織部は十二の少年のように顔を真っ赤に染めた。
──────あの時、自分は魂をアメリカに売ったのだ。そう、織部は回顧した。自分の職業も、日本も、家族も、ある意味ではあの時、捨てたのだ。そして今、彼らの指示を受けて、彼らと共に飛行機に乗り、シリアに向っている。
<そうだ>彼は爪を噛み、眉間に皺を寄せた。<俺は結局、あの娘に会いたいだけなんだ。どんな手段を使っても会いたいんだ。あの娘の今を見てみたい・・・会って、それからどうする? この切ない胸の内でも告白するか? は、は! はは!・・・だけど、俺はほんとに、あの娘をNASAなんかに引き渡すつもりか?>
彼は通路を挟んだ隣の席を一瞥した。見ると、そこに座る白人が、先ほどからじっと彼の方を観察している。
「おい、ジョージ」
極まりが悪くなった彼は、白人に新聞を突き出してみせた。
「ここんとこの記事にはなんて書いてあるんだ」
彼は英字新聞の内容をほとんど理解していなかったのだ。ジョージと呼ばれた顔の小さなとんがり頭の白人は、彼が指差す部分に目を通し、片言の日本語で答えた。
「ヒロコのこと」
「それぐらいわかってらあ。これだけ写真が載ってりゃあな。ここの飛行機が墜落して燃えてる写真も、ヒロコのしわざか」
「ミグ23。ヒロコが燃やした」
「ミグ23・・・シリア空軍か」
「イエス。シリア空軍。ついにシリア政府、世界にお願いした。軍隊送ること。いよいよ世界から軍隊シリアに集まる。ヒロコとても危険」
ジョージの隣に座る別の大柄な白人が英語でジョージに囁いた。ジョージは頷き、織部を振り返った。ぐっと声を落として囁く。
「この飛行機、別の国のエージェント乗っているかも知れない。ヒロコの話題ダメ」
けっ、と吐き捨てるように呟いて織部は前を向いた。面白くなさそうにソファに身を沈め、爪を噛む。
<畜生。『とても危険』ってなんだ。どっちがどっちに対して危険だってんだい。ほんといろんなことがわかんなくなってんな。何であの娘はシリアなんかにいるんだ? あいつの意志か、これは?・・・じゃあおい、俺はどうだ。俺は果たして自分の意志でこの飛行機に乗っているのか? は! 大した「自分の意志」だよ。この売国奴が!・・・畜生、駄目だ。人間、いったん日陰に追い込まれると、性根までどんどん腐っていくみてえだ・・・いや。違う。違うぞ。俺にも正義感のかけらってものがまだ残ってらあ。俺はヒロコを救い出しに行くんだ。そうだ。そうだろう? それが俺の、俺だけが知る使命だ。ヒロコ、俺が助けに行くぞ。俺が行くまで死ぬな。誰かに傷つけられたりするな。それに・・・・それに、もう無益に人を燃やすな、馬鹿が>
機体が揺れた。乱気流に入ったのだ。
線香の重い薫りが天幕の中に漂う。ランプの灯りが十七の乙女の肌を紅に染める。憂いを帯びて見開かれた黒い瞳には何も映っていない。腕や肩、額に巻かれた宝石の数々も、彼女一人だけのために銀の器に盛られたさまざまな果物も、彼女の倦んだ眼差しの先にはない。
ヒロコは肘枕に寝そべり、たくさんの贅沢に囲まれ、この上なく憂鬱であった。
部屋にはヒロコを除いてもう一人、隅の暗がりで片膝を突いて座り込み、じっとヒロコを見つめている女がいた。ジャミラである。彼女はヒロコの側仕えになっていた。
線香の煙が蜘蛛の糸のように細く立ち昇る。
立ち昇った煙は、夜風もないのに、途中で乱れる。
<もう、百人くらい殺したろうか>
ヒロコの目は苛々した光を宿した。
<いや、そんなことはないわ。さすがに百にはまだ行ってない・・・>
「ジャミラ」
ジャミラはすぐに走り寄ってきた。
「ホット!」
手で首筋を煽ぐ真似をして英語で言うと、ジャミラは頷き、ヤシの葉で作った扇を取り出して女主人を煽ぎ始めた。ジャミラには幾つかの英単語しか通じない。そもそもヒロコの使える英単語もごく限られている。それらの言葉も、語の意味が伝わっているのか、ヒロコの手振りで何となく意図を理解しているのか怪しいものである。それに、ジャミラは最近、どんな命令を受けるときもどこか不機嫌そうである────ヒロコが最初の「奇跡」を行って戦車を燃やし、弟ハサンの仇を取った時は、泣きながら首筋に抱きついてきたのだが。あの時、生涯の服従を誓ったので、ヒロコもわざわざ彼女を侍従に指名したのだ。ちなみに長女のアイシャは「奇跡」の後もヒロコをいぶかしげに眺め、距離を置き続けた。
扇で煽がれても、ヒロコの顔の曇りは一向に晴れなかった。やり場のない苛立ちが、もはや我慢できないほどに募る。
「アイスが食べたい」
日本語で言い放った。
(つづく)