た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~9~

2015年06月30日 | 連続物語


 織部は十二の少年のように顔を真っ赤に染めた。

 ──────あの時、自分は魂をアメリカに売ったのだ。そう、織部は回顧した。自分の職業も、日本も、家族も、ある意味ではあの時、捨てたのだ。そして今、彼らの指示を受けて、彼らと共に飛行機に乗り、シリアに向っている。
 <そうだ>彼は爪を噛み、眉間に皺を寄せた。<俺は結局、あの娘に会いたいだけなんだ。どんな手段を使っても会いたいんだ。あの娘の今を見てみたい・・・会って、それからどうする? この切ない胸の内でも告白するか? は、は! はは!・・・だけど、俺はほんとに、あの娘をNASAなんかに引き渡すつもりか?>
 彼は通路を挟んだ隣の席を一瞥した。見ると、そこに座る白人が、先ほどからじっと彼の方を観察している。
 「おい、ジョージ」
 極まりが悪くなった彼は、白人に新聞を突き出してみせた。
 「ここんとこの記事にはなんて書いてあるんだ」
 彼は英字新聞の内容をほとんど理解していなかったのだ。ジョージと呼ばれた顔の小さなとんがり頭の白人は、彼が指差す部分に目を通し、片言の日本語で答えた。
 「ヒロコのこと」
 「それぐらいわかってらあ。これだけ写真が載ってりゃあな。ここの飛行機が墜落して燃えてる写真も、ヒロコのしわざか」
 「ミグ23。ヒロコが燃やした」
 「ミグ23・・・シリア空軍か」
 「イエス。シリア空軍。ついにシリア政府、世界にお願いした。軍隊送ること。いよいよ世界から軍隊シリアに集まる。ヒロコとても危険」
 ジョージの隣に座る別の大柄な白人が英語でジョージに囁いた。ジョージは頷き、織部を振り返った。ぐっと声を落として囁く。
 「この飛行機、別の国のエージェント乗っているかも知れない。ヒロコの話題ダメ」
 けっ、と吐き捨てるように呟いて織部は前を向いた。面白くなさそうにソファに身を沈め、爪を噛む。
 <畜生。『とても危険』ってなんだ。どっちがどっちに対して危険だってんだい。ほんといろんなことがわかんなくなってんな。何であの娘はシリアなんかにいるんだ? あいつの意志か、これは?・・・じゃあおい、俺はどうだ。俺は果たして自分の意志でこの飛行機に乗っているのか? は! 大した「自分の意志」だよ。この売国奴が!・・・畜生、駄目だ。人間、いったん日陰に追い込まれると、性根までどんどん腐っていくみてえだ・・・いや。違う。違うぞ。俺にも正義感のかけらってものがまだ残ってらあ。俺はヒロコを救い出しに行くんだ。そうだ。そうだろう? それが俺の、俺だけが知る使命だ。ヒロコ、俺が助けに行くぞ。俺が行くまで死ぬな。誰かに傷つけられたりするな。それに・・・・それに、もう無益に人を燃やすな、馬鹿が>
 機体が揺れた。乱気流に入ったのだ。

