た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

犬と月夜

2016年01月31日 | essay

  氷点下の夜に犬と散歩する。

  もちろん犬はご機嫌である。氷点下ともなれば、雪の上に埋もれもせずに立てる。ぱんぱんに張った雪の上に立ち、満ち溢れるほどの月光を浴びて、短い耳を立て、何やら思慮深げに遠くの音に思いを馳せた格好をしたりする。その時だけは駄犬も愚犬も狼の子孫である。

  その犬の母親が、近所にいる。もともとその家から譲り受けた犬なのだ。散歩の帰りにどうしてもその家の前を通りがかるので、娘は生き物の性としてふらふらと母親の方に寄って行く。しかしなぜか母親はフェンス越しに娘に向かって吠える。結構しつこく非情に吠える。近寄るなと、お前は私のもとを離れて今の飼い主(つまり私)のところに引き取られたのだから、そこをわが家として暮らせと、私のもとに帰ろうとなんぞという気をつゆ起こすなと、まるで明治生まれの峻厳な母親のように、涙こそ見せないが切なく吠える。

   まあ、そのように見える。

   するとわが家の駄愚犬は、向うを向いてじっとたたずむ。向いた向うには何もない。月明かりに照らされた山並みでもない、母親でもない、もちろんすぐ近くにある自分の飼い主(つまり私)の家でもない。ほんとうに何でもない電信柱の街燈の明かりの落ちた雪の上を、じっと眺めてしばしたたずむ。まるで今日の母親の反応をすべて予めわかっていたかのように。それでも親子の情として諦めきれないものがあるがだがしかし!  諦めることだけを覚えて生きてきた、二十歳前後の苦労性の娘のように。

    ということで、氷点下の夜の犬は、なかなかに情緒がある。

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雪かき

2016年01月20日 | essay

   松本に雪が積もった。

   今年は雪がないねえ大丈夫かねえと心配し合っていたら、ちゃんと降った。それもしっかり降り積もった。こうなると途端に、参ったねえと挨拶が変わるから、人間とは現金なものである。

   さて積もれば雪かきである。県外出身者の私から見るに、松本の人は雪かきがまめである。非常に熱心に除雪する。地面がしっかり見えるまでは何が何でも妥協しないぞという勢いで、一心不乱に一日中雪と格闘している。これはなかなか興味深い光景である。私は山陰の雪国育ちで、積もるといえばすぐに五十センチを超える。しょっちゅう降るので、いちいち全部を排除できない。だから、人が通ればいいやというくらいに雪をかく。湿っぽい雪で重たいし、また凍り付く心配はさほどない。

   一方で、松本はめったに雪が降らないので、チラチラしようものならみんなそれかかれと一斉に除雪に走る。中央高地の雪はパウダースノーで軽い。かと言って甘く見て放っておくと、翌朝にはしっかり凍り付いてしまう。そうなると今度はかなり厄介になる。ハンマーで路上に凍結した雪を叩き割る姿は、松本の冬の風物詩である。

   近所が早朝から熱心にスコップを振り回すので、私も黙って見ているわけにはいかない。松本に移住すること十余年、この地方の雪かきに対してもだいぶとコツをつかんだ。

   降ったら雪が軽いうちにすぐかき出すのが一番。それでも車が何台か通ると 圧雪となり、なかなかスコップの歯が立たなくなる。そうなると無理をせず、雪が止む日を待つ。少しでも日が出ると好都合である。道路と積雪の間に水が滲み始めたら、チャンスだ。剣先スコップをその滲みた部分に差し込み、てこの原理で持ち上げると、氷と化した圧雪が、パコリと、大きな塊となって割れるのである。まさにパコリ、と音を立てる。これがなかなか小気味良い。ちょっと病みつきになる。パコリ、パコリ。時には大人の体が隠れるくらい大きな氷塊が取れることもある。そうなるとまるで大魚でも釣ったかのような満足感に浸る。思わず写真に撮ってブログに載せようかと思うが、私はそれほどまめな性分ではなく、また何より、路上にしゃがみ込んで氷塊を写真に撮っている姿を近所の人に見られるのは多少不都合なので、止している。

