた。

 そんな中で、私は、どうしようもなく居たたまれない気分になった。

 私の初恋は、去勢手術によってあえなく散ってしまったの。

 そんなことって、ある?

 

 「モモ! モモ!」って私を呼ぶ声に気付いた。振り返ると、奥さんが息も絶え絶えに走ってくるじゃない。その後ろから、仕事帰りの主人も現れたのにはちょっと動揺したね。二人して捜してくれたんだ。

 主人が遠くから、「モモ!」って怒鳴った。普段はぼーっとしているけど、あれで怒ったら恐いからね。でも、怒鳴られたけど、愛情のある声だったな。そういうのって、わかるじゃない。ああ、私はあそこに帰らなきゃいけない。私はあの家の飼い犬なのよ。散歩も足りないしエサも足りない家だけど、私の帰るところは、あそこしかないのよ。

 クロの犬小屋の方をちらっと見やると、私は尻尾を思い切り振って、二人の方へ駆け出した。

 

 そうねえ。

 ああ、耳の裏も痒い。全身が痒いわ。

 主人の話をしようかしら。

 別に大した人物じゃないけどね。でもまあ毎朝横で観察していると、いろいろ考えさせられるの。人間ってつくづく不便な生き物だ、とかね。主人見てるとほんとそう思うわ。

 朝、六時半を回ると、二階の寝室から降りてくる。髪はぼさぼさ、ギョロ目もまだ満足に開いてないの。その寝ぼけ眼が、「今日もこの世で活動しなきゃいけませんか」と訴えてる感じ。パジャマ姿のまま食卓に座ってね、奥さんの淹れた茶を飲みながら朝刊を広げるんだけど、まだ完全に頭が起きてないから、活字が頭に入らないみたい。どう見ても内容を理解して読んでるようには思えないわ。ただ機械的にページをめくって、番組欄まで来て終わったと思ったら、また元に戻って同じページをめくるの。ありゃ絶対読んでないわね。それでもふと目についた記事があると、一応目を通すの。すると、読みながら必ず舌打ちしたり、悪態を吐いたりするのね。「どうしてかなあ」とか、「ふざけるなよおい」とか、「死刑だなこいつは。即死刑にすべきだ」とか。文句は凄みがあるけどね。いかんせん寝起きのせいか、いまいち自分の意見に自信がないのね。声が小さいのよ。でも向かいに座る奥さんには聞いてほしいから、奥さんに届くくらいの小さな声なの。奥さんは奥さんで、「そうね」とか、「そうかなあ」とか、適当な相槌しか打たない。「そうね」より「そうかなあ」の方が頻度が高いわね。実際のところ、あんまり亭主の考え方に賛同していないみたい。でも違う意見を返すとさ、主人はすぐムキになって反論してくるでしょ。だから適当に受け流しているのよ。主人はと言えば、日中は一人で教室の準備をしているから話し相手がいない。自分の奥さんもはぐらかすような返事しかくれない。それでいよいよ自分の話し相手が欲しくなると、私の方を見るのよ。私は日中、裏庭に出されるまでは家の中で狭いケージに入れて飼われているんだけど、朝はそのケージの中で寝そべって、朝の散歩を待っているわけでしょ。そんな私に対して、「犬はいいなあ。何も考えなくて」なんて言ってくるの。浅はかよね。考えてないわけないじゃん。考えをあんたらに伝えられないだけよ。そんなに犬が良かったら、このケージの中と外、変わってみる?って言ってやりたい。仕方ないから小さくワン、と吠えてやると、勘違いして、「おうおう、そんなに散歩行きたいか。しょうがない奴だなあ」とか言って、重い腰を上げるのよね。いかにも嫌々、って素振りだけど。でも実は主人も寂しがり屋だから、犬に必要とされていると感じるだけでも嬉しいのよね。それを素直に表せないの。正直に生きることができないのよ。つくづく可愛そうな生き物ね。

 散歩はだいたいいつも決まったコース。アパートの北側の駐車場脇の砂利道を抜けて、時々軽トラで野菜売りに来るおばさんがいる角を曲がってね。たまこのいる塀の下を興奮しながら通って・・・だっていつも腹立つもんね・・・たまこには。それで、そこを過ぎてからちょっと大きい道路を渡るの。そうすると道はぐんと細くなる。ほんとの田舎道ね。モンジロウさんの家を通り過ぎたころには、右も左も背の高いぶどう畑。人間って何であんな変なにおいのものをたくさん作るのかわからないわ、私には。そのブドウ畑も抜ければ、急にだだっ広くなる。左右に田んぼの広がる山裾にでるの。そこをもっともっと進めば、坂道になって、小高くて見晴らしのいい場所まで行くんだけど、主人は疲れるのが嫌だから、そこでUターン。また同じ道を引き返すわけ。私はまだ行きたいんだけどね。仕方ないから適当なあぜ道でトイレさせられて、引き返そうと振り返ると、広い空に、北アルプスが長々と横たわって見えるの。常念岳が真ん中に一段高くそびえて、雪を被ってるわ。空の中に山が浮かんでいる感じ。その景色は私だって嫌いじゃない。もちろん主人のお気に入りの風景だから、毎朝この道を選ぶんだけどさ。でも同じ道の往復なんて、詰まんないことこの上ないのよね。私はあらゆるところの匂いを嗅いで回りたい方だから、十字路に出くわす度に今日こそは違う道へと引っ張り込もうと頑張るんだけど、まあ、いつも私がげほげほ言って負けね。