♦     ♦     ♦


 線香の重い薫りが天幕の中に漂う。ランプの灯りが十七の乙女の肌を紅に染める。憂いを帯びて見開かれた黒い瞳には何も映っていない。腕や肩、額に巻かれた宝石の数々も、彼女一人だけのために銀の器に盛られたさまざまな果物も、彼女の倦んだ眼差しの先にはない。
 ヒロコは肘枕に寝そべり、たくさんの贅沢に囲まれ、この上なく憂鬱であった。
 部屋にはヒロコを除いてもう一人、隅の暗がりで片膝を突いて座り込み、じっとヒロコを見つめている女がいた。ジャミラである。彼女はヒロコの側仕えになっていた。
 線香の煙が蜘蛛の糸のように細く立ち昇る。
 立ち昇った煙は、夜風もないのに、途中で乱れる。
 <もう、百人くらい殺したろうか>
 ヒロコの目は苛々した光を宿した。
 <いや、そんなことはないわ。さすがに百にはまだ行ってない・・・>
 「ジャミラ」
 ジャミラはすぐに走り寄ってきた。
 「ホット!」
 手で首筋を煽ぐ真似をして英語で言うと、ジャミラは頷き、ヤシの葉で作った扇を取り出して女主人を煽ぎ始めた。ジャミラには幾つかの英単語しか通じない。そもそもヒロコの使える英単語もごく限られている。それらの言葉も、語の意味が伝わっているのか、ヒロコの手振りで何となく意図を理解しているのか怪しいものである。それに、ジャミラは最近、どんな命令を受けるときもどこか不機嫌そうである────ヒロコが最初の「奇跡」を行って戦車を燃やし、弟ハサンの仇を取った時は、泣きながら首筋に抱きついてきたのだが。あの時、生涯の服従を誓ったので、ヒロコもわざわざ彼女を侍従に指名したのだ。ちなみに長女のアイシャは「奇跡」の後もヒロコをいぶかしげに眺め、距離を置き続けた。
 扇で煽がれても、ヒロコの顔の曇りは一向に晴れなかった。やり場のない苛立ちが、もはや我慢できないほどに募る。
 「アイスが食べたい」
 日本語で言い放った。

(つづく)

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火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~8~

2015年06月23日 | 連続物語


♦    ♦    ♦


 ヒロコの運命は一変した。アラジンのランプで魔法にかけられたかのようであった。もう少しで砂漠に一人追いやられ、朽ち果てたかも知れない、そんな寄る辺ない身の上から、一足飛びに、アル・イルハム部族(それが彼女を匿った部族の名前であった)の守護神的存在に祭り上げられたのだ。生と死の境するこの不毛地帯で最も不幸な立場から、一夜にして最も恵まれた地位へと上り詰めたことになる。
 彼女は彼女専用のテントを一張り与えられた。六人の侍女と高価な衣装と、毎日食べきれないほどのご馳走を提供された。夢のような生活であった。ヒロコは戸惑ったが、拒絶しなかった。一つに拒絶の方法を知らなかったのと、もう一つに、これは同情に値するが、彼女としては、人生で初めてちやほやされたのだ。それもいきなり、アラブの王族並みのとびきり豪勢なちやほやである。どんなに慎み深く控えめな性格でも、その誘惑に抗することはできなかったろう。ヒロコは着飾った。胸を張り、毛織物のソファに優雅に寝そべり、銀の器からなつめやしの実を取って食べ、そして、傲慢さを身につけた。 
 人々は彼女の前に額づいた。族長も。もちろんダリアの家族たちも。
 アル・イルハムとしても、シリア解放戦線の報復攻撃に備えて、是が非でもヒロコに部族内に留まってもらう必要があった。
 シリア解放戦線は実際、すぐ反撃に出た。だが、戦車であろうが騎兵であろうが、ヒロコの視野に入った途端に炎上させられては、太刀打ちできなかった。特殊能力の持ち主も戦闘員に駆り出された。彼らはヒロコの心理を操作しようとしたが、彼女はもはや完全に心を閉ざす能力を身につけていた。ヒロコにかなう者はいなかった。アル・イルハムは瞬く間に勢力を広げ、一大軍事組織になった。もともとは政府よりであったが、いつしか政府を脅かすほどの存在になった。シリア政府もようやく、国家安全保障に関わるという理由で鎮圧に乗り出したが、時すでに遅かった。アル・イルハムには国内から、また隣国から、さまざまな思惑の人物たちが参入してきていた。協力を申し出る者、政治的利用を狙う者、軍事顧問を名乗る者・・・。組織は次第に、征服欲と支配欲にまみれ始めた。拡大それ自体が目的化した。案ずることはない。我々にはヒロコがいる。
 ヒロコ。彼女の名前は瞬く間に中東全域に───いや、世界中に広まった。

