夕暮れ縄手をぶらり歩いて
小路を曲がれば緑町
昔々のなつかし話に
暖簾をくぐろか『東寿し』
自転車は、歩行者の眼前に、突然現れた。
短いブレーキ音。控え目な悲鳴。横転。そして静寂。商店街の狭い通りで、自転車と歩行者は、思いの外静かに衝突する。
呆然とうずくまるのは、学生らしき年齢の若者である。倒れた自転車から這い出したのは、三十代のスーツ姿の男。ひどく狼狽している。
「うわあごめんなさい! 怪我とかないですか?」
「大丈夫です」彼が呆然としているのは、周りがよく見えないからである。「すみません、眼鏡がどこかに落ちてませんか」
「眼鏡? うわあ!・・・本当にごめんなさい!」
横倒しになった自転車のハンドルは、黒ぶち眼鏡の左レンズを綺麗に八方位に割っていた。
誰だ誰だ、縄手通りを自転車に乗って通る馬鹿者は、ざまは無い、追突事故を起こしてやがらあ、という顔を一様にした見物人たちが、餌にたかる蟻のように、早くも周りに人垣を作り始めていた。
縄手通りは全長二百メートルほどの商店街である。成立は江戸時代かそれ以前にさかのぼる。ただしその名の由来となると、外堀を作るときの測量用語から来ているとか、縄のように細い通りだからとか、今一つはっきりしない。道の左右には、どこの誰が買うのか想像もつかない古道具などを売る店が所狭しと軒を並べている。行き交う人々が足を止めるのは、もっぱら、何かを買うためと言うより、かつてどこかで似たものを目にしたような、不思議な懐かしさに浸るためである。ここでは西日も長く差し込む。
神社を過ぎてそば屋の角を左に曲がり、縄手通りを外れると、緑町と呼ばれる、さらにひっそりとした路地に入る。その一角に、東寿しの看板が見える。
五月のたそがれどきである。
からからと引き戸を開ければ、ひと時代前の、いかにも寿司屋らしいあっさりとした内装に迎えられる。六人掛けのカウンター席にはすでに酔客が二人。真新しい銀縁の眼鏡を掛けた青年と、上着を脱いでカッターシャツの袖をまくり上げた男。
「久保さん、貝類も何かいこう」
「もうお腹いっぱいです。田中さんどうぞ」
「そりゃない。そりゃないなあ。あと十貫か二十貫は食べてもらわないとね。罪滅ぼしにならないですよ、本当に。大将、この人にビールと、私には酒のお代り。それにアオヤギとつぶ貝と・・・そうだな、アジが美味しかったから、アジと、それぞれ二人前ずつ。そうだ、ウニも気に入ってもらえたから、ウニももう二人前お願い」
「あいよ」
店主は手際よく寿司を握る。
しばらく二人ともその作業を眺める。
久保青年が赤い顔で嘆息した。「幸せだなあ」
「ふむ」と袖まくりした田中。
「え? だって、幸せですよ。眼鏡まで新しく買ってもらって」
「私が壊したんでしょ」
「でもフレームまで替えてもらって。フレームは壊れてなかったんですよ。そりゃちょうど替え時だったから、すごく嬉しかったですけど。おまけに寿司屋でご馳走にまでなって。そんな体験は・・・」
「初めてじゃないでしょう」
久保青年はびっくりして同伴者を見た。「え、なぜ」
「何となく。何となくですよ。最初の注文の仕方からかなあ。白身から光り物、赤身と来たでしょ。それに、何というか、食べ方が様になっている」
青年は難しい顔をして寿司台を見つめていたが、ふっと笑顔を作った。
「実はですね、田中さん」
「はい」
「この店自体が、初めてじゃないんです」
「え?」
今度は田中が驚く番である。彼は自分と同じく目を丸くした店主と顔を見合わせた。
店主は腕を組んで唸る。
「うーん、来店されたときから、ちょっと面影が気になったんだけど・・・でも私の記憶の人と、名字が違うんだなあ」
「私が中学生になるまでは、久保ではなくて牛尾でした」
「やっぱり!」店主は手を打った。「テーラーウシオの息子さん!」
「そうなんです」赤い顔は更に赤らんだ。
「何だ何だ、大将、知り合いかい」と田中は呆れて二人を交互に見比べる。
テーラーウシオの息子は目を伏せてビールを啜った。(つづく)
小路を曲がれば緑町
昔々のなつかし話に
暖簾をくぐろか『東寿し』
自転車は、歩行者の眼前に、突然現れた。
短いブレーキ音。控え目な悲鳴。横転。そして静寂。商店街の狭い通りで、自転車と歩行者は、思いの外静かに衝突する。
呆然とうずくまるのは、学生らしき年齢の若者である。倒れた自転車から這い出したのは、三十代のスーツ姿の男。ひどく狼狽している。
「うわあごめんなさい! 怪我とかないですか?」
「大丈夫です」彼が呆然としているのは、周りがよく見えないからである。「すみません、眼鏡がどこかに落ちてませんか」
「眼鏡? うわあ!・・・本当にごめんなさい!」
横倒しになった自転車のハンドルは、黒ぶち眼鏡の左レンズを綺麗に八方位に割っていた。
誰だ誰だ、縄手通りを自転車に乗って通る馬鹿者は、ざまは無い、追突事故を起こしてやがらあ、という顔を一様にした見物人たちが、餌にたかる蟻のように、早くも周りに人垣を作り始めていた。
縄手通りは全長二百メートルほどの商店街である。成立は江戸時代かそれ以前にさかのぼる。ただしその名の由来となると、外堀を作るときの測量用語から来ているとか、縄のように細い通りだからとか、今一つはっきりしない。道の左右には、どこの誰が買うのか想像もつかない古道具などを売る店が所狭しと軒を並べている。行き交う人々が足を止めるのは、もっぱら、何かを買うためと言うより、かつてどこかで似たものを目にしたような、不思議な懐かしさに浸るためである。ここでは西日も長く差し込む。
神社を過ぎてそば屋の角を左に曲がり、縄手通りを外れると、緑町と呼ばれる、さらにひっそりとした路地に入る。その一角に、東寿しの看板が見える。