 

 そんな風に、散歩なんていつも短いんだけどさ。でも、それがやたら長くなった時があった。

 コロナよ。

(つづく)

 

 

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『その日』(断片①)

2017年09月02日 | 連続物語

 暑くてやりきれなかった。

 交差点は、あらゆる角度から執拗に照りつけてくる太陽のおかげで、水あめのようにねっとりと揺らぎ、ざらざらとした砂混じりの腐臭を放っていた。辛うじて車や歩行者が行き交うことで、日常の兆しを保っていた。

 いっそのこと車にでも轢かれたい、と俺は思ったが、ふらつく体を抑えることで、なんとか健全なる一市民としての責務を果たし続けた。

 信号がようやく変わった。何色に変わったかなど確かめていない。周りの人間たちが動き始めたから、自分も動き出していいのだろう。

 どこに行くか? そんなことは決めていない。行くあてがないから決めようがない。ちっぽけだが一応スクランブル交差点なので、とりあえず一番距離をかせげる斜め前方に進んだ。

 行くあてがない。

 俺が渡り切るのをじれったく待っていたスポーツカーが、短気な唸り声を上げ、とりわけくさい臭いを残して走り去った。ああいう車に轢かれたらさぞ楽に死ねるだろう。相手の運転手も乱暴に発車したことで、懲役三年執行猶予付きくらいにはなるかも知れない。いいザマだ。

 交差点を渡り終えたところで、俺は立ち止った。

 行くあてがない。

 遠くから、奇妙な格好をした女がこちらに歩いて来るのが見えた。はやりのコスプレというやつか、白いひだひだの覗く黒いドレスを着て、レースの入った黒い日傘を差している。巻き髪に赤いリボン。乙女チックなのかふざけているのか知らないが、およそ現代社会にそぐわない格好である。バロック時代のイギリスの貴婦人でもここまでの格好はしないだろう。そして、それらせっかくの創意工夫を全く無にしてあまりあるほど、デブである。

 俺は笑いをこらえるのに苦労した。実際引きつった笑いが漏れたろう。ああ、狂っているのは自分だけじゃない、あの赤いリボンのデブ女よりは自分はまだマシだ、それどころかこんな女を平気でのさばらせる日本全体がよっぽど狂っているんじゃないか。だいたいあの馬鹿げた太陽をどこかにやってくれ。

 女がこちらに近づいてくるにつれ、おかしみよりも不快感が増し、暑さのせいか嘔吐感すら覚えた俺は、もと来た交差点をまた斜めに戻ろうかとさえ考えた。それでは交差点を行ったり来たりするだけの本物の馬鹿になってしまう。信号はなかなか変わらない。

 向こうから狂ったデブの女。信号は赤。行くあてはない。

 頭上には嘲笑する太陽。

 俺は苛立たしげに足を踏み替え、汗の滲む目を閉じた。

 これが俺の人生だ。俺の人生は、すべて間違っていた。救いようのないほどデタラメだった。この煉獄の暑さを抱えた日本で、まず間違いなく、俺が一番くだらない存在だ。あのコスプレ女でさえ、俺よりは数倍楽しい人生を送っているだろう。

 俺は一人っ子で甘やかされて育った。俺はまず人間形成の時点で失敗した。これは、愛情を注ぐことを自由を与えることと勘違いした俺の両親の責任であるが、まあ結局は俺の性分ということだろう。俺は周りをうんざりさせるほど傲慢で、そのくせ臆病だった。平気で人をおとしめ、しかも人を恐れた。約束は一つとして守らず、全部それを誰かのせいにした。自分が無能だとわかっているのに、自分を矯正してもらうことを激しく拒んだ。俺は孤独で、その解決策すらわからなかった。二つ目の会社を辞めたとき、俺はようやく自分の性格をはっきりと認識した。

 俺はクズだ。クズは死んだ方がいいが、クズだから死ぬこともできない。

 実家に居候してもう六年になる。稼業である寺の手伝いを時々するくらいで、まともな仕事はしていない。親は跡を継げと言うが、その気はない。俺みたいな男が坊主になることを誰も期待しないだろう。阿弥陀様にもさすがに悪い。