 ダマスカス行きの飛行機の機内で、それらの事実を改めて確認した日本人がいた。日焼けした鷲鼻の顔。新調の高価なスーツ。膝元に英字新聞を広げているが、記事を読んでいるようには見えない。先ほどから写真ばかりを睨んでいる。写真は二点、一つは黒いチャドルに顔を隠したヒロコの写真。もう一つは墜落して燃え盛る戦闘機。鷲鼻の彼は爪を噛みながら怖い形相で考え事をしている。ときどき呻き声を漏らす。彼が呻くたびに、隣の白人女性が眉を顰める。
 呻く男は、織部警部補である。
 彼の視線は紙面にありながらも、心の中では思い起こしていた。およそ二か月前のことだ───────。

 駅前の食堂で飲んでいた彼は、下膨れでてかてか顔の、橋爪と名乗る男に声を掛けられた。「商談がある」という彼の誘いに乗り、小料理屋に場所を移して話を聞いた。驚いたことに、橋爪は自分の身分を、アメリカNASAの仲介人だと明かした。
 「へへへ、びっくりしましたか」
 橋爪は織部の反応を楽しむように口の端に唾液を溜めて笑った。「無理もありませんやね。たかが一人の女子高生のために、ついにNASAが動き始めたんですわ」
 織部は不信感でいっぱいの表情で相手を見返した。
 「目的は何だ」
 「もちろん、研究ですよ。研究です。人類の発展と世界の平和のための研究ですわ。願っただけで人を燃やせる少女がいるなんて言ったら、そりゃ研究の価値が大有りでしょ。NASAはそういうことでは常に世界の先駆者たれ、と思っていますからな」
 酔いを醒まそうと懸命に首を振りながら、騙されてはいかんぞ、と織部は心に何度も叱咤した。
 「俺に何の用だ」
 「彼女を捕まえていただきたいんです。あなたは彼女と面識があり、過去の事件で捜査担当だったってことも知っています。彼女はもともと閉鎖的な性格だ。孤独な十七の女の子だ。彼女の両親というのも、実の両親ではないそうですな」
 織部はますます驚いた。その情報を、彼は最近ようやく入手したところだったのだ。
 「あんたどこまで知ってんだ」
 「あなたの知っている範囲のおよそ一、五倍くらいですよ。でもそれ以上じゃありません。へへ。彼女の潜伏している先は、遠からず我々が突き止めます。しかし彼女との直接の交渉は、彼女の良く知っている人物が適当だろうとNASAでは思っとるんです。幸い────いや、不幸にも、と言うべきでしたな、あなたはヒロコの事件の管轄を外され、職業への意欲を無くしておられる」
 顔をどす黒く染め、織部は押し黙った。
 「いや、隠されんでもいい。我々にとっては都合のいいことなんですわ。え? そんなことまでよく調べ上げたなと思っておいでですか? NASAを舐めちゃいけません。まあ、今回のことには他のいろんな機関も協力しているんでね。実にいろんな機関がね。言ってみりゃ、アメリカ一国がこぞって彼女を欲しがっているんです」
 今度は顔から血の気が退くのを、織部は感じた。「まさか、CIAとかも絡んでいるのか」
 「ま、何でもいいんですよ。上はね。上が誰であろうと、我々下々は命令されたまま動き、約束の金をもらえばいいんです。そうでしょ? とにかく、わたしゃ仲介人としてあなたを確保すればいいんで。へへ。NASAは、あなたの身分と財産を保証します。警察官は病気を理由に休職していただきたい。だが警察を辞めている間も、警察だった時と同じように、いやそれ以上に行動できる自由が与えられます。いい話でしょ? 今よりずっと懐も温かくなりますぜ。へへへへ。ヒロコを探し出す心配はございません。それはNASAやその他の情報網が、遠からずやってのけます。心配ご無用。あなたの使命はヒロコと交渉し、NASAに手渡すこと。それだけです。それが終わればまた警官に戻ってもよし、報奨金を元手にカリブ海あたりでバカンスを決め込んでもよし。取り敢えず当座の資金として、あなたにはこれだけが与えられます」
 橋爪の差し出した五本のむっちりと太った指を、織部は、グロテスクな蛾の幼虫でも見るように眺めた。
 「五十万か」
 「五千万です」
 眩暈がした。
 「ヒロコを受け渡すことに成功すれば、さらに同じだけ」
 本当に昏倒してしまうんじゃないかと、織部は思った。もちろん酔いのせいではない。金額で目がくらむなんてさすがに恥ずかしいことだと、彼は必死に眉間に意識を集中させた。
 「なんで・・・それにしても、どうして俺なんだ? なんで俺みたいな者にそんなに出す気なんだ、アメリカは」
 橋爪はビールを織部のグラスに注いだ。しかし目は彼から離さなかった。
 「ヒロコはすでに、日本国内にはおらん、と思われます」
 「本当か?」
 「わかりませんがね。まあ、あの連中のやることは────あの連中というのは、つまり特殊能力者のことですが────常軌を逸してますんでね。奴らは、ひょっとすると、ぽん、とトランポリンでも跳ぶように跳んで、そのまま海外まで飛んでいったとしても、あながち不思議じゃないですからな。へへへ。いずれにせよ、ヒロコは海外に潜伏した可能性が高い。海外にいるとなると、ちとややこしくなるんです。捕まえるのがね。でもあなたは日本人で、警察として有能でおられる。ええ。そして、何より、ヒロコと面識がある。まあそれほど親しくは無いと言いたいでしょうが、しかしあなたのざっくばらんで積極的な性格は、内向きのヒロコと実は通じ合いやすいんじゃないかと我々は睨んどるんです。いろいろ調査した結果ね。つまり、あなたは適任なんですよ。へへ。それに・・・へへへ。まあね」
 「それに、何だ」
 「え? 言わせるんですか?・・・いやあ、まあ・・・へへ。それに、何よりですな、あなたは昔からヒロコに、個人的に強い関心を持っておられる。非常に強い、ね」
 織部は十二の少年のように顔を真っ赤に染めた。
 