五月のたそがれどきである。
からからと引き戸を開ければ、ひと時代前の、いかにも寿司屋らしいあっさりとした内装に迎えられる。六人掛けのカウンター席にはすでに酔客が二人。真新しい銀縁の眼鏡を掛けた青年と、上着を脱いでカッターシャツの袖をまくり上げた男。
「久保さん、貝類も何かいこう」
「もうお腹いっぱいです。田中さんどうぞ」
「そりゃない。そりゃないなあ。あと十貫か二十貫は食べてもらわないとね。罪滅ぼしにならないですよ、本当に。大将、この人にビールと、私には酒のお代り。それにアオヤギとつぶ貝と・・・そうだな、アジが美味しかったから、アジと、それぞれ二人前ずつ。そうだ、ウニも気に入ってもらえたから、ウニももう二人前お願い」
「あいよ」
店主は手際よく寿司を握る。
しばらく二人ともその作業を眺める。
久保青年が赤い顔で嘆息した。「幸せだなあ」
「ふむ」と袖まくりした田中。
「え? だって、幸せですよ。眼鏡まで新しく買ってもらって」
「私が壊したんでしょ」
「でもフレームまで替えてもらって。フレームは壊れてなかったんですよ。そりゃちょうど替え時だったから、すごく嬉しかったですけど。おまけに寿司屋でご馳走にまでなって。そんな体験は・・・」
「初めてじゃないでしょう」
久保青年はびっくりして同伴者を見た。「え、なぜ」
「何となく。何となくですよ。最初の注文の仕方からかなあ。白身から光り物、赤身と来たでしょ。それに、何というか、食べ方が様になっている」
青年は難しい顔をして寿司台を見つめていたが、ふっと笑顔を作った。
「実はですね、田中さん」
「はい」
「この店自体が、初めてじゃないんです」
「え?」
今度は田中が驚く番である。彼は自分と同じく目を丸くした店主と顔を見合わせた。
店主は腕を組んで唸る。
「うーん、来店されたときから、ちょっと面影が気になったんだけど・・・でも私の記憶の人と、名字が違うんだなあ」
「私が中学生になるまでは、久保ではなくて牛尾でした」
「やっぱり!」店主は手を打った。「テーラーウシオの息子さん!」
「そうなんです」赤い顔は更に赤らんだ。
「何だ何だ、大将、知り合いかい」と田中は呆れて二人を交互に見比べる。
テーラーウシオの息子は目を伏せてビールを啜った。(つづく)
テーラーウシオの息子は目を伏せてビールを啜った。
日は暮れた。
店の入口のガラス戸には宵闇ばかり映る。人影はなかなか映らない。
東寿しは暇である。
牛尾青年が視線を落したまま、ぽつりぽつりと語った身の上話の大意は、およそ次の通りである。
テーラーウシオは六年ほど前に潰れた緑町の洋服店である。一時期は大変羽振りが良く、当時社長だった彼の父親は、一人息子の彼と彼の母親を伴い、三人で東寿しにしばしば姿を現した。社員を十人くらい連れ、店を貸し切ることもあった(「あの頃はお父さんにほんと落としていただきました。時代がいい時代でしたねえ」と店主がしみじみとして口を挿み、ついでに閑散とした今の店内を睨んで鼻息を荒げた)。
しかしバブルがはじけ、経営が傾き始めると、それと呼応するように、家庭内の歯車が軋み始めた。父親の飲酒量が日を追って増えた。外で女を作り、内では母親に暴力を振るうようになった。父親は別人格になった。泥酔して深夜に帰宅し、罵詈雑言を吐きながら母親に手を上げる度に、牛尾少年は身をもって彼女を庇おうとした。父親に突き倒され、柱で腰をしたたか打ったこともあった。彼が中学へ上がる年に店は倒産。父親は名も知らぬ女と蒸発。あとに残された母親は、借金取りに追い立てられながら、一人息子を養うために昼夜なく働きづめに働いた。三年前に過労で倒れ、帰らぬ人となる日まで。
「父が家を出て以来」
牛尾青年はカウンターに両腕を突いた。指先に力が籠る。
「父には、一度も会っていません。母親の葬式にも呼びませんでした。当然。あの男のことは、死ぬまで許せないと思います。でも」
赤い顔を上げ、彼は狭い店内をぐるりと見渡す。
「でも、こうして懐かしい場所で食べていると、ああ、家族三人で幸せだった時代があったんだ、確かにあの頃にはあったんだなあって・・・すみません、俺何話してんだろ。暗い話ですよね。すみません、本当に黙っておくつもりだったんです。酔っぱらったんですね」
田中は首を横に振った。長い前髪に隠れた目は、充血していた。
「いや、よく話してくれました。よくぞ話してくれました。ふむ・・・うん。さ、飲んで! 食べて! くぼ・・・いや、牛尾さん。駄目ですよ。そんな話を聞かされると、あと十人前は食べてもらわないとね。ちょっとこっちの気が済みませんよ」
「はは、どうしてですか田中さん。私の家族の問題ですよ」
「うーん、何て言うかなあ。誤解して欲しくないですが、何だか、あなたのお父さんの代わりに、詫びたい気分なんですよ」
「会いたい、と何度か言ってきたんですけど」
聞き取りにくい声だった。田中は彼の横顔を覗き込んだ。「え?」
「父親です。会いたいって、電話で、私に・・・とてもくたびれた声でした。五、六年で、あんなに声って変わるのかなあって・・・でも、会いませんでした。どうしても会いたいって言われたけど、断わりました。電話を切ってしまいました。できないんです。許せないんですよ。絶対に許せないんですよ」
ほとんど涙声である。答える田中の声も震えた。
「いいから、飲んで! 大将、ビールお代り!」
「どうしても、どうしても、どうしても許せないんですよ」
「さあぐっと飲んで! え? 許さなくていいから。そうそう。許したくなかったら、許さなくていいんです。何もかもすべて。お父さんのことも、私が今日、自転車であなたに突っ込んで、あなたの眼鏡を叩き割ったこともね!」