 女を抱くことも、もう六年以上していない。いや正直に言えば二度ほどあったが、金を払わずに抱いたことはない。

 俺はこの六年間、死んだも同然の人生を送った。いや、親のすねをかじっているから、無価値より以下だ。最低だ。

 デブ女がますます近づいてくる。信号が青に変わる前に、この交差点に飛び込んでやろうか。

 俺は汗だくの上半身を折り曲げ、顔を手のひらで拭い、再び体を起こした。

 信号が変わった。

 そのとき、強烈な閃光に覆われた。

 

(つづく)

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不定期連載 『街よ、踊れ!』 ~4~

2017年06月17日 | 連続物語

♦    ♦    ♦

 

 二軒目は駅前まで歩いて、『華園』という中華料理屋に入った。松本らしさを教えると言う割には、案内する先がアイリッシュパブだったり中華料理屋だったりと、今一つ地域性に欠ける気がしないでもない。本田博に言わせると、これこそが今の松本なのだそうだ。おそらくただ、自分の行きつけの店というだけの理由だろう。

 天井の高いだだっ広い店で、客はほとんどいない。皿数が六つばかし、瓶ビールが一本テーブルに並んだ。我々二人は戦場から帰還してきた兵士のように、それぞれの椅子の背もたれに上体を深く沈めた。初めて出会った人と意気投合し、互いにはしゃいでしゃべり合うが、やがて話のネタが尽き、どっと来る疲労感と共に、信頼関係はそんなに簡単には築けないことを再確認することがある。そのときの我々はまさしくそれであった。酒臭い息を吐き、焦点の定まらない目をしばたたいて、今更ながら思う。だいたいこいつは何なんだ。

 私は深い吐息をついた。

 「ビールか。これ以上飲めるかな」

 本田博は据わった目つきで私を軽蔑したように睨み、しゃくれた顎をさらに突き出して舌打ちした。「なんだおい、もう酔っぱらったのか。日本中旅している割にゃ大したことねえな」

 「馬鹿にするな。そんなに酒が強くないんだ」

 「だから馬鹿にするんじゃねえか。おい、そんなことでほんとに日本一周できるのか?」

 私は失った力を取り戻したかのように上体を起こし、奴のグラスにビールを注ぎ返した。

 「日本一周が目的じゃない」

 「じゃあこの街に留まれ」

 「店を手伝えってことか」

 「共同経営だ。お前も身銭を切れ」

 「身銭なんてあるわけないだろ。俺は旅行者だぞ」

 「ちぇっ、貧乏旅行者か。それでもいい。俺の店を手伝え」

 私は片肘を突き、相手の顔をまじまじと眺めた。

 「どうしてなんだ? 今一つわからない。どうして、あんたは今日会ったばかりの人間をそんなに信用するんだ」

 は! と一つ、笑い声とも掛け声ともとれる叫びを上げると、彼は天井から落ちてくる何かを受け取るかのように両手を掲げてみせた。

 「信用してるんじゃない。利用してんだ」

 「何」

 「ここは料理が安くてうまい。が、女っ気がなくていかん。よし、おい、あとで女のいる店でも行くか」

 「利用してるってどういうことだ」

 「怒ったのか? お前は。短気だなあ。おい、お前がどこの馬の骨か、そんなの、今の今出会ったばかりの俺にわかるわけなかろうが。お前にとっても、俺がどこの馬の骨かなんてわからんだろう。当たり前のことじゃねえか。人間同士なんてしょせんそんなもんだ。出会って一日目だろうが、一年目だろうが、何十年一緒に暮らそうが、わからん部分はどれだけ日数を過ごしてもわからんまま。逆に言やあ、わかる部分は、ひとこと言葉を交わすだけでもわかる。そんなもんだろ、人間同士なんて。お前、思ったより呑み込みの悪い奴だな。よし、じゃあお前にわかるように教えてやろう」

 本田博は失礼極まる言葉を吐くと、ぐっと身を乗り出し、私に酔った顔を近づけた。

 「これはチャンスなんだ。いいか。これはチャンスなんだ。お互い。俺とお前、お互いにとってだ。確かに、チャンスは人生に一度きりじゃない。まだいくらでもある。だが、これも大事な一つのチャンスであることには間違いない。そう言ったものを一つ一つ、ぐずぐずしてるうちに逃してたら、いつの間にか爺さんになって、気付けばあと人生残すところ二日三日、なんてことになりかねないんだ。わかるか? 俺は店を開きたいと思ってる。人手が必要だ。しかし誰でも彼でもいいってわけじゃない。俺の見込みに合う人間じゃないといけない。その点、お前さんは俺の見込みに合う。と言うか、たぶん合いそうだ。しかも都合がいいことに、大学を出て、就職もせずにぷらぷら旅行している。つまり、時間と自由があるってことだ。これを利用しない手はなかろう? え? そうだろう。お前もせいぜい俺を利用すればいい。どうせあれだろ、自分探しか何かで旅行してるんだろう? だったら、ここで探してみなよ。この松本で。案外、面白いもんが見つかるかも知れんぞ。もちろん、そんなもん見つからんかも知れん。だったらそれまでのことだ。ああ、ここは合わんな、と思ったらさよならすりゃあ済む話じゃねえか。お前は再び旅に出ればいい。俺は別な奴を探す」

