最近は洗濯機すらろくすっぽ潜ってなかろうと思われるほど黄ばんでくたびれたパジャマに素足姿の少年は、ダイニングルームに入るとも入らぬとも決しかねる様子で、入口の壁に両手を這わせた。その姿はまるで母親に抱きつく赤子のようにも見えたが、十歳の少年の関心は、決して壁にあるわけではなかった。
部屋は、北洋漁業船の船室のように暗く冷えきっていた。テーブルに所狭しと散らかったビニル袋や、食べかけの惣菜を載せたトレー、潰れた空き缶、割り箸を突っ込んだままのカップ麺の空の容器などが、この家にここ一か月間女性の手が全く入っていないことを物語っていた。
暗がりで虚ろに光る二つの目が、壁際の少年を捉えた。
グラスがテーブルに当たる鈍い音。
「なんだ。勇太か」
度重なるアルコール摂取で潰れた声である。
壁を這う少年の手に力がこもる。まるで、それによって自分の身を守ろうとでもするかのように。だが視線は、先ほどよりずっと弱々しく床に落ちた。
「どうした」
少年は壁から離れた。彼は片手で、粘土でも捏ねるように顔を撫で回す。
答えはない。
「もう────もう遅い時刻だろ。何時だ? え? おい、もう十二時近いじゃないか。おい。もう十二時になるぞ。明日も学校だろ。早く、早く寝ろ」
「おなかすいた」
「何だって?」
少年の声はあまりに小さかったので、父親は聞き取ることができなかった。彼は組んでいた脚を解き、テーブルに突いていた肘を上げ、一人息子の方に身を屈めた。それだけの動作をするのにも、ひどく億劫そうであった。
廊下から差し込む明かりが、男の顔を照らした。瞼や頬が腫れぼったく膨らみ、ぬめぬめと脂ぎっている。泥酔しているのが一見してわかる。
「おい、何て言った?」
「おなかすいた」
「おなかすいた? おなかすいただと。え? おなかがすいたのか。ほれ、言わんこっちゃない。お前、夕食残しただろ。な、夕食残しただろ。食べろって言っても食べなかったもんな。言うこと聞かないから・・・」
「ドリアが食べたい」
父親の体が硬直した。せっかく買ってやった惣菜を食べずに我が儘言いやがって、というよりは、触れてはいけない禁句に触れられた緊張感があった。
息子はいつの間にか、すぐ目の前に来てたたずんでいる。幼い右手は相変わらず顔のあちこちをまさぐって、何が痒いのかわからない。
父親の目が、狂気に近い憤りの光を帯びて、トレーの山を睨んだ。
「母さんは死んだ」
薄汚れたパジャマに包まれた幼い体が、電気ショックでも浴びたように、びくり、と震えた。すでに何百回と確認し、思い知らされてきた事実のはずだが、少年の耳には初めてのように聞こえるらしかった。
父親はウィスキーボトルを鷲掴みにし、わずかな残りをグラスに注いだ。
「もう寝ろ」
「ドリアが食べたい」
ボトルがぐらつき、ウィスキーがこぼれた。
「聞こえなかったのか。聞こえなかったことはないな、勇太。な、わかってるよな。お前も四月からは五年生だ。五年生は・・・高学年だ、勇太。おい。いい加減────いい加減現実を受け止めろ。前を向け。明日も学校だろ? 前を向け勇太。わかるな。ドリアを作ってくれる人はもうこの世にいないんだよ」
父親はグラスを持ち上げたが、急に自分の言葉に自分で苛立ってきたのか、鼻息を荒げると口もつけずにテーブルに戻した。
壁時計が日付の変わり目を告げる。それを見る人はいない。
「寝ろ」
力を籠めた怒声だった。小学四年生は当然予期していたかのように格別驚きもせず、素直に回れ右をしてダイニングルームを出た。
「いや待て勇太」
不意に人並みの親心が湧いてきたのか、さすがにこのあしらいは酷いと自省したのか、はたまた自分が相当酔っ払っていることに今更ながら気づいたのか、父親は慌てて、別人のように優しい声で息子を引き留めた。
