第二章
私の通夜は葬儀屋と美咲の打ち合わせどおり、我が家にて翌々日に執り行われた。
この日も雨であった。狐の嫁入りどころか、アスファルトに飛沫が立つほどの本降りである。私の通夜に天が涙してくれたのかも知れない。しかしそれにしても激しい。憐れみの涙というよりは嫌がらせである。私の死という穢れを、なるべく早く洗い去ってしまおうという魂胆か。くわばら、我ながら僻んだものの見方である。
あの天使の面をした魔女に「死海」を見せられて以来、私は随分鬱々として時を過ごしていた。食事排泄入浴はもちろん、夜寝る必要すらなかったので、私は小石のように時間を持て余した。かつて、時間は私の前にあって私を引き摺り回している感があった。今、時間は私の後ろにいて足枷となって私を引き留める。日中はどうしてまだ日が沈まないのかと柱時計を探した。夜はこのまま朝が来ないんじゃないかと恐怖した。霊魂生活とでも言うべき現在の環境に、私ははや倦みかけていた。
考えてみれば可笑しな話である。私は透明人間になったのだ。字義通り、まったく理想的な形で。透明人間とは都合が良いではないか。今こそ、生前内なる倫理観が歯止めをかけていたもろもろの欲求を満たす好機である。私はどこにでも行ける。どこに行けば楽しいか。低俗ではあるが、他人の私生活を覗くことくらいはすぐに思い当たる。そして実際に私は一、二度試してもみた。正直に告白するが、若い女の裸も見たし、有名な女優の寝顔も見た。しかしいずれのときも何の感慨も見出せなかった。私はすぐにそれらの行為を止めた。立派である。私は案外根が純真なのかも知れない。それとも自分の運命を思い煩うことで手一杯なだけか。あるいはあるいは。他の幽体離脱者に私の行為を見られているのでは、という危惧は大したものではないにしても、死者としては当然であろう欲望の欠落がそもそもの原因だとすれば。不能者のように何の欲情も沸かなくなったのだとすれば。それはそれで、しみじみと虚しい。満たす必要のない杯ならば満たしたいと感じないのももっともである。私が現在女の裸とか好機とか言うのは単に記憶という残滓にすがり付いているだけであり、それもいつか風化し消え去れば、そのとき私は、朽木のように感情全般を失ってしまうのか。
どうも思考が自虐的になっていけない。真夜中に公園のベンチに疲れてもいないのに腰掛けて、街燈の照らす赤煉瓦敷きの地面を眠たくもない目でじっと眺めていると、ふと、どうして自分は完全に死ねなかったのだろうという思いが脳裏をよぎる。空き缶を蹴り上げたいが蹴ることすらできない。
私は何も見たくなくなったのか。本当に。
私が今でも見たいと思う、会いたいと思う女はいないのか。
私が死んで二日目の深夜、昨年の落ち葉が粉々になって残る公園の一角で、私は昔出会った一人の女性のことを思い出した。私はかの女を思い出した。やせて、背が低かった。その女は一昨年、私より先に死んだ。色の白い、いつも遠くを見つめている女だった。
霞草が好きな女だった。
汚い野良猫が目の前を横切った。もっと汚く太った野良猫が、滑り台の下でニャアと鳴いた。
私はベンチから立ち上がった。
私にはまだ欲望がある。当然のことだ。私は成仏しきっていないのだ。私は元気が出てきた。明日の通夜を見てやろう。いや当然見るつもりだったが。私は何とかして私の不審死の全貌を暴き立てなければならない。
空き缶を蹴ってみたがやはり空振りした。
坂道を登ってビザ屋の二輪が現れ、公園の前を右に曲がった。エンジン音が喧しい。どうも道を間違えたようである。運転が苛立っている。引き返すため車体を反転する際、フロントライトが私の体を貫いて横切り、鉄棒の奥の何もない暗がりを照らした。
(つづく)