た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

整体賛歌

2016年07月30日 | essay

   夏の繁忙期を前に、整体に行く。四十を過ぎてごまかせなくなった体の隅々のぎくしゃくを、今のうち取れるだけ取っておかないと、と思ったからである。

   整体は足繁くというほどではないが、行くと大概満足する。人の書いたものを読むと、整体には当たり外れが大きいとある。私はあまり「外れ」に当たったことがない。今までに門をくぐった整体は十に近いが、どこでもそれなりに整体師の技術に感動し、心地よい痛みを経験し、終わればすっきりした気分で青空を見上げた。一度だけ、とある温泉場で入った整体だけは、何をされたんだかまるで分らないまま終わったが、そこ以外は総じて「また来てもいい」と思えるものであった。私の体がよっぽど疲弊していて何されても気持ちよく感じるのか。そうでなければ、日本の整体のレベルが高いという証左であろう。

   今回は初めての場所であり、自転車でふらふらと通りがかったついでに立ち寄ってみた。入るなり、威勢のいいおじさんにいきなりベッドに俯きにされ、ツボというツボを押された。びっくりしたのは、その指先の洞察力である。背中を押さえながら「腸が弱いね」と指摘され、首筋を押さえながら「目が悪いね」と言われ、瞼を押さえながら「左が特に悪いね。それに乱視がある」と看破された。すべてずばりその通りである。こうなると、腕の付け根を押さえながら「不整脈のケがあるかな?」などと言われても、ああ、私は不整脈だったのだと素直に納得してしまう。

   最終的には、「結構…疲れているね」との結論を出して私の上体を起こし、お終い、と背中を叩かれた。「結構・・・」の後の言葉の濁りは、「ボロボロだね」と言おうとして呑み込んだ気配を感じ取った。そうに違いない。そうだ。ボロボロなのだ、私の体は。四十を過ぎて仕事人として、家庭人として、ぎりぎりを生きているのだ。自分の体に鞭打ち、その鞭に悲鳴を上げ、「もう一杯付き合ってよ赤ちょうちん」の世界にどっぷり足を踏み入れているのだ。

  それにしても、整体は奥深い世界である。汝自身を知れ、とは、古代ギリシャのアポロン神殿に刻まれた警句だが、整体師は人間の体を知ることにかけては古代ギリシア人を驚かすに十分ではないか。そうだ、我々はみな、義務教育として整体を習うべきなのだ。それが今後の日本の、高齢社会と医療福祉の問題を解決する意外な秘策になる、とまで断言すると、どうやらこれは、論点のツボをだいぶ外したことになるか。

 

 

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夏の始まり

2016年07月25日 | 写真とことば

  知人が東京より来る。仕事を辞めたとのこと。車を走らせながら、互いの思い出をよみがえらせる。

  暑い夏はこのようにして始まる。

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作成中

2016年07月20日 | 断片

 白い靄の立ちこめる朝であった。彼は目覚めてすぐに目覚めたことを悔やんだが、もうどうしても眠りに就くことはできそうになかった。

 森の奥に湧く泉のように、彼の頭脳はさえざえとしていた。彼は今日自分が何をなすべきか、まるでわかっていた。

 目を開いて天井を見つめる。小学五年生の冬から六年余り、毎日見つめ続けてきた天井である。歪んだ顔の老人が鼻を擦りながら泣いているように見える木目が、あちこちに繰り返されている。それが偽りの木目だということは、彼の両親が交通事故で亡くなり、県境をまたいだ叔父夫婦の家に引き取られ、この部屋に寝かされた晩には、十一の彼はもう気付いていた。

 枕元に手を伸ばし、手探りだけで携帯電話を掴み、鼻先に持ってきた。五時十五分。液晶画面が震えているのは彼の手のせいである。

 手が力を失って布団の上に落ちた。彼は夜明けに対し最後の抵抗を試みるかのように強く目を閉じたが、瞼は痙攣を起こしたように震えた。彼はすぐにまた目を見開かざるをえなかった。

 彫りの深い顔つきである。眼の下に二重のような切れ込みがあるので、目を見開くと実際以上に大きく見える。この街に引っ越した小学五年生当時、クラスで「メガネザル」とあだ名された。担任の男の先生が転入生をあだ名で苛めないようにと「メガネザル」禁句令を発令し、以来高校三年の現在に至るまでそう呼ばれることはなくなったが、彼は今でも心の中で、自分に一番ふさわしいあだ名だと密かに思っている。

 彼はむくりと起き上がり、窓辺に行ってカーテンを開いた。

 すでに日は出ている時刻だが、靄が深くて何も見えない。靄がなければ、隣の家の古い瓦屋根と、伸びすぎた柿の木と、そのはるか向こうにはバターを一匙延ばしたような山並みが、曙光に照らされてそれなりに心落ち着く風景として広がって見えるはずである。 

  だが今は、隣の家の輪郭がやっとつかめる程度であった。彼はガラス窓に手をかけ、音を立てないようにそっと開けた。まるで、この二階の部屋から外に出て、靄の中を歩こうとするかのように。しかし、思いの外冷たい湿気が彼を襲い、彼はしかめ面をして窓をすぐに締め直した。ガタンと音が立ったことを、彼はひどく後悔した。