青年は泣きながら笑った。(つづく)
日は暮れた。
店の入口のガラス戸には宵闇ばかり映る。人影はなかなか映らない。
東寿しは暇である。
牛尾青年が視線を落したまま、ぽつりぽつりと語った身の上話の大意は、およそ次の通りである。
テーラーウシオは六年ほど前に潰れた緑町の洋服店である。一時期は大変羽振りが良く、当時社長だった彼の父親は、一人息子の彼と彼の母親を伴い、三人で東寿しにしばしば姿を現した。社員を十人くらい連れ、店を貸し切ることもあった(「あの頃はお父さんにほんと落としていただきました。時代がいい時代でしたねえ」と店主がしみじみとして口を挿み、ついでに閑散とした今の店内を睨んで鼻息を荒げた)。
しかしバブルがはじけ、経営が傾き始めると、それと呼応するように、家庭内の歯車が軋み始めた。父親の飲酒量が日を追って増えた。外で女を作り、内では母親に暴力を振るうようになった。父親は別人格になった。泥酔して深夜に帰宅し、罵詈雑言を吐きながら母親に手を上げる度に、牛尾少年は身をもって彼女を庇おうとした。父親に突き倒され、柱で腰をしたたか打ったこともあった。彼が中学へ上がる年に店は倒産。父親は名も知らぬ女と蒸発。あとに残された母親は、借金取りに追い立てられながら、一人息子を養うために昼夜なく働きづめに働いた。三年前に過労で倒れ、帰らぬ人となる日まで。
「父が家を出て以来」
牛尾青年はカウンターに両腕を突いた。指先に力が籠る。
「父には、一度も会っていません。母親の葬式にも呼びませんでした。当然。あの男のことは、死ぬまで許せないと思います。でも」
赤い顔を上げ、彼は狭い店内をぐるりと見渡す。
「でも、こうして懐かしい場所で食べていると、ああ、家族三人で幸せだった時代があったんだ、確かにあの頃にはあったんだなあって・・・すみません、俺何話してんだろ。暗い話ですよね。すみません、本当に黙っておくつもりだったんです。酔っぱらったんですね」
田中は首を横に振った。長い前髪に隠れた目は、充血していた。
「いや、よく話してくれました。よくぞ話してくれました。ふむ・・・うん。さ、飲んで! 食べて! くぼ・・・いや、牛尾さん。駄目ですよ。そんな話を聞かされると、あと十人前は食べてもらわないとね。ちょっとこっちの気が済みませんよ」
「はは、どうしてですか田中さん。私の家族の問題ですよ」
「うーん、何て言うかなあ。誤解して欲しくないですが、何だか、あなたのお父さんの代わりに、詫びたい気分なんですよ」
「会いたい、と何度か言ってきたんですけど」
聞き取りにくい声だった。田中は彼の横顔を覗き込んだ。「え?」
「父親です。会いたいって、電話で、私に・・・とてもくたびれた声でした。五、六年で、あんなに声って変わるのかなあって・・・でも、会いませんでした。どうしても会いたいって言われたけど、断わりました。電話を切ってしまいました。できないんです。許せないんですよ。絶対に許せないんですよ」
ほとんど涙声である。答える田中の声も震えた。
「いいから、飲んで! 大将、ビールお代り!」
「どうしても、どうしても、どうしても許せないんですよ」
「さあぐっと飲んで! え? 許さなくていいから。そうそう。許したくなかったら、許さなくていいんです。何もかもすべて。お父さんのことも、私が今日、自転車であなたに突っ込んで、あなたの眼鏡を叩き割ったこともね!」
青年は泣きながら笑った。(つづく)
青年は泣きながら笑った。
四〇年ほど前までの縄手通りは、露天商のひしめく松本随一の繁華な盛り場であった。年中お祭りのような気分を味わえるところだったと、当時を知る人は言う。何かしら人をわくわくさせるものに満ち溢れていた。ときに見世物がかかり、河川敷では野外音楽の催し物があり、映画に、買い物に、そぞろ歩きに、連日大勢の市民が押し掛けた。喧嘩や酔っ払いの騒動もしょっちゅうであった。
往年の面影を今に見出すのは難しい。古道具屋に並ぶのは、多くがかつて価値を帯びていたものである。昔の指輪、時代遅れの手鏡、色あせた引き出し。探し物は、そう簡単には見つからない。
静かな夜が更けゆく。東寿しの店内には、袖まくりしてビールを啜る客一人、カウンターの中で腕組みをする店主一人。牛尾青年は先程帰ったばかりである。
田中と呼ばれる男は、グラスを置き、長い前髪を掻き上げた。形の良い鼻を擦り、溜め息を一つつく。それから彼は声に出した。
「もういいですよ。牛尾さん。出てきて下さい」
カウンターの奥の厨房からおずおずと出てきたのは、くたびれた服を着て、頬の病的にこけた、白髪の男である。
目の縁には泣き腫らした跡。
「お世話になりました、JK」
彼は掠れた声で、深々と頭を下げた。
田中改めJKと呼ばれる私立探偵の男は、頭痛のようにひたいを押さえた。
「いいえ。私もあなたのお金でずいぶんご馳走になりましたから。でもねえ。本当にいいんですか、これで」
「ええ。いいんです」
「息子さんは、今日のご馳走と眼鏡があなたからのプレゼントだってことを、一生知らないまま過ごすことになりますよ」
「いいんです。私からだとわかったら、決して受け取らなかったでしょう。これでいいんです。三代目、あんたにも本当に本当にお世話になった」
「確かに、いい演技だった」JKも笑ってつけ加えた。
店主は首と手を振った。
「牛尾さん、そんなに頭を下げてもらっちゃ、何しろ今日唯一のお客さんだったんですから。こちらこそまいどです。この店のことを忘れずにいていただいて、ありがとうございます」
「使える金があったら、以前のように毎週でも来たいんだが」
そう言って初老の男は力なく笑った。
「横浜に行かれるとか」とJK。
