・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
休日を利用して、書き直しをした。家族に読み聞かせてみたら、いろいろ手を入れる必要に気付いたからである。読み終えたときの家族の沈黙が、何よりも参考になった。寛容なる読者の再読を乞う。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
幻視
地中海は夏の日差しをまともに受けて腐乱した魚のようにぎらぎらと輝いていた。高く切り立った海岸沿いに蛇行する道を、赤いアルファロメオが疾走した。そのはるか上空を、一羽の白いユリカモメがゆったりと舞っていた。海も崖も空も、誰かの描いた空想画のように壮大で鮮明であった。後部座席のデイジーは車窓を全開にして顔を外に突き出し、その小さな胸一杯に風を吸い込んだ。
「ユリカモメになった気分!」
「危ないから首を引っ込めなさい、デイジー」派手な金縁のサングラスを少しだけずらして、助手席からロレンツィオ夫人が娘に注意した。「あなたのユリカモメとやらに、首をくわえて持っていかれるわよ」
「大丈夫よ、友だちだから!」
「母さんの言うことが聞けないの、デイジー。危ないから首を引っ込めなさい」
デイジーは頬を膨らませ、答えない。首元に結んだ臙脂色のリボンがはためく。
「よしきた、お嬢さん」
運転席でハンドルを握る父親が、視線は前方に向けたまま口を挟んできた。日に焼けた筋肉質の太い腕を誇らしげに肩から見せ、細いサングラスをかけている。「十数える間にその可愛い首を引っ込めるんだ。さもないと今日のピクニックは中止だ」
父親が八を数えたところでデイジーは上半身を車内に戻した。膨らんだ頬をさらに赤く膨らませながら。
父親は口笛を吹いた。
デイジーは必要もないのに車窓まで閉じて、まるで海と永遠に決別するかのように小さな体を後部座席に寝転がした。つまんない。彼女は不満げに目をぎゅっと閉じた。
その瞬間、強烈な光景が、まるで夢の中のように鮮明に浮かび上がった。
きゃっ、と叫んで彼女は目を開けた。
それは、急カーブを曲がり切れずにガードレールを突き破り、その衝撃でボンネットを大きく歪めながら、なおも十メートル下の深緑色の海原へと飛び込んでいく、まさにこの赤いアルファロメオだった。それを彼女は見たのだった。目を閉じていたにもかかわらず。
幼いデイジーが脈絡もなく奇声を発するのは日常茶飯事だったので、ロレンツィオ夫妻はどちらも振り向きもしなかった。
デイジーは一人で体を震わせた。
なんなの、さっきの光景は。
再び目を閉じると、心象風景も再び始まった。今度は海に落ちる光景ではない。まさにこの車がスピードを上げ、ガードレールを突き破った例の急カーブに差し掛かろうとしている。先ほどより少し手前の景色である。だがあの急カーブはすぐそこに迫ってきていた。悲痛な叫びのようなブレーキ音が脳裏に鳴り響いたところで、デイジーは目を開けた。汗びっしょりだった。
「これは────これは、これから起こる風景だわ!」
「どうしたの、デイジー」母親がおざなりな声をかけた。
デイジーは目を閉じるのが怖かったが、白昼夢の意味を知りたい気持ちの方が優った。
彼女はこわごわ三たび目を閉じた。さらに場面はさかのぼった。車は海辺から少し逸れた、黄色い野菊の揺れるなだらかな下り道を走っていた。はるか上空にユリカモメ。そのまま目をつぶっていると、場面は転換し、車窓から首を突き出し、臙脂色のリボンをはためかせる自分自身の姿になった。
彼女は目を見開いた。車は丘の頂上に差し掛かっていた。前方の下り坂には黄色い野菊が咲き乱れている。デイジーは絶望的な確信と共に、金切り声を上げて父親の肩を揺すった。
「停めて! 父さん、停めて! お願いだから、この先を行っちゃ駄目!」
「おい、何だ、悪ふざけもいい加減にしろ、危ないぞデイジー」
「危ないの、このまま進むと危ないの!」
「どうしたの、急に。おやめなさい、デイジー。おトイレに行きたくなったの?」と母親。
「違うの、このまま進むと海におっこっちゃうの。お願いだから停めて、父さん!」