 片手を振り上げながらそう言いきると、彼はグラスのビールを飲み干し、空瓶を振って、「にいちゃん、もう一本!」と厨房に向かって叫んだ。

 私は腕組みをし、うめき声を上げ、考え込んだ。

 

(つづく)

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不定期連載 『街よ、踊れ!』 ~3~

2017年05月20日 | 連続物語

 

♦    ♦    ♦

 

 ハンチング帽と私は、その日三軒の飲み屋をはしごした。彼曰く、街のことを知るには飲み屋を回るのが一番だそうだ。

 一軒目は『オールド・ロック』という名の、洋風居酒屋であった。酒樽に板を張った、やたら背の高い丸テーブルでビールを飲んだ。ハンチングは自分の名前を本田博と名乗った。私は古屋和彦だと自分の名を告げた。

 「島根っていやあどんな所だ」

 店内でもハンチングを被ったままの本田博は、ときどき通りかかる女性店員の尻をちらちら見ながらも私に話を振ってきた。

 「何もない。何もないのがいい所だ」

 そう言って私はギネスを舐めた。ギネスは舐めるようにしか飲めない黒ビールである。こんなに飲みにくいビールが世の中にあるとは知らなかった。

 「そうか。松本も城以外には何もないけどな」

 「山があるじゃないか」

 「城と山か。ふん、十分だな」

 店の扉が開き、四人連れが入ってきた。一人は背の高い白人である。取り巻きの日本人が必死に何か説明している。白人はいちいち頷き返しているが、パブのことなら自分の方がよく知っているとでも内心思っているかも知れない。

 よそ者とはっきりわかる顔をしていれば、街はつねに温かい。

 私は本田博の方に向き直った。

 「君は何をしてるんだ、ふだんは」

 「俺か?」彼はハンチングに親指を当て、まるで褒められたかのように得意げにふんぞり返った。「俺はこの街で、小粋でお洒落なフレンチレストラン、を、これから開店しようと準備しているところだ」

 「これから?」

 「ああこれから。松本の人間は田舎者だからな、古くて大きな構えの店ほど美味しい料理が食べられると勘違いしている。新しくて小さな店でも、手ごろな値段でびっくりするほど旨いものが食えるってことをわからせてやるんだ。今は上高地のレストランで修行の身だ。だがいい人材が見つかり次第、独立するつもりだ」

 「ふうん。夢があるな。いい人材は見つかりそうか」

 「今見つけた」

 私はギネスの泡にむせた。「意味がよくわからんが」

 「俺の持論だが」本田博はテーブルを指でコツコツと叩き、たった一人しかいない聴衆である私の注意を促した。「給仕をする人間ってのは、世の中で一番難しい仕事をする連中だ。押しが強くちゃ駄目だ。俺みたいなのは、だから駄目だ。自己主張が強いと、客はうんざりする。下手したら喧嘩になる。高い金払って食べに来てるんだから、あくまでも主役は彼らだ。そうだろ? 舞台はテーブル上の、客たちの笑顔であり会話だ。まかり間違っても厨房やフロアにはない。ここんとこを勘違いしている店が多すぎる」

 彼はハンチングを脱いだ。天井の照明が反射するほどの見事な禿げ頭だった。

 「松本って街は城下町のせいか、昔っから殿様商売が多いんだ。食べさせてやるからありがたく思え、くらいの高飛車な店がごろごろしている。その癖グラス一つ満足に磨いてないような、ろくでもねえ店が多いんだ。田舎なんだよ、結局」

 彼は再びハンチングを深く被り、にやりと笑った。

 「ウェイターってのは、客のそばに立ってても存在感を消せるくらいの人間じゃなくちゃ務まらない。かと言って、突っ立ってるだけじゃもちろん駄目だ。常に細心の注意で、すべてのことに気を配ってなくちゃいけない。客が何を欲しているか、グラスにワインは適量入っているか、テーブルクロスに染みはないか、客はそもそもこの滞在時間を楽しんでいるか。アンテナを四方八方に張り巡らせながら、しかもそれを客側に気付かれないようにしなきゃいけない。ハイレベルのさりげなさが必要なんだ。一見馬鹿みたいに単純素朴に見えながら、頭ン中はフル回転していろんなことを同時に考えてなきゃいけない。ところでお前さんは」