「ええ、弟がいますので。そこで、一から出直します。私の歳では、一からってわけにもいかないでしょうが」
「大丈夫ですよ」
JKは椅子を鳴らして立ち上がった。
「大丈夫です。だってそうでしょう? 今回それを行動でお見せになったじゃないですか。息子さんに対する、あなたのその愛情を失わない限りは、大丈夫です。すみません、僭越なことを言って。牛尾さん。あなたはこれからまた汗を流して金を貯め、いつの日か再び、息子さんに寿司か何かを食べさせたいと思われることでしょう。そのときに・・・そのときにまたもし、私に依頼したくなったら、ご連絡ください。これはなかなか美味しい仕事なのでね」
JKは上着を羽織りながら、いたずらっぽく笑った。
「でも、次回は、あなた方親子二人が会食する番ですよ」
牛尾はすがるように問い掛けた。「あれは・・・いつか、あれは、私と会ってくれるでしょうか」
JKは立ち止った。前髪を掻きあげてから嘆息する。それから振り返った。
「わかりません。人にはなかなか忘れられないものもあるでしょう・・・一生涯背負い続けざるをえないものも、中にはあるでしょう」
カウンターの隅に飾られたホタルブクロの花に、彼は視線を落とした。淡い赤紫色で、包み込むように咲く花である。
「でも、どうかな・・・どんな過去も、思い出も、いつの日か、違って見えてくるもんじゃないですか。ありきたりの物や、風景だって、そうなんですから」
誰もが沈黙した。それから、短い別れの挨拶が交わされた。
からからと、引き戸が閉まった。(おわり)
四〇年ほど前までの縄手通りは、露天商のひしめく松本随一の繁華な盛り場であった。年中お祭りのような気分を味わえるところだったと、当時を知る人は言う。何かしら人をわくわくさせるものに満ち溢れていた。ときに見世物がかかり、河川敷では野外音楽の催し物があり、映画に、買い物に、そぞろ歩きに、連日大勢の市民が押し掛けた。喧嘩や酔っ払いの騒動もしょっちゅうであった。
往年の面影を今に見出すのは難しい。古道具屋に並ぶのは、多くがかつて価値を帯びていたものである。昔の指輪、時代遅れの手鏡、色あせた引き出し。探し物は、そう簡単には見つからない。
静かな夜が更けゆく。東寿しの店内には、袖まくりしてビールを啜る客一人、カウンターの中で腕組みをする店主一人。牛尾青年は先程帰ったばかりである。
田中と呼ばれる男は、グラスを置き、長い前髪を掻き上げた。形の良い鼻を擦り、溜め息を一つつく。それから彼は声に出した。
「もういいですよ。牛尾さん。出てきて下さい」
カウンターの奥の厨房からおずおずと出てきたのは、くたびれた服を着て、頬の病的にこけた、白髪の男である。
目の縁には泣き腫らした跡。
「お世話になりました、JK」
彼は掠れた声で、深々と頭を下げた。
田中改めJKと呼ばれる私立探偵の男は、頭痛のようにひたいを押さえた。
「いいえ。私もあなたのお金でずいぶんご馳走になりましたから。でもねえ。本当にいいんですか、これで」
「ええ。いいんです」
「息子さんは、今日のご馳走と眼鏡があなたからのプレゼントだってことを、一生知らないまま過ごすことになりますよ」
「いいんです。私からだとわかったら、決して受け取らなかったでしょう。これでいいんです。三代目、あんたにも本当に本当にお世話になった」
「確かに、いい演技だった」JKも笑ってつけ加えた。
店主は首と手を振った。
「牛尾さん、そんなに頭を下げてもらっちゃ、何しろ今日唯一のお客さんだったんですから。こちらこそまいどです。この店のことを忘れずにいていただいて、ありがとうございます」
「使える金があったら、以前のように毎週でも来たいんだが」
そう言って初老の男は力なく笑った。
「横浜に行かれるとか」とJK。
「ええ、弟がいますので。そこで、一から出直します。私の歳では、一からってわけにもいかないでしょうが」
「大丈夫ですよ」
JKは椅子を鳴らして立ち上がった。
「大丈夫です。だってそうでしょう? 今回それを行動でお見せになったじゃないですか。息子さんに対する、あなたのその愛情を失わない限りは、大丈夫です。すみません、僭越なことを言って。牛尾さん。あなたはこれからまた汗を流して金を貯め、いつの日か再び、息子さんに寿司か何かを食べさせたいと思われることでしょう。そのときに・・・そのときにまたもし、私に依頼したくなったら、ご連絡ください。これはなかなか美味しい仕事なのでね」
JKは上着を羽織りながら、いたずらっぽく笑った。
「でも、次回は、あなた方親子二人が会食する番ですよ」
牛尾はすがるように問い掛けた。「あれは・・・いつか、あれは、私と会ってくれるでしょうか」
JKは立ち止った。前髪を掻きあげてから嘆息する。それから振り返った。
「わかりません。人にはなかなか忘れられないものもあるでしょう・・・一生涯背負い続けざるをえないものも、中にはあるでしょう」
カウンターの隅に飾られたホタルブクロの花に、彼は視線を落とした。淡い赤紫色で、包み込むように咲く花である。
「でも、どうかな・・・どんな過去も、思い出も、いつの日か、違って見えてくるもんじゃないですか。ありきたりの物や、風景だって、そうなんですから」
誰もが沈黙した。それから、短い別れの挨拶が交わされた。
からからと、引き戸が閉まった。(おわり)
松本平は春夜も寒い
人気がないからなお寒い。
女鳥羽の川の水面に映る
『シエラ』のネオンは虹の色。
暗く狭い店内である。
女主人は痩せた腕を伸ばして無造作にカウンターを拭きながら、たった一人の客を横目で観察する。