娘が執拗に喚き散らすので、ついにロレンツィオさんは車を停めた。溜息をつき、日に焼けた太い腕を背もたれに乗せて後部座席を振り返った。
「さあ、どういうことだ、デイジー。場合によっちゃおしおきだぞ」
「見えたの。この先の、カーブで曲がり切れなくて、車ごと海に落ちていくのが見えたの」
「何だって?」
「この道なの。この車なの。父さんと母さんも乗ってるの。私も乗ってるの。この先で、この車ごと崖から落ちちゃうの」
夫婦は互いの顔を見合わせた。
まったく、この子の妄想癖にも困ったものだわ、という表情で夫人が首を横に振った。夫は太い腕を組み、しばらく思案していたが、サングラスをかけた顔を再び後部座席に向けた。
「それは、かなりのスピードを出していたのか?」
「そう、そうよ。そうよ」
「わかった、デイジー。じゃあこうしよう。父さんは、これからスピードを落として、亀さんのようにゆっくりと運転する。お前が予言したその危険なカーブとやらを過ぎるまでね。それから、スピードをもとに戻す。父さんの運転技術は信用してるね?」
デイジーは汗だくの顔でその提案を聞いていたが、ちょっと不安げながらも頷いてみせた。
「うん。だったら大丈夫だと思う。ゆっくり運転してね」
「ああ、亀さんのようにな」
「亀さんのようによ」
車は再び動き出した。
ロレンツィオ夫人がバッグからコンパクトを出して口元を確かめながら、うんざりした声で言った。「デイジー、あなたのせいで日暮れに到着しそうだわ」
亀のように、とまでは行かないが、先ほどまでよりはずっと速度を落としてアルファロメオは走行した。要は────要は、その問題のカーブのところだけスピードを落とせばいいんだろ、とロレンツィオさんが思い直してからは、速度も少しずつ増した。「もっとゆっくり、ね、もっとゆっくりお願い」という後部座席からの幼い懇願がなければ、彼は元通りの速度で走ったであろう。
車は黄色い野菊の揺れる下り坂を抜け、再び切り立った崖の道に出た。ユリカモメが前方の空高いところで旋回している。
「あっ、ここよ! ここ!」
娘の叫びがあまりに真剣なので、さすがのロレンツィオさんも速度をぐっと落とし、そのカーブを曲がった。なるほどそれはほとんど鋭角に近い急カーブであり、もしガードレールを突き破れば、命は到底ないと思われる絶壁であった。波の砕ける音がはるか下から聞こえた。
アルファロメオは無事そのカーブを通り過ぎた。ユリカモメもいつの間にか見えなくなった。
「さあ、これで安心したかい、未来予報士のお嬢ちゃん」
心からの安堵の溜息をつき、デイジーはシートに身を沈めた。同時に自分の予測がやっぱり何の根拠もない妄想だった気がしてきて、恥ずかしさに少し顔を赤らめた。
「うん、もう大丈夫。ごめんなさい。もう大丈夫だわ」
「目を閉じて少し休みなさい。疲れたのよ、デイジー」
夫人の勧めるがまま、デイジーはくたくたになった身を横たえて、目を閉じた。
不思議な夢を見た。
牧場のテラスで家族三人、ジェラートを食べている。半時ほど前、実際に立ち寄った牧場であることは明らかだった。その時、確かに、三人でジェラートを食べた。
場面は変わり、家の庭先で花壇のポピーに水やりをしている自分がいた。ひらひらのスカートに水がびっしょりとかかり、母親の怒った声が聞こえた。
二日ほど前の昼下がり、これも実際あった出来事であった。
間違いなかった。記憶は未来から現在を駆け抜け、過去を遡っている。
場面は次々と変わった。どれもこれも、かつて経験した場面であり、それもどんどん古い日付のものになった。場面の切り替えはさらに激しくなり、もはや幼いデイジーには何が何だかわからなくなった。
思わず目を開けたら、車は猛スピードで、例の急なカーブに差し掛かろうとしていた。彼女は息を呑んだ。すでに先ほど、慎重に運転して通り過ぎたはずのカーブであった。前席の両親は何事もなかったかのように前を向いて沈黙している。空高くから悠然とこちらを見下ろす、一羽の白いユリカモメ。
デイジーは死に物狂いで絶叫した。
彼女の声に負けないほど甲高く、急ブレーキの音が鳴り響いた。
(おわり)