(つづく)



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日曜日つれづれ

2015年06月22日 | essay
 午後は雨という予報を信じていたら晴れたので、所在なく犬の散歩をする。
 自宅を出て細い道をうろうろすると、開けた水田地帯に出る。右も左も水田という遮るもののない風景に、真っ直ぐに広い農道が延びていて、歩いて気持ち良い。馬鹿は高い所を好むと言うが、真っ直ぐな道も好むかも知れない。はるか遠くに街並みが広がり、さらに遠くに北アルプスの峰々が連なる。犬はあぜ道に尾を振り、犬に驚いて蜻蛉(とんぼ)が舞う。空には雲があるので時折涼しいそよ風が吹く。鼻歌混じりに真っ直ぐばかり進んでいると、交差する道を来る別な犬連れの人影が目に入る。かち合うかかち合わないかは犬を引っ張る速度にもよるが、たいていかち合う。またしばらく行くと別な犬連れ。やっぱりかち合う。犬同士はけんか腰で暴れ出し、人間同士は互いに苦笑いで会釈する。そう言えば人との出会いを縦糸と横糸に歌った歌があったが、なるほど、縦と横でも、意外と高い確率で出会うのだなあと妙なところに感心する。
 しばらく行くと、針塚古墳と呼ばれる小さな陵墓に突き当たる。石段を登り古墳の上に立つ。

目を閉じる人見晴らせや古(いにしえ)の墓


 駄句である。犬を引き摺りながら古墳を降りる。
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火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~7~