いい男ね。トレンチコートがよく似合う。でも、あまり思い通りの人生を歩んでこなかったみたい。酒の飲み方が自棄気味だし、それにとってもさびしい目をしている。その辺は、たぶんあたしと同じ。
彼女は煙草に火を点け、震えないよう用心して細い煙を吐き出す。薄い下唇を噛むのは、気を落ち着かせるためである。絶望。疲労。不意に興奮。静かな恐怖。気が遠くなりそうなほどおびえていながら、そのくせ意を決した目つきをしている。
あの人は、きっと来る。美しい奥さんと家族を守るためだもの。きっとここに来る。それがあの人の一巻の終わり。そして、あたしの終わりでもあるわ。
ヘネシーXOスリムボトル。廉価な酒ばかり並んだ棚の一番上で、ひときわ丁寧に磨かれて異彩を放つその葡萄色の瓶を、彼女は睨み上げた。鉛色のネームタグには、サインペンで『Toshio』。
死ぬのよ。あたしたち。
四半時が過ぎた。
「お客さん、松本の人じゃないね」
トレンチコートの男は女主人に声を掛けられ、焦点の合わない目を寄せて微笑んだ。「わかるかな」
「雰囲気ですよ。私もそうだから。松本は何年目?」
「四年目」
「そう。私は二十二年目。もともとは別の店で働いてましてね。この店を開いて、もうすぐ十年目です」
「十年目か」
「十年目ですよ」
女は店員用のグラスに口をつけた。いつもはただの水だが、今日は密かにアルコールを混ぜている。そうしないではいられないのだ。長い睫毛の憂いを帯びた目で、ガラス張りのドアを見やる。ドアの向こうには暗闇がある。暗闇の底には、女鳥羽の細い流れがある。
待ち続けた歳月のように静かに流れる川。
「松本には慣れました?」
「え? まあ」
「松本の人は冷たいでしょ」
「そうかなあ」
「この街じゃね、よそ者はいつまで経ってもよそ者なんですよ」
酔客は自分の頭を手のひらで叩いた。
「そういう扱いには慣れてるんでね」
「おや、そうですか」
「姐さん、これもう一杯」
「ちょいと、八杯目ですよ。こんなに飲むんだったら、ボトルを入れりゃよかったのに」
「ボトルは入れない主義なんだ」
「どうして」
「よそ者なんでね」
女主人は鼻で笑った。
女鳥羽川は、誰かの流した涙のようにちょろちょろと細い川である。三才山から南下した流れが、どうした気紛れか不意に右折し、おまけに川幅まで狭くなって、松本市内を東から西へと抜ける。何でも戦国時代、かの武田信玄が、松本城の外堀代わりに無理矢理水路を変えたという説もあるが、定かではない。不自然な川筋が災いして、過去に何度か氾濫し、近辺住民の膝頭を濡らした。涙とすれば、なかなか迷惑な涙である。しかし平生は、穏やかさと安らぎの権化のように、カルガモを浮かべて陽光に煌めいている。
一時間が経った。(つづく)
一時間が経った。
トレンチコートは残骸のように酔い潰れ、カウンターに突っ伏して寝入っている。女主人は、紫煙越しにガラス張りの暗いドアを見つめて動かない。
ガラスに人影が映り、彼女は息を呑んだ。このまま失神するのではないかと思った。
敏男さん。
ドアが開いた。
紳士服の広告からそのまま抜け出したような着こなしの中年男。バーバリのマフラーをしている。十年前は、もっと派手なマフラーだった。でも、何も変わってない。何も変わってないじゃない。女は緊張のあまり震える手をシンクの縁に押しつけた。新参の客もまた、警察の前に突き出されたかのように戸惑っている。酔い潰れた先客に気付くと、彼はさらにうろたえた。
「いらっしゃい。ようやく────ようやく来てくれたのね」
「すまん」
「どうしたの?・・・ああ、このお客さんは大丈夫。水割り十三杯で完全にご就寝」
「いや、でも・・・」
「ねえ、道路標識じゃあるまいし。ぼーっと突っ立ってないで座ったらどう?」
「由紀子」
「何よ」
「申し訳なかった」
絞り出すように言うと、男は深々と頭を下げた。
「何が?」
由紀子の声色が変わった。目には煌めくもの。
「さっきから何を謝っているの? ねえ、何について謝ってるの? 私が十年間、四方八方に手を尽くしてあなたを探し出した苦労のこと? それとも十年前、堕胎の費用を私が全額負担しなけりゃならなかったこと? それとも、そのときの手術の失敗で、私が一生子どもを生めない体になったこと? それとも、それともあなたにゴミのように捨てられたこと?」
言いながら彼女は泣いていた。
「ごめんなさい。ごめんなさいね。大事な大事なお客さんを立たせたまま、こんな昔話にふけるなんて。どうしちゃったのかしら、あたし。さあ、座って」
十年前、別れ際に予告したこと、あなた覚えてる?
中年男はマフラーも取らずに腰かけた。
「何をお飲みになるの」
「いや、僕は・・・」
「何よ」
「僕は、君に来いと言われたから・・・」
女の表情を見て、男は慌てた。
「・・・あ、いや。ビールを頼む」
値札のつきそうな笑みを、由紀子は浮かべた。「はい、ビールね」
店のドアを時折夜風が揺する。
ビール瓶はカウンターに二本。バーバリのマフラーは、いつの間にか壁に。
「あれから・・・」
「何よ」女は自分のビールに口をつける。
「いや・・・あれから、十年か」
「あれからっていつからよ」
女は細い煙草に火を点ける。「あなたに捨てられてからってこと? それとも腹の子を失ってからってこと?」
「いや・・・」男は拳に汗を感じる。「ところで、その・・・法的措置は諦めてくれるのか」
濃い煙を、女は口から吐き出した。
「せっかくのお酒を不味くするような話はやめてよ」
「でも君が・・・」
「うるさいわね」
女は苛々して煙草を揉み消した。
「約束は守るわよ。あなたがここに来てくれたから、あなたのご家族を悲しませるようなことはしないわ。安心して。ええ。あたしは、約束は守るわ」
男は呻いた。やはり、この女は実行する!