入口の壁から十歳の息子の顔が半分だけ覗く。
「腹が減っていたんだな。腹が減ってちゃ眠れんだろう。ほら、こっちにおいで」
ペタペタと素足を鳴らしながら少年は近づいた。
父親はわが子のなで肩に腕を回し、かつて親子三人の時はよく使っていた穏やかで優しい、もうほとんど忘れかけていた口調を思い出すようにして、ささやいた。
「ほら。ここにいろいろあるぞ。ほら、好きなのをお食べ。ええと、ポテトサラダが残ってるな、これなかなか旨いぞ。それから、唐揚げもある。唐揚げもあるぞ。それとも麻婆春雨がいいか?」
少年は腹を突き出し、顎を引き、父親の耳にはっきり届く声で言った。
「ドリアが食べたい」
次の瞬間、直下型地震のような衝撃が起こったのは、男がテーブルを拳で思いきり叩いたからだった。
「いい加減にしろ!」
叩いただけではなかった。テーブルの上に山積みになっていた惣菜や何もかもが、彼の太い腕になぎ払われて、脇に飛び散った。グラスが床で砕ける音がした。
振動が伝わったのか、壁のカレンダーが画鋲ごと落ちた。
父親は全力疾走を終えたばかりのように全身を真っ赤にして息を切らせた。息子は杭に縄で縛りつけられたかのように微動だにできなかった。
「いい加減にしろ!」
怒号は涙を含んでひび割れた。
「母さんは死んだんだよ。死んだんだよ。世界一旨いドリアを作ってくれた人は、もういないんだよ。ああ、確かに母さんのシーフードドリアは最高だったな。何を作っても旨かった、母さんの作るものは。ドリアは特に、特に最高だった。三人の大好物だったもんな。父さんも食べたいよ。父さんこそ食べたいよ。だがな、勇太。じゃあどうしろって言うんだ。え? お前はどうして欲しいんだ。ドリアを作る人はいないんだよ。俺じゃ作れないんだよ。それとも何か。おい。父さんを困らせたいのか。勇太。お前は父さんを困らせたいのか」
頬に止めどなく涙が伝わる。両肩を激しく揺さぶられ、少年も泣きじゃくり始めた。
「ドリアはないんだ。あのシーフードドリアは、もうこの世にないんだ。勝手に、先に、死んじゃったんだ。勝手に、俺たちだけおいて・・・・これからどうすりゃいいか、もう、父さんもわからないんだ」
体を揺さぶられ、嗚咽に言葉を詰まらせながら、やっとの思いで少年が言った。
「父さんも作った」
父親の手がはたと止まった。「何だと」
「父さんも、母さんと一緒に、作ったことある」
キョトンとした顔で息子を眺めていた父親は、涙でくしゃくしゃになった顔で苦笑した。
「は、は、一回だけな。ちょっとだけ手伝ったやつな」
「父さんも作った」
「いや、あれはほんとに手伝っただけだ。作ったうちに入らんな」
「作り方、聞いてた」
「・・・まあ・・・まあ、な。聞いたかもしれんが・・・」
「作ろう」
「え?」
「一緒に作ろう」
父親は息子をまじまじと見つめた。まるで、初めてその存在をしっかりと目にしたかのように。
「作って欲しかったのか」
こくりと少年は頷く。
「母さんの、ドリアを」
また、こくり。
父親は鼻を啜った。椅子から降り、床に膝を突いて息子と向き合った。
「────母さんのようには、美味しくできんぞ」
「知ってる」
父親は破顔し、息子の頭を腕で抱き寄せた。
「よし作ろう」
「うん」
「一緒に作ろう」
「うん」
顔を強く父親の胸に押し付けられ、少年の声はほとんど聞き取れないほどに籠っていた。しかし、その明るさを取り戻しつつある声の響きを、父親は肌で聞いた。今しばらく、そうしていたいと、彼は思った。
「勇太」
「うん?」
「ごめんな」
「うん」
「ほんと────ほんとごめんな」
「うん」
(おわり)