2015年06月16日 | 連続物語

 <死ね>
 ヒロコが念じた、その瞬間に、戦車という戦車から激しく火柱が上がった。六台全部が一度に燃え上がったのである。いや正確に言えば、車体が燃えているのではない。中にいる人間が燃えているのだ。業火で地平線は怪しく揺らめいた。砂漠に幾つもの太陽が落ちたかのようであった。間もなく爆音が立て続けに起こった。電気系統か何かに引火したのだろう。炎も煙も、一層激しくなった。もちろん、這ってでも出てくる兵士は一人もいない。皆真っ先に焼け死んだのだ。
 あまりにも異様な光景であった。人々は声を上げることすら忘れ、今まさに起こっていることを見つめた。誰もが、自分の目を信じられなかった。
 ざわめきが、徐々に人々の間に広がった。歓声を上げる者もいれば、必死に祈る者、ひそひそと仲間内でささやき合う者。彼らの視線は一様にしてヒロコにあった。言葉はなくとも、目の前で繰り広げられている魔力がこの東洋の少女から発せられたことは、そこにいるすべての者が理解した。それほどの強烈なオーラを、今の彼女は放っていた。
 燃え盛る車両の中の一台で、地響きを伴うほどの爆発が起こった。砲弾に引火したのだ。また一台。黒煙が上がる。戦車の周りにいた歩兵たちが慌てふためいて逃げて行く。
 大空へと絞り出すように、大歓声が沸き起こった。ベドウィンたちは今こそ、勝利を確信した。銃声が鳴り、拳が振り上げられ、人々は歓喜の表情で抱き合った。
 ヒロコは一人、立ち尽くしていた。まるで故郷を焼かれた人のような表情で、天高く立ち昇る複数の黒煙をじっと見つめた。これで何人の人を焼き殺したことになるのだろうか。彼女は心の中で数え挙げようとした。だが戦車一台に何名の戦闘員がいたかさえわからない。自分はもう数えきれないほどの人を殺したことになるのだなと、ふと思った。自分に焼かれるのは、どんな気分なのだろう、とも。みんなどんな気分で死んでいくのだろう。
 自分に近づいてくる人の気配に気付いた。シャイフ・アブドゥル=ラフマーンである。傍らに背の高い男を連れている。部族内で唯一英語が話せるので、半月前ヒロコが砂上に現れ意識を回復した時も、彼女と族長との通訳を任された男である。
 二人はヒロコの前で立ち止まった。
 シャイフは胸に手を当て、ヒロコに向ってお辞儀をした。
 通訳の男がぎこちない英語で要件を伝えた。ヒロコは辛うじてその意味を理解した。
 『偉大なる同志ヒロコ。シャイフ・アブドゥル=ラフマーンが、あなたを宴に招待したいと言っています』

(つづく)




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言葉さがし再び

2015年06月15日 | essay
 哲学の集いのようなものに誘われ、喫茶『想雲堂』に行く。哲学的議論をするのは実に十三年ぶりである────哲学的議論というものが何であるかはさておき。いや、さておけない。哲学的議論というものが結局何であるかを知りたいから、ほとんどそのために参加するようなものである。

 昔、似たようなことをしたが、限界を感じてやめた。火が消えて久しい心の薪をわざわざ、再燃させようとしている。

 三十代をピタゴラスイッチのように間断なく動き回り、四十に達して一息つきたいのが正直なところである。立ち止まるとすればもっぱら思考するためではなく休息するためである。仕事の疲れを癒し、酒を飲み、幸せな顔をしてプハアと酒臭い息を吐き、頭を白紙にするためである。頭を悩ますものとしては月々の収支計算と人生の逆算で充分である。とても哲学どころではない。

 それでも再び、ディアレクティケー(対話術)に挑もうとしている。これはどういうことか。言葉というものをもう一度探し直す気になったのか。こんなことで、見つかるとでも思っているのか。

 第一回の会合の終わった後、帰り道の同じ参加者と店に入り、ビールを二本空けた。やはり・・・残念ながら、人生も半ばを迎えると、プハア的なものの方が性に合っているか。
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火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~6~