「ビールが空いたわね。お次は何」
十年前の別れ際、お前は言った。今度会ったら、必ず殺す、と。
「もう飲めない。僕はそろそろ・・・」
冗談でしょ、と女の低い声が聞こえた。これからじゃない。
冗談じゃない、と男は心の中で毒づいた。
由紀子はシンクの縁を握り締め、唾を呑みこみ、それからひどく陽気に言った。
「とっておきのを出してあげる」
自分の声ではないような気がした。
彼女は足元も覚束なげに丸椅子の上に乗ると、棚の一番上から葡萄色の瓶を取り出した。抑えようとしても、手が震える。
男は死人のように蒼ざめた。「まさか」
「そのまさか。そのまさかなの。十年前、前の店にいたとき、敏男さんが最後に入れたボトル」
栓を密封するテープがぺりぺりと音を立ててはがされる。
「・・・その、いくらなんでも、もう飲めないだろう」
「大丈夫。ブランデーに賞味期限はないの。思い出と同じ」
グラスに注がれる液体は、溶けたべっ甲飴のような粘り気のある色をしていた。
「さあ」
「いや・・・それは・・・」
これだ。これだ! これに仕込んであるんだ。ほら、やつの額を見ろ。汗をかいてるじゃないか。畜生!
敏男はすでに体に毒を盛られたかのように狼狽した。顔面は蒼白になり、全身に冷たい汗をかいた。酔い潰れた先客を、彼は目の端で睨みつける。
なぜ泥酔してるのだJK! (つづく)
トレンチコートは残骸のように酔い潰れ、カウンターに突っ伏して寝入っている。女主人は、紫煙越しにガラス張りの暗いドアを見つめて動かない。
ガラスに人影が映り、彼女は息を呑んだ。このまま失神するのではないかと思った。
敏男さん。
ドアが開いた。
紳士服の広告からそのまま抜け出したような着こなしの中年男。バーバリのマフラーをしている。十年前は、もっと派手なマフラーだった。でも、何も変わってない。何も変わってないじゃない。女は緊張のあまり震える手をシンクの縁に押しつけた。新参の客もまた、警察の前に突き出されたかのように戸惑っている。酔い潰れた先客に気付くと、彼はさらにうろたえた。
「いらっしゃい。ようやく────ようやく来てくれたのね」
「すまん」
「どうしたの?・・・ああ、このお客さんは大丈夫。水割り十三杯で完全にご就寝」
「いや、でも・・・」
「ねえ、道路標識じゃあるまいし。ぼーっと突っ立ってないで座ったらどう?」
「由紀子」
「何よ」
「申し訳なかった」
絞り出すように言うと、男は深々と頭を下げた。
「何が?」
由紀子の声色が変わった。目には煌めくもの。
「さっきから何を謝っているの? ねえ、何について謝ってるの? 私が十年間、四方八方に手を尽くしてあなたを探し出した苦労のこと? それとも十年前、堕胎の費用を私が全額負担しなけりゃならなかったこと? それとも、そのときの手術の失敗で、私が一生子どもを生めない体になったこと? それとも、それともあなたにゴミのように捨てられたこと?」
言いながら彼女は泣いていた。
「ごめんなさい。ごめんなさいね。大事な大事なお客さんを立たせたまま、こんな昔話にふけるなんて。どうしちゃったのかしら、あたし。さあ、座って」
十年前、別れ際に予告したこと、あなた覚えてる?
中年男はマフラーも取らずに腰かけた。
「何をお飲みになるの」
「いや、僕は・・・」
「何よ」
「僕は、君に来いと言われたから・・・」
女の表情を見て、男は慌てた。
「・・・あ、いや。ビールを頼む」
値札のつきそうな笑みを、由紀子は浮かべた。「はい、ビールね」
店のドアを時折夜風が揺する。
ビール瓶はカウンターに二本。バーバリのマフラーは、いつの間にか壁に。
「あれから・・・」
「何よ」女は自分のビールに口をつける。
「いや・・・あれから、十年か」
「あれからっていつからよ」
女は細い煙草に火を点ける。「あなたに捨てられてからってこと? それとも腹の子を失ってからってこと?」
「いや・・・」男は拳に汗を感じる。「ところで、その・・・法的措置は諦めてくれるのか」
濃い煙を、女は口から吐き出した。
「せっかくのお酒を不味くするような話はやめてよ」
「でも君が・・・」
「うるさいわね」
女は苛々して煙草を揉み消した。
「約束は守るわよ。あなたがここに来てくれたから、あなたのご家族を悲しませるようなことはしないわ。安心して。ええ。あたしは、約束は守るわ」
男は呻いた。やはり、この女は実行する!
「ビールが空いたわね。お次は何」
十年前の別れ際、お前は言った。今度会ったら、必ず殺す、と。
「もう飲めない。僕はそろそろ・・・」
冗談でしょ、と女の低い声が聞こえた。これからじゃない。
冗談じゃない、と男は心の中で毒づいた。
由紀子はシンクの縁を握り締め、唾を呑みこみ、それからひどく陽気に言った。
「とっておきのを出してあげる」
自分の声ではないような気がした。
彼女は足元も覚束なげに丸椅子の上に乗ると、棚の一番上から葡萄色の瓶を取り出した。抑えようとしても、手が震える。
男は死人のように蒼ざめた。「まさか」
「そのまさか。そのまさかなの。十年前、前の店にいたとき、敏男さんが最後に入れたボトル」
栓を密封するテープがぺりぺりと音を立ててはがされる。
「・・・その、いくらなんでも、もう飲めないだろう」
「大丈夫。ブランデーに賞味期限はないの。思い出と同じ」
グラスに注がれる液体は、溶けたべっ甲飴のような粘り気のある色をしていた。
「さあ」
「いや・・・それは・・・」
これだ。これだ! これに仕込んであるんだ。ほら、やつの額を見ろ。汗をかいてるじゃないか。畜生!