   さあ、こんなことをぐだぐだと書き連ねているのは、雪かきをさぼっている証拠である。やっぱり面倒には違いないのである。いかんいかん。日が落ちるまでに、もう一度長靴に足を通さねば。

 

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モグラ

2016年01月12日 | essay

   我が家の庭にモグラが出た。

   庭、と言っても猫の額ほどの狭い庭である。これが数年前までは百坪を超える大きなぶどう畑と地続きであり、こちらは勝手にその敷地全部を「我が庭」のように眺めて悦に入っていたのだった。しかし世は無常であり、我々が引っ越してきた翌年に地主がブドウ栽培を止め、すべての杭を引き抜き、しばらくはそのまま放置していたが、ついに去年、盛り土をしてあっけなくアパートを建ててしまった。それにより我が家の庭は突然塀に囲まれ、その元々の小ささを知らしめるはめになった。それはそれで箱庭のように楽しもうと芝など植えていたのだが、どうやら受難者は地下深くにもいたらしく、ブドウ畑に住まっていたモグラ一族たちがこちらの庭に集団移動してきたのだ。はっきり証拠をつかんだわけではないが、そうに違いない。去年の暮れごろから、庭のあちこちにいたずらのように土がこんもりと盛られ始めたからだ。モグラが掘り出した土をせっせと積み重ねているのだろう。

  それにしても、一応市内の住宅街である。モグラがいる、という事実自体が驚きであり、受ける迷惑を考慮に入れなければ、なかなか痛快な出来事であった。モグラ、とわかったときには思わず声を上げて笑ってしまった(それまでは、同居する義理の母が庭いじりで勝手なことをやっていると憶測していた。母上、ごめんなさい)。いいではないか。面白いではないか。万物を我がもののように蹂躙する昨今の人間の営みだが、その手の届かない地下で、しっかりと息づいている生き物がいる。人間どもが地上に境界線を引き、自分の土地だとか他人の土地だとか言い合っているときに、地下では彼らがそんなことに一向お構いなく、あっちに行ったりこっちに行ったりしてもぐもぐやっているのだ。人間の作った核兵器で地上の生けるものすべてが死に絶えても、モグラはやっぱり地下でもぐもぐやっているのではないか知らん。

   とは言え、いつまでも感心して眺めているわけにはいかない。面白いではないか、では済まない。素人栽培ながらようやく形になり始めた芝を、モグラ一族のゴミ捨て場にされるわけにはいかない。迷っていたが、ついにホームセンターで、モグラがにおいを嫌がるという薬を買ってきた。天然成分だけで、有害物質は入ってないというから安心である。ただ、『モグラ、出ていってクレヨン』という、頼りになるのかならないのかわからないような商品名だから、効果のほどはわからない。人間ってやっぱり我がままだなと思いつつ、庭にいくつかその「クレヨン」を刺しておいた。

   モグラよ、すまんがどこか別の新天地を探して、どうか生き延びてクレヨン。

 

 

 

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あけましておめでとうございます。

2016年01月01日 | 断片

  大みそかに、我が家に初めて松飾を飾る。この地域の風習に合わせようと、近隣の家々の玄関を偵察しながら塩梅したもので、松の枝としめ縄と紙垂(かみしで)だけの簡素なものである。正式な飾り方はいまだにわからない。紙垂という言葉もインターネットで調べて初めて知った。ずいぶんいい加減な松飾である。だがそれでいいのだ。年々正月らしい正月を迎えなくなっている気がして、なんだか漠然と物足りなくなり、あえて逆行する形を採ってみたのだ。天候もそんな私の気分に配慮してか、おそらくしないだろうが、夜半から雪。日付と年が変わるころ、酔った体に何重もの防寒着をまとい、家を出る。踏みしめた跡の少ない雪を踏みしめながら、小一時間ほどかけて神社に向かう。水気の多い雪は頭と肩を幾分濡らしたが、気になるほどではなかった。

  一年の計は元旦にあり、という。計を立てるほどの頭のない人間は、せめて形だけでも、と思う。計の方は正月の酒が抜けるころ、ぼちぼち考えていくつもりである。なんにせよ、2016年が始まった。

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