2015年06月12日 | 連続物語


♦    ♦    ♦


 日は徐々に高みから砂漠を熱する。
 鉄板の上で平べったいパンがいい香りを上げ始めた。カップに注がれた紅茶のすえた様な香りがそれに混ざる。朝食の始まりである。
 『はい、ヒロコ』
 ハサンがちぎったパンをヒロコに手渡す。ヒロコは小さく頷いてそれを受け取る。ハサンはもっと話しかけたそうだが、ヒロコが俯いて応じない。
 みな、車座になって、味気のないパンを黙々と食べる。
 天幕が風でバタバタと鳴る。
 『今日はお姉ちゃんがルブ(ラクダの名前)の乳しぼりね』とジャミラ。
 アイシャは不機嫌である。『ヒロコも乳しぼりをやるべきよ』
 『無理よ。ヒロコにラクダの乳しぼりはまだ無理よ。やり方がわからないわ』
 『やり方は教えればいいでしょ。私たちは忙しいじゃない。機織りもあるし、薪を拾ってこなくちゃいけない。羊の放牧もあるし。ルブの乳しぼりはヒロコに任せるべきよ』
 『無理よ』
 『できるわ』
 ハサンがもぞもぞと顔を出してきた。『ぼく、ヒロコに教えてあげるよ』
 『あんたは黙ってて』突き放すようにアイシャが言う。
 母親のダリアは黙っていた。眉間に皺を寄せ、深刻に考え込んでいた。娘や息子たちの会話をまるで聞いていないようにも見えたが、その実、神経過敏なほど耳をそばだてていた。険しい表情になると、彼女の端正な顔立ちは、砂漠に住むトカゲのように皺だらけになり、老けて見えた。
 テントの中は薄暗い。
 彼女は紅茶を喉に流し込んだ。それから首を横に振った。
 『ヒロコは乳しぼりを覚える必要はないわ』
 『どうして』
 『彼女はここを出ていかなくちゃいけない』
 子供たちは三人とも食事の手を止めた。皆一様に驚きの表情を浮かべていた。その雰囲気で、当のヒロコも何か不都合なことが起きたことを悟った。
 ハサンが母親の衣の裾をつかんだ。『ヒロコはまだ病人だよ。砂漠に出ていくのは無理だよ』
 『出ていくのよ』
 そう言うダリアの目は厳しい。潤んでるようにも見える。二姉妹は声も出せずに母親を見つめた。
 『出ていくのよ。ヒロコはここにいれば、もっと不幸になるわ』
 誰も、何も言い返さない。
 ヒロコは静かに立ち上がった。言葉はわからなくとも、おおよその状況を理解できたからだ。まるで雨女サキコのように、ダリアや子供たちが何を考えているかわかるような気がした。
 自分はここを、出ていかなければいけない。
 しょせん、自分の居場所ではないのだ。だが、ここを出て、どこへ向かえと言うのか。この異国の砂漠地帯で、自分はたった一人放り出されるのか。帰る場所は、ない。頼れる人もいない───そう考えると、彼女は急に胸が苦しくなった。立っているのもやっとであった。呆然と佇むヒロコに、ダリアが声を掛けようとしたそのときであった。
 外で銃声が立て続けに何発も鳴った。大気をつんざくような音。テント村一帯が騒然とした。
 男たちの怒号が聞こえる。
 『敵だ!』
 『スンニ派の連中か? イスラエルか? アルカイダか? どこの連中だ!』
 『わからない!』
 『戦車が来るぞ! 戦車の大群だ!』
 『逃げろ!』
 『応戦するんだ!』
 『逃げろ!』
 ダリアの行動は素早かった。彼女はすぐさま荷物の下からライフル銃を取り出し、弾丸を装填した。ヒロコには見覚えのある形だったが、年式がよほど古いように見える。アイシャとジャミラは抱き合って怯えた。アイシャはすでに泣き出しそうである。ハサンは十歳の子供とは思えないほどの怒りの形相で立ち上がり、奇声を上げると、棒切れを持って外に飛び出した。
 『戻ってきなさい、ハサン!』
 ダリアはハサンを追うようにして、銃を抱いたままテントを飛び出した。続いてヒロコも。彼女はAUSP時代に叩き込まれた習慣で、とっさに戦闘用ベストを探したが、もちろんそんなものはなかった。自分用のライフルもない。ただ、戦闘態勢に入らなければいけないことは冷静に自覚していた。