 彼はふいに耐え切れなくなり、その場にしゃがみ込んだ。嗚咽を漏らす。髪をくしゃくしゃに掻き毟る。彼自身が一個の濡れた紙屑のように、畳の上に崩れ落ちた。

  叔父を殺す。必要となれば、叔母も殺す

 それから二時間ほどして、彼は階下に降りてきた。

 一階の食堂では、彼の叔父と叔母が朝食を食べていた。食べると言っても、叔父は新聞を広げてコーヒーとバター付きの食パンを冷めるに任せていたし、叔母はダイエットと称してリンゴを剥いていた。リンゴがバナナの時もあれば、オレンジの時もある。いつもの見慣れた光景であった。痩せて首筋が古木の根元のように突っ張っている叔父。軟球を縦に少しだけ押し潰したような顔立ちで、眼鏡の下に薄い鼻髭を蓄えている。対照的に、両肩から重圧を受けて始終肩身が狭そうな面持ちの叔母。ダイエットの必要を感じさせない細面である。  

 二人はもの静かに、何気ない風を装いながら、しかしそれとわかるほど神経質に、甥を迎え入れた。

 

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A condolence

2016年07月16日 | 悲しみの表明

It's much easier to destroy anything than to construct something.

It's much easier to make anyone sad than to make someone happy.

But destruction and sadness lead us nowhere.

We all have a child whose name is our future.

We must bring it up together. 

We must share it with the other. 

So we must unite

 to release ourselves from a chain of hate.

Peace to France.

Peace to the world.

 

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美ヶ原トレッキング

2016年07月07日 | essay

 先日、自分の体にガタが来ているようなブログを書いたら、それを読んだ近所の仲間二人が美ヶ原高原のトレッキングと昼食会に誘ってくれた。元気づけにと言う。仲間とはあり難いものである。

 というのはただの体裁で、二人とも昼間から遊んで飲みたいのだ。私は夜に仕事があるから飲めない。しかも一番の年下。運転手は必然私である。 

 当日の山頂付近は、あいにくの霧と風。下界は汗の滴る真夏日だと言うのに、トレッキングコースの入り口で車を降りると、震えが来るほどの寒さである。さすが標高2000メートル。山の天気は侮れない。

 それでも歩き始めたら、体も温まり、ちょうどよい感じになった。景色は何も見えないが、肌に触れるひんやりしたミストが心地よい。俄然元気が出てきた。ああ、私に必要だったのは、この冷気と湿度だったのだ、と悟った。

 下山して食事。私を誘った二人はしこたま飲んだ。彼ら二人に必要なのは、もっとずっと直接的な潤いであった。 

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壊れかけたパソコン

2016年07月05日 | essay

   パソコンが動かなくなった。電源を入れると起動するが、それより先はどの「部屋」のドアを叩いても開かない。おまけに電源を切ることすらできない。まるで、朝起こすのは起こしたがそれから全く言うことを聞かず、今度は寝ろと言っても寝ようとしない反抗期の子どものようである。

 人に相談すると、かなりの末期症状だという。場合によっては「リカバリー」と言って、工場から出荷した当時のまっさらな状態に戻した方がいいかもしれない、とまで言われた。子どもで言えば、電気ショックでも与えて人格を一度崩壊させ、一から人格を作り直すといったところか。

 ところが所用があったついでに近所の量販店に持ち込んだら、ちょっとした作業で治ってしまった。人間の子どもで言えば───なんでも子どもに関連付けるのはいけないが───反抗期真っ盛りだったのが、誰かの言葉とかふとしたことがきっかけで、つきものが取れたように正常に戻ったといった感じか。「でも、安心はできませんよ」とそこの店員。「今回はたまたまラッキーだったかも知れませんが、パソコンのいろんなところにたまった歪みが、これですべて矯正されたと思わない方がいいですよ」

 そうだ。この文を書きながら思い出したが、その店員こそがまさにパソコンを人間のように語る人だったのだ。「すねる」とか、「ストレスが溜まる」とか、「体に軋みが出る」とか。おかげでそれを聞いた私もやたらと人間に置き換えて考える癖がついた。

 その店員は、考えられる故障の原因としてこう語った。「例えばシャットダウンしている途中で蓋を閉じるじゃないですか。そうすると、シャットダウンせよ、という命令の上に、スリープせよ、という別の命令が重なるんですよね。するとどっちなんだ、って。そんなことが繰り返されると、コンピューターも頭が混乱してへそを曲げちゃうんです」

 何と。コンピューターもへそを曲げるのか。へそを曲げられないために、人間に対するのと同じように気を遣わなければならないのか。私はこれまで、パソコンを完全にモノだと思っていた───だからこそ、少々乱暴に扱っても構わないし、モノだからまさかそのことに腹を立てたりはしない、と思いこんでいたのだ───その辺りから認識を改めないといけないのか。なるほど。コンピューターにも感情があるのか。まさにその辺りの理解の有無が、案外、コンピューターに強い人と弱い人との分水嶺になっているのかも知れない。

 ところで最近、体の調子があまり良くない。背中が張るし、眠気が取れない。慢性的に運動不足である。放っておけば、この体も動かなくなるかもしれない。コンピューターに人間的気遣いをできない者は、自分という体に対しても同様か。

 うむ。何でもモノ扱いはよくない。

 自分の体にへそを曲げられる前に、少し歩こう。   

 

  

 

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