 彼は太い指で私を指さした。「頭ン中の方はまだわからんが、少なくともスジはある。俺にはわかる。俺は料理人だ。言っとくが、かなりの腕前の料理人だよ。自分で言うのも何だが。どうした、どんどん飲め。旅してりゃどうせ金がなかろう。俺のおごりだ、遠慮するな・・・おい、あの娘・・・見えるか、あの娘だよ・・・いい体つきしてるなあ。ああいう娘に給仕してもらうのもいいな・・・いやいや。俺のレストランはキャバクラとは違うんだ。俺はフレンチレストランを開きたいんだ。キャバクラじゃねえんだ。なあ、俺は自分のことをよおくわかっているつもりだ。俺は料理が得意だ。だが我が強いから、接客は正直苦手だ。けどな。俺の料理をきちんと出してくれるウェイターを見つける目は、持っている。お前さんは、俺が探していた男だ。今は薄汚い恰好だが、いったん小奇麗な制服を着せてみろ。ツボにはまるのが、俺にはちゃあんとわかるんだ」

 私は深々と嘆息してから、ギネスに口をつけた。彼の言葉の端々に散りばめられた率直なまでの暴言に、辟易するというより唖然としたが、何しろ彼がどこまで本気でどこまで冗談なのか、その真意がわからない。よって一言だけ返すにとどめた。

 「俺は旅人だよ」

 彼は大口を開けて笑いながら私の肩を叩いた。

 「そんなこたあ百も承知だ! 馬鹿だなあお前は。だからお前が気にいったんだ。おい、飲みが足らんぞ! 島根県人はそんなにちびちび飲むのか? 早く飲め、次に行くぞ次に!」

 

(つづく) 

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不定期連載 『街よ、踊れ!』 ~2~

2017年05月12日 | 連続物語

 

♦     ♦     ♦

 

 人間はいろいろな切り口で二種類に分けられる。男と女。大人と子供。都会が好きな人と、田舎が好きな人。酒をたしなむ人とたしなまない人。読売ジャイアンツに好意的な人と、そうでない人。数え挙げればきりがない。その中で意外と重要だと私が思っているのは、次の類別である。

 他人にちょっかいを出したがる人と、他人からちょっかいを出されやすい人。

 本田ヒロシは、まさに他人にちょっかいを出すのを生きがいとするタイプの男であった。頬骨がふっくらと脂肪を乗せて小高く、顎もしゃくれているので、ハンチング帽がよく似合う。いかにもいたずら好きな顔つきである。背丈がありなかなか立派な体格をしているが、鍛え込んだ感はない。微笑みには茶目っ気があった。

 ちなみに私は、細長いばかりで取り立てて特徴のない顔立ちである。幼稚園児に人の顔を描かせたら、大体こうなるだろうという感じである。癖もなければ主張もない。どちらかというと、他人からちょっかいを出され易いタイプの人間なのかも知れない。

 晴天に城が映える。

 観光客が堀に浮かぶ白鳥に奇声を上げる。白鳥は人間どもに濁声を返す。水面下では、やかましい俗世を馬鹿にした大鯉が悠然と泳ぐ。

 ハンチング帽の男は、腕を組んでにやにやしながら私に話しかけてきた。

 「おい、大丈夫か」

 自分のことを言われていると気付くのに、時間がかかった。 

 「あ・・・大丈夫です」

 「お堀にでも飛び込んで自殺しそうな感じだが」

 私は脚を組んだ。相手をよく見ると、自分とそう年齢が違うようにも思えない。失礼な奴である。

 「馬鹿馬鹿しい」

 「どっから」

 「え?」

 「どっから来た」

 私は背中を掻いた。五日ばかり風呂に入ってないから、痒いのである。

 「島根」

 「島根? へえ。そりゃまた遠くから」

 「どうも」

 ハンチング帽は地面の砂を蹴ったり、私の傍らの薄汚いリュックを覗いたり、眩しそうに空を見上げたりしている。なかなかそこを立ち去ろうとしない。

 「旅行かい」

 私は頷いた。

 「目的地は? どこまで行くんだ」

 「陸が途切れたら、引き返す」

 とっておいたような笑みを、ハンチングが浮かべた。

 「本州なんてすぐ途切れるぞ」

 「青函トンネルを使えば、北海道まで行ける」

 「海にぶち当たって、引き返して、そういう旅かい」

 「旅の目的は、その間に決める」

 「おもしれえことを言うやつだな」

 彼は断りもなく私の隣に座った。

 峠越えを強行した後の疲労感と、久しぶりに人と話す高揚感と、中央高地特有のちくちくするような強い日差しとで、私はわけもなく自分が快活になって来るのを感じた。だいたいこのうるさいお節介野郎は何者なのだ。喧嘩を売っているのか。それとも相当な暇人か。信州人は閉鎖的だと話に聞いていたが、全然違うではないか。

 お節介野郎はしゃくれた顎をかき毟りながら、行き交う観光客の腰の辺りを呆然と眺めた。若い女性が通り過ぎたときには、その腰をしばらく目で追った。

 「松本には、また何で」

 思わず私は笑った。それから、首に巻いていた汗まみれのバンダナをむしり取った。

 「この街には、何があるんだ」

 

(つづく) 