 外に出てみると、すでに喧騒状態であった。砂ぼこりの舞う中を人や家畜が右往左往し、怒声や悲鳴が飛び交う。男たちはライフルを手に、ある者は馬に乗り、ある者は女たちを避難させた。杖を突く老人はひたすら天を仰ぎ、コーランを唱えた。女たちは、逃げ惑う者、羊やラクダを何とか安全な場所に誘導しようとあたふたする者、大声で呪いの言葉を叫ぶ者。しかしほとんどの者は、岩陰のある方へ全力で走り出していた。
 『シリア解放戦線だ!』
 『奴らが来た!』
 『皆殺しにされるぞ。奴らは人間じゃない・・・逃げろ! 逃げろ! 逃げろ!』
 ヒロコは遥か彼方の地平線に信じられない光景を見た。
 戦車が合わせて六台。砲口をこちらに向けて近づいてきている。その間三キロメートル。戦車の立てる振動が柔らかい地面を伝わって体を揺さぶるような気がした。戦車の周りには何人かの歩兵も見えた。
 銃を持って立ち向かおうとする者は皆無に等しかった。兵力の差は歴然としていた。だが、よく見ると何かがおかしかった。少年だ。一人の少年が、逃げ惑う人々に背を向け、戦車の群れに向って棒切れを振り回し、何か喚いている。
 ハサンである。ヒロコは愕然とした。
 「ハサン!」
 ヒロコは思わず叫んだ。母親ダリアの叫び声もそれに折り重なった。少年は引き返そうとしない。死んだ父親の仇が来たとでも思いこんでいるのだろうか、彼は全身全霊でもって、戦車に向って罵り続けた。
 一台の戦車の砲身が、正確な角度で少年に向けられた。
 <まさか>ヒロコは心で激しく否定した。<まさか、無抵抗の子供を狙うつもり?>
 戦車が揺れた。まるで、戦車が撃たれたかのようであった。しかし、実際には戦車が撃ったのだ。
 強烈な爆音とともに空に達するほどの砂煙が上がり、ヒロコは思わず地面に倒れ伏した。顔を上げると、先ほどまでハサンのいた場所の大地が抉り取られていた。ハサンの姿はすでになかった。彼の幼い姿は、どこにも見当たらなかった。
 母親ダリアの悲痛な叫び声が耳をつんざいた。二人の姉も泣き崩れた。
 あらゆる騒音が急に遠ざかったようにヒロコは感じた。焦げ臭い、と不思議なくらい冷静に心に思った。戦車の砲弾って、こんなに焦げ臭いんだ。それともこれはハサンが焼け焦げた臭い? 何なのあの戦車たちは? ハサンが何をしたと言うの? 子供一人殺すのに、あの人たちは主砲一発使うの? 
 <許さない>
 ヒロコは片膝を立て、立ち上がった。
 息子の命を奪われた母親がライフルを抱え、戦車に向って走り出すのが横目に見えた。彼女を止める男たちの声が聞こえる。ヒロコ自身に対しても、伏せろとか逃げろとか何か言われているのがわかった。だがヒロコは、しっかと大地に立ち、今やダリアに照準を合わせつつある戦車を睨んだ。その姿はまるで、憤怒と冷静沈着を併せ持つ不動明王のようであった。
 一瞬、ヒロコの脳裏を、憤りとは別のものが掠めた。それはほとんど心地良いほどの驚きだった。ここは、なんとわかりやすい世界なのだろう。殺すか、殺されるか。あの馬鹿馬鹿しいほど破壊的な戦車に比べたら、自分の存在は、ここでは、それほど異質じゃない───ヒロコは自分の存在意義が妙なかたちで承認されたような、小気味良ささえ感じていた。
 彼女には、絶対の自信があった。それは今までにないものであった。これが、AUSPでの訓練の成果なのか。自分はもはや、「病人」ではない。有能で精密な「兵器」になろうとしているのだ───ヒロコは刹那に、そんなことまで考えた。
 石ころだらけの砂漠の上に、朝日はすでに高く輝いていた。雲一つなかった。もともと砂漠にはほとんど雲がない。全ては公開処刑場さながらに明るみに曝け出されていた。泣き叫び逃げ惑う人々。今や二キロメートルまで近づいた戦車の列。最終的にはすべて者たちの死を待ち、呑み込もうとしているかのように絶対的な沈黙を保つ、果てしない不毛地帯。
 <死ね>
 
(つづく)

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