敏男はすでに体に毒を盛られたかのように狼狽した。顔面は蒼白になり、全身に冷たい汗をかいた。酔い潰れた先客を、彼は目の端で睨みつける。
なぜ泥酔してるのだJK! (つづく)
なぜ泥酔してるのだJK!
敏男は歯噛みをした。
JK! お前を雇った意味がない!
よれよれのトレンチコートが、このとき、ずるずると動いた。
「あ・・・あ、よく寝た」
顧客からJKと暗号名で呼ばれるこの男は、大きな伸びとあくびをした。長い前髪に端正な鼻。えぐれたように彫りの深い目。
「済まんねママさん。もう飲めないや。お勘定」
「はいよ。たくさん飲んでもらったね。水割り十三杯で六千五百円です」
「安いなあ」
唖然とする敏男の目線にはまるで気付かない様子で、彼はふらふらと立ちあがって金を払い、店を出た。
なぜだ。
川底の臭いのする夜気が店に入り込む。
なぜ帰るJK!
「さ、敏男さん。気兼ねする客もいなくなったし」
畜生が。前払い金返せ!・・・
「いや」
彼は表情を固くして立ち上がった。「帰る」
女は顔を真赤に染めた。目には再び涙が溢れた。
「私の入れたお酒が飲めないの?」
「すまん・・・これは、今日の代金と、十年間の・・・いや、とてもそれには満たんだろうが・・・」
彼は一万円札を十枚、カウンターに放りだすと、壁にかかるマフラーを引き千切るように掴んだ。
「すまん。許してくれ」
ドアが荒く閉まる。
由紀子は止めどなく泣いた。
「馬鹿。馬鹿。馬鹿。馬鹿。馬鹿。馬鹿。どうして? どうしてなの? あたし、あたし今でも、こんなにあんたのことが好きなのに」
男が手をつけなかったグラスを彼女は持ち上げ、一気にあおった。自分の入れた毒の味は、わからなかった。
「これじゃ、目的は一つしか達成できないじゃない」
笑うように泣き、泣くように笑った。そのまま突っ伏して、いつまでもおいおいと肩を震わせた。
かつて女鳥羽川は、河鹿蛙がそこここで喧しく鳴く清流であった。それが高度経済成長期に家庭排水の行き場と化し、一匹の蛙も鳴かなくなった。それと呼応するように、松本の街の活気も蠟の尽きた灯火のごとくしぼんでいったという。再び河鹿蛙の鳴く川に戻せば、街の活気も戻るだろうと、水質改善の努力がなされている。川沿いには蛙のモニュメントまで建っている。水質は、フナや鯉が泳ぐまで綺麗になった。しかし蛙はまだ鳴かない。通りの活気も、かつてほどには戻らない。
失った過去は、そう簡単には取り戻せない。
中の橋は、女鳥羽川に架かる幾つかの橋の中で、いわゆる太鼓橋の形をした小さな橋である。トレンチコートのJKはその赤い欄干にもたれて佇んでいた。そこへ息を切らせてバーバーリマフラーの敏男が駆けつけてきた。
追いついた男は、待っていた男の襟を両手で掴んで突き上げた。
「どういうことだJK。え? どういうことだ。お前に二十万で頼んだ仕事は、へべれけに酔っぱらって中途で帰ることじゃなかったはずだぞ。万が一のためにお前を雇ったんだろうが。トンズラするたあどういうことだ。畜生、おかげで、すんでのところで毒杯を仰がされるところだった。看板下ろせ、こら。探偵の看板下ろせ。とりあえず手付金の十万、すぐ返せ」
「契約通りの仕事はしましたよ、坂上さん」
「何?」
坂上敏男は手を離した。JKは悠然と襟元を直し、一つ吐息をついてから言葉を続けた。
「あのヘネシーに毒は入っていません。いや、正確に言えば、昨夜までは混入していました。昨晩遅くですがね、店が閉まって誰もいなくなってから、店の中へ侵入させてもらって、棚から引き出しから怪しいものは全部調べさせていただきました。あなたの名前でキープされたあのボトルからは、有機リン系の毒物が検出されました。おそらく前日に殺虫剤か何かを混入したのでしょう。私はそういうものを検出する簡便な器具を持ち歩いてますのでね。そのままではさすがに具合が悪いので、中身をそっくり、ただのブランデーと入れ替えておいたんです」
「何・・・」
「殺人の手段をそれで絶ったわけです。それでも、万が一刃物とか拳銃とかを持ち出した場合にと、店に客として入って、酔ったふりをして張ってました。が、あの中身を詰め替えた後のボトルを出すのを見て、安心して引き上げたんです。坂上さん」
話し手は女鳥羽の流れを見下ろした。水面は、石油を流したように黒い。
「聞けば、あの女もかつて、なかなか苦しい思いをあなたにさせられたみたいじゃないですか。あなたも私を信用してですね、だまされたふりをして──と言うか、相手を信じるふりをして、一杯飲んでから引き上げるくらいしてあげても、良かったんじゃないですか」
「・・・」
「それでも、私の想像ですが、もし仮にあなたがそういう行動に出ても、あの女は飲もうとするあなたの手を止めて、最後まで飲ませなかったんじゃないかな。わかりませんけどね、そんなことは。あの女はいろいろあっても、どうやらまだあなたに惚れてますよ」
「・・・」
「さて、残り十万、いただきましょうか」
「ま、待ってくれ。さっき店を出てくるときに、あいつに全部渡してしまった。済まん・・・私なりに・・・急に、そうしたくなったんだ。だから今、手持ちがない」
JKはにっこりほほ笑んだ。
「結構です。残り十万はいただきません。まあね、ちょっと身勝手な行動をとらせてもらったのも確かですし」
返答に窮する中年男を置き去りにして、トレンチコートの私立探偵は颯爽と橋を渡って去って行った。
残された一つの人影は、赤い欄干に手を突いた。
ネオンに眠れないのか、川べりでカルガモが一声鳴いた。(おわり)
敏男は歯噛みをした。
JK! お前を雇った意味がない!