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不定期連載 『街よ、踊れ!』 ~1~

2017年05月07日 | 連続物語

 かつて私は、なるべく他人との接触を避けて生きたいと思った時期がある。もともと神経質な性分であったが、高校生のときにそのピークを迎えた。ヘッセの小説に出てくる少年のように賢いがゆえに傷つきやすく、尾崎豊の歌のように孤高であるがゆえに切なく、ニーチェや道元のように悟りを開く必要があるから、自分はさっさと山にでも籠って世捨て人として生涯を終えよう、と半ば本気で望んでいたふしがある。種田山頭火が青い山を独り分け入っていくテレビドラマを観て、妙に感動し、とりあえず行脚のための杖を手に入れようと家の裏庭を探してみたのを覚えている。

 一方で、寂しいのは人並みにいつでも寂しかった。人との交わりを避ければ避けるほど、胃袋をねじられるような喪失感に苦しんだ。友だちが欲しかった。恋人はもちろんそれ以上に欲しかった。とびきり素敵な女性と、腕を組んで、枯葉の敷き詰めたパリ郊外の公園とやらを散策したいと夢想した。これもテレビの影響であろう。ところが世の中には、とびきり素敵な女性も、本当に気の合う親友もなかなかいそうにないので、肩を落とし、再び隠者への道を模索するのである。

 人を避け、同時に人を欲した。

 別離と出会い。この相反する二つの願望を同時に満たすものがあるとすれば、それはおそらく旅である。それで私は、高校二年の夏くらいから、頻繁に旅に出かけた。

 しかし、ここで私の旅について事細かに書くつもりはない。むしろ旅が終わったあと、私が出会った人々のことを書くつもりである。ただ一言だけ書き添えておきたいのは、旅を重ねるうちに、私は、自分の面の皮が────おそらく心臓のそれも含めて────浅黒く、分厚く、いくぶんか無神経になったということである。旅は私の行き過ぎた繊細さを矯正した。同時に、私を少し薄汚くした。神経質だったはずの私は、いつの間にか、道端にじかに座り込み、服の端で拭いただけのリンゴを丸齧りできるようになったのである。

 最後の旅は、半年がかりの日本縦断を企図したものであった。まともな就職活動をしなかった私は、大学卒業と同時に得た自由と空白を、とりあえず何かで埋めなければならなかった。三月末に地元島根を出発し、まずは自転車で九州を巡り、それからフェリーで四国に上陸。自転車が壊れて使い物にならなくなったところで、バスと電車に切り替え、大阪、京都を通過し、高山に到着した。そこから何を思い立ったか、まだ雪の残る峠を命からがら徒歩で越え、最後はヒッチハイクまでして辿り着いたのが、松本であった。

 出発から三か月ばかり。日本縦断の全日程の半分ほどもまだ到達していなかった。しかし私は、心身ともに疲弊しきっていた。ありていに言えば、旅にうんざりしていた。将来の展望がまったく持てないでいたことも、その気分に拍車をかけたかも知れない。いったい、いつまでこんなことを続けるつもりなのか? 一生旅をし続けるつもりか?────いや、そんなことはできない。旅には終わりがある。人は一生、旅人でいるわけにはいかない。

 そんなことを考えながら、二〇〇五年初夏の晴れた昼下り、松本城の堀に面したベンチで、私は顔を手で覆って座っていた。旅程にこの松本の街を組み込んだ理由は、今となっては思い出せない。どこかで日本地図を広げたとき、ほどよく山の中にあり、ほどよく人口が多そうで、人嫌いだが人恋しいという厄介な性癖を持つ私にはなんとなく惹かれる場所に見えたのかも知れない。しかし到着直後の私は疲れ切っていた。国宝松本城も、その背後に遠く冠雪した北アルプスの雄大な尾根も、ほとんど目に入っていなかった。当然である。私はまるで観光バスで車酔いした観光客のように、体を屈め、両手に顔を埋めていたのだから。

 誰かが私の前に立ち止まったのが、砂地の音でわかった。

 私は顔を上げた。私の目の前には、ハンチング帽を斜めに被り、腕を組んだ一人の男が、何とも挑発的な表情で私を見下ろしていた。

 それが私と本田ヒロシとの出会いであった。

 

(つづくつもり)

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火炎少女ヒロコ 第四話(草稿) ~4~

2016年06月09日 | 連続物語

   ときどき、思い出したように、彼らは静かな接吻を交わした。

 

 「トマトとオリーブ、だったね」

 「ありがとう」

 ヒロコは買い物袋を受け取った。

 「街の様子はどう?」

 「街? 別に」

   「そう」

   「そうだね。あまり・・・みんな、不景気だ、不景気だって言ってる。平和なだけじゃ物足りないらしい」

   「わあ、イチゴも買ってくれたんだ」

   「安かったから」

 キッチンはガスコンロ一台に小さなシンクだけという手狭さである。ヒロコは買ってもらった物を小さな冷蔵庫の中に入れ、上に置き、それでも収まりきらない物は床の上に丁寧に積み重ねた。

 彼女は玉ねぎをみじん切りしながら、ユウスケに背中を向けたままなるべくさり気ない口振りで訊いた。

 「私を探している人たちは?」

 「ええと、そうだね。まだうろうろしているよ」

 「あ、そう」

 「鍋に湯を沸かせばいいんだね」

 「塩を一つまみ入れて」

 「うん」

 五分ほど、彼らは自分の分担である仕事に集中した。沈黙を破ったのは、ヒロコのいらいらした声だった。

 「私を捕まえて、どうしようというのかしら」

 「え? あ・・・ああ、連中か。湯が沸きあがったよ」

 「中火にしておいて。ねえ、どうなの。私を捕まえて、殺す気かしら」

 ユウスケはコンロから顔を上げた。

 「そんなことはさせやしない」

 「殺す気よね」

 「わからない」

 「殺さなくちゃいけない存在だもの」

 「ヒロコさん」

 「あなたは───あなたは、私を殺したくならないの」

 ヒステリーの症状の表れ始めたヒロコの腕を、ユウスケは嘆息してつかんだ。

 「何言ってるんだ。ヒロコさん。そんなこと、考えてもいけない」

 「だって、だって私、あなたをこんな顔にして。こんな姿に・・・私、私、あなたを殺そうとした」

 ユウスケはヒロコの体を支えながらコンロのガスを切り、震えるヒロコをなだめる様に畳の上に座らせた。

   天井から下がる蛍光灯の紐が揺れる。

   ヒロコのこめかみには筋が浮き立っている。口元は引き攣り、目は病的に潤んでいる。

   「シリアでも何人も殺してきたわ。何人も・・・数えきれないくらいよ。日本でも殺した。人殺しよ私。どうして? どうしてそんな私が生きていられるの?」

   「ヒロコさん。そんなこと考えちゃいけない」

   「殺してよ!」                                                      

   「ヒロコさん」 

   「・・・ごめんなさい・・・私・・・でも、もう何だか、嫌なの。こんな風に、隠れながら一生過ごすのなんて」

   か細く悲痛な声である。

   ユウスケは荒い息をつき、掴んでいた手を緩めた。それから考え深そうに、ヒロコを見つめた。

  「実は、話そうと思っていたことがあるんだ」

(つづく)

 

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火炎少女ヒロコ 第四話(草稿) ~3~

2016年05月27日 | 連続物語

 半月ほどの療養期間を経て、歩き回れるようになるやいなや、ユウスケは東京の下町に安アパートを借りて生活し始めた。ぼさぼさだった髪を短く切り、大きなマスクをかけ、なるべく人目を避けた。ヒロコが国内ではなく、遠いシリアの国にいる、という情報が入ったのは間もなくであった。ユウスケはすぐにでもシリアにテレポートしたかったが、後遺症に苦しむ彼の体力では覚束なかった。AUSPからも二か月間は決して特殊能力を使わないよう厳しい通達があった。

 ようやく体力的に回復したと自覚できるようになった九月半ば、多国籍軍のシリア介入を聞き知ったユウスケは、いよいよ現地へのテレポートを考えたが、ぎりぎりで思いとどまった。不思議な予感がしたのである。ヒロコが間もなく自分の近くに現れる、という予感である。ここに、ヒロコが、やって来る。まるで誰かにそう囁かれているかのようであった。

 決断に迷い悶々としていた雨降る夜、アパートで就寝していた彼は、強烈な胸騒ぎを覚えて目覚めた。跳ね起きるとすぐに着替え、近くの公園に向かった。公園に彼女がいる、という確信があった。今回は明らかに誰かの声を感じた。やはりテレパシーだ。それもとびぬけて高度な。どこか遠くの・・・山奥深く、鬱蒼と茂る原生林の中からそれは発せられて・・・。逆探知できたのはそこまでだった。今のユウスケにとっては、声の主など誰でもよかった。ただ、ヒロコに会いたかった。今度こそ。

   彼は雨に打たれ、息を切らし、狭い公園に駆け込んだ。果たして、塗料の禿げかかった滑り台の下のぬかるみに、誰かが置き忘れた人形のように、雨にぐっしょり濡れたヒロコが意識なく横たわっていた。

 ユウスケはひざまずいた。

 

 ヒロコがユウスケの部屋で目覚めたとき、全身火傷を負ったユウスケの姿を見て、彼女は大声で泣いた。引き付けが起きたように激しく体を痙攣させ、愛する男に優しく頭を抱えこまれながら、声を張り上げて泣いた。

 

 それから二人の共同生活が始まった。

   ヒロコはユウスケと同じくらい髪を短く刈り込み、ユウスケのトレーナーを着て、遠目には男の子に見えるように装った。買い出しはすべてユウスケに委ねた。夜になると、部屋の隅と隅に布団を敷いて別々に寝た。互いの布団を離すよう懇願したのはユウスケであった。