よれよれのトレンチコートが、このとき、ずるずると動いた。
「あ・・・あ、よく寝た」
顧客からJKと暗号名で呼ばれるこの男は、大きな伸びとあくびをした。長い前髪に端正な鼻。えぐれたように彫りの深い目。
「済まんねママさん。もう飲めないや。お勘定」
「はいよ。たくさん飲んでもらったね。水割り十三杯で六千五百円です」
「安いなあ」
唖然とする敏男の目線にはまるで気付かない様子で、彼はふらふらと立ちあがって金を払い、店を出た。
なぜだ。
川底の臭いのする夜気が店に入り込む。
なぜ帰るJK!
「さ、敏男さん。気兼ねする客もいなくなったし」
畜生が。前払い金返せ!・・・
「いや」
彼は表情を固くして立ち上がった。「帰る」
女は顔を真赤に染めた。目には再び涙が溢れた。
「私の入れたお酒が飲めないの?」
「すまん・・・これは、今日の代金と、十年間の・・・いや、とてもそれには満たんだろうが・・・」
彼は一万円札を十枚、カウンターに放りだすと、壁にかかるマフラーを引き千切るように掴んだ。
「すまん。許してくれ」
ドアが荒く閉まる。
由紀子は止めどなく泣いた。
「馬鹿。馬鹿。馬鹿。馬鹿。馬鹿。馬鹿。どうして? どうしてなの? あたし、あたし今でも、こんなにあんたのことが好きなのに」
男が手をつけなかったグラスを彼女は持ち上げ、一気にあおった。自分の入れた毒の味は、わからなかった。
「これじゃ、目的は一つしか達成できないじゃない」
笑うように泣き、泣くように笑った。そのまま突っ伏して、いつまでもおいおいと肩を震わせた。
かつて女鳥羽川は、河鹿蛙がそこここで喧しく鳴く清流であった。それが高度経済成長期に家庭排水の行き場と化し、一匹の蛙も鳴かなくなった。それと呼応するように、松本の街の活気も蠟の尽きた灯火のごとくしぼんでいったという。再び河鹿蛙の鳴く川に戻せば、街の活気も戻るだろうと、水質改善の努力がなされている。川沿いには蛙のモニュメントまで建っている。水質は、フナや鯉が泳ぐまで綺麗になった。しかし蛙はまだ鳴かない。通りの活気も、かつてほどには戻らない。
失った過去は、そう簡単には取り戻せない。
中の橋は、女鳥羽川に架かる幾つかの橋の中で、いわゆる太鼓橋の形をした小さな橋である。トレンチコートのJKはその赤い欄干にもたれて佇んでいた。そこへ息を切らせてバーバーリマフラーの敏男が駆けつけてきた。
追いついた男は、待っていた男の襟を両手で掴んで突き上げた。
「どういうことだJK。え? どういうことだ。お前に二十万で頼んだ仕事は、へべれけに酔っぱらって中途で帰ることじゃなかったはずだぞ。万が一のためにお前を雇ったんだろうが。トンズラするたあどういうことだ。畜生、おかげで、すんでのところで毒杯を仰がされるところだった。看板下ろせ、こら。探偵の看板下ろせ。とりあえず手付金の十万、すぐ返せ」
「契約通りの仕事はしましたよ、坂上さん」
「何?」
坂上敏男は手を離した。JKは悠然と襟元を直し、一つ吐息をついてから言葉を続けた。
「あのヘネシーに毒は入っていません。いや、正確に言えば、昨夜までは混入していました。昨晩遅くですがね、店が閉まって誰もいなくなってから、店の中へ侵入させてもらって、棚から引き出しから怪しいものは全部調べさせていただきました。あなたの名前でキープされたあのボトルからは、有機リン系の毒物が検出されました。おそらく前日に殺虫剤か何かを混入したのでしょう。私はそういうものを検出する簡便な器具を持ち歩いてますのでね。そのままではさすがに具合が悪いので、中身をそっくり、ただのブランデーと入れ替えておいたんです」
「何・・・」
「殺人の手段をそれで絶ったわけです。それでも、万が一刃物とか拳銃とかを持ち出した場合にと、店に客として入って、酔ったふりをして張ってました。が、あの中身を詰め替えた後のボトルを出すのを見て、安心して引き上げたんです。坂上さん」
話し手は女鳥羽の流れを見下ろした。水面は、石油を流したように黒い。
「聞けば、あの女もかつて、なかなか苦しい思いをあなたにさせられたみたいじゃないですか。あなたも私を信用してですね、だまされたふりをして──と言うか、相手を信じるふりをして、一杯飲んでから引き上げるくらいしてあげても、良かったんじゃないですか」
「・・・」
「それでも、私の想像ですが、もし仮にあなたがそういう行動に出ても、あの女は飲もうとするあなたの手を止めて、最後まで飲ませなかったんじゃないかな。わかりませんけどね、そんなことは。あの女はいろいろあっても、どうやらまだあなたに惚れてますよ」
「・・・」
「さて、残り十万、いただきましょうか」
「ま、待ってくれ。さっき店を出てくるときに、あいつに全部渡してしまった。済まん・・・私なりに・・・急に、そうしたくなったんだ。だから今、手持ちがない」
JKはにっこりほほ笑んだ。
「結構です。残り十万はいただきません。まあね、ちょっと身勝手な行動をとらせてもらったのも確かですし」
返答に窮する中年男を置き去りにして、トレンチコートの私立探偵は颯爽と橋を渡って去って行った。
残された一つの人影は、赤い欄干に手を突いた。
ネオンに眠れないのか、川べりでカルガモが一声鳴いた。(おわり)