   二人でいるとき、彼らは口数が少なかった。屈託なくおしゃべりを交わすには、互いに傷つき、疲れ果てていた。ヒロコはしばしば目を潤ませてマスクや湿布の上から彼の顔を柔らかく触った。「痛い?」と何度も訊いた。痛くないよ、と囁きながら、ユウスケは彼女の短い黒髪を何度も優しく撫でた。

  ときどき、思い出したように、彼らは静かな接吻を交わした。

 

(つづく)

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火炎少女ヒロコ 第四話(草稿) ~2~

2016年05月19日 | 連続物語

 短く切った髪に、不自然なほど大きなマスクをしている。マスクからはみ出た部分は、ほとんどが湿布で覆われている。湿布からもはみ出た部分にようやく見えるのは、赤紫色に腫れた火傷の跡。

   ユウスケである。

 大きなマスクや湿布に覆われていても、目元が微笑んでいるのがわかる。

 「ただいま」

 「おかえりなさい」

 ヒロコは詰まるような声でそう言うと、涙ぐんだ。彼の袖をつかみ、すぐに離した。本当は、思い切り彼に抱きつきたかったのだ。あるいはすぐさまこの場から逃げ出したかった。ユウスケをかくも悲惨な姿にしたのは彼女自身である。ユウスケと再会して以来、彼と面と向かうたびに、ヒロコはこみ上げる涙をどうすることもできなかった。

 痩せた頬に涙を伝わせながら、彼女は静かに自分の顔を差し出した。もう一度、ためらいがちに彼の袖を握る。

   ユウスケはマスクをずらした。火傷の跡の残る口元を見せる。

   二人は物静かな接吻を交わした。

   電車の振動が窓を揺らす。

 

 二か月前、磐誠会に心を乗っ取られたヒロコによって炎上させられたユウスケは、火だるまの状態で、AUSP富士研究所にテレポートした。焼けぼっくいのように丸焦げになって、彼は研究所前の空き地に転がり落ちた。

 瀕死の状態であった。 

   ミサの二日二晩に渡る必死の手当てにより、辛うじて一命を取り留めた。その後も彼女の献身的な治療により、炎症はある程度回復したが、火傷の跡は全身に残った。 

 

   リーダーのエイジは、ヒロコを連れて出奔しようとしたユウスケを一切責めなかった。むしろ十分な休養を彼に与えようとしたが、ユウスケ自身がそれを拒んだ。

 「ヒロコを探し出します」

 「その体では無理だ」

 「私の責任です」

 「誰の責任でもない。彼女は、誰の責任でもない」

 「きっと探し出します」

 坊主頭のエイジは太い眉をしかめた。

 「探し出して、どうするつもりだ」

 包帯だらけのユウスケは、ベッドから半身を起こした。「守ります」

 「誰を。何から」

 「彼女を。危険からです」

 

 (つづく)

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火炎少女ヒロコ 第四話(草稿) ~1~

2016年05月09日 | 連続物語

 東京の夕暮れは短い。ビルの谷間に巣食う人々は、空気の質感で日が没したことを悟る。宵になると、空気がしっとりと湿り気を帯びて重くなるのだ。

 電車の響きが微かに部屋の片隅の柱に伝わる。その柱に背中を凭れかけ、足を畳の上に投げ出し、抜け殻のように呆然と畳を見つめている女がいる。色褪せた上下のトレーナー。男の子のように短く切った黒髪。痩せこけた頬。髪形のせいで別人に見えるが、ヒロコである。

 彼女は死んだように身動き一つしない。二重瞼が重い。感情がない。立膝に乗せた左腕の、その指先まで、ピクリとも動かない。

 窓の向こうから、街宣車の流す行進曲が聞こえてきた。

   それでもヒロコは動かない。

 八畳の部屋は家具らしい家具が一切なく、がらんどうとしている。ヒロコはその片隅の柱に背を凭れかけて動かない。まだ四時前なのに薄暗い。

   階段を上がってくる靴音。途端に、ヒロコの目に生気が戻った。

   喜びに頬が輝く。しかし瞳は当惑に震えている。彼女は興奮し、同時に怯えた。まるで待ち人の来訪を予期していなかったかのように、彼女は慌てふためいた。

 玄関の呼び出しブザーが三度、続けて鳴った。一度目のブザー音が鳴り終わった時には、もうヒロコは玄関に駆け寄っていた。

 彼女に出迎えられたのは、大きく膨らんだ買い物袋を両手に抱えた、若い男である。

 短く切った髪に、不自然なほど大きなマスクをしている。マスクからはみ出た部分は、ほとんどが湿布で覆われている。湿布からもはみ出た部分にようやく見えるのは、赤紫色に腫れた火傷の跡。

   ユウスケである。

 

 

(お久しぶりです。つづく、はず)

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