何だかひねりつぶされるような酷暑が続く。ただ家の中でじっとしているだけで頭がおかしくなりそうである。理性という、その存在を当然あるべきものとして想定してた自己自身に対する信仰が、薄靄のかかった意識の中で静かに瓦解していくのを感じる。どうにでもなれと思う。駄目だ。このままでは危険だと自己認識する。急いで氷水などを口に含むと、一瞬間、正常な思考に戻る。ああ、理性とはしょせん、摂氏数℃違えばかくも狂いが生じるほど脆く儚いものなのかと、暗澹たる思いに囚われる。
一つの仮説を立てた。
地球がこれ以上人類の進歩を望まなくなったとき、
人類の頭脳は退行するのではないか。
一つの仮説である。
最近の子どもたちの学力低下は想像以上に深刻であり、
それは教育制度とか家庭環境とかだけにとどまらない
遠因の存在を思わせるからそう考えてみた。
非常に根拠薄弱な推論である。
私の頭脳も退行したか・・・。
しかし。
地球がこれ以上人類の進歩を望まなくなったとき、
人類の頭脳は退行するのではないか。
一つの仮説である。
最近の子どもたちの学力低下は想像以上に深刻であり、
それは教育制度とか家庭環境とかだけにとどまらない
遠因の存在を思わせるからそう考えてみた。
非常に根拠薄弱な推論である。
私の頭脳も退行したか・・・。
しかし。
木漏れ日の下に車を止める。
サイドブレーキに手をかけても火傷しそうな猛暑である。
「この先になにがあるのかしら」
助手席の妻がつぶやいた。
「なんだろうな。もう少しだけ行ってみようか」
私は襟元に風を送りながら答えた。
来たこともない道である。せっかくだから通ってみようということになった。路上にせり出すように緑が茂り、勾配は明らかに山奥を示している。
二人とも引き返すつもりはさらさらない。少々道に迷ってもおつりが来るくらい、久しぶりの二人だけの時間は手持無沙汰である。
「行ってみましょ」
「うん」
私は再びサイドブレーキに手をかけた。とてもデートコースとは言えない細く険しい山道だが、我々に相応しい道であろう。
車は年老いた忠実な番犬のようにゆっくりと再発進した。
今日は結婚記念日である。
サイドブレーキに手をかけても火傷しそうな猛暑である。
「この先になにがあるのかしら」
助手席の妻がつぶやいた。
「なんだろうな。もう少しだけ行ってみようか」
私は襟元に風を送りながら答えた。
来たこともない道である。せっかくだから通ってみようということになった。路上にせり出すように緑が茂り、勾配は明らかに山奥を示している。
二人とも引き返すつもりはさらさらない。少々道に迷ってもおつりが来るくらい、久しぶりの二人だけの時間は手持無沙汰である。
「行ってみましょ」
「うん」
私は再びサイドブレーキに手をかけた。とてもデートコースとは言えない細く険しい山道だが、我々に相応しい道であろう。
車は年老いた忠実な番犬のようにゆっくりと再発進した。
今日は結婚記念日である。
お盆に家族でキャンプに行く。
お盆に家族でキャンプに行く、そんなコマーシャルに出てきそうな定番中の定番の余暇の過ごし方を、私は今回初めて挑戦した。テントやシュラフを購入するのも出立の二日前。気がつけばどこのキャンプ場に電話しても満杯状態。仕方なく唯一、予約しなくても張れるというキャンプ場を選んだ。
清里の広大な森の一角、見晴らしの良い草原がその場所であった。一段高くなっている丘の上にテントを張る。なかなかよいではないか。設備は整っていないが、その分自由度がある。犬を五六匹も散歩させる人もいる。花火を始める人もいる。ビールサーバーを傍らに置いて延々とおしゃべりしている人もいる。我々三人はバーベキューをしながら、キャンプの上級者と思われる彼らのやることなすことをいちいち観察しながら過ごした。どこに行っても人間を見て楽しんでいるのだから世話はない。
それにしても、何もかもがうまく行っていた。
こんなに幸せでいいのだろうか、と疑いたくなるような休暇だった。
もちろん、いいわけはない。
翌日、テントを撤収していざ車に乗り込もうというときにドラマは起こった。
車のカギがない。その程度の騒ぎなら何度も経験済みなので、五分も探していれば見つかると高をくくっていたが、三十分たっても一時間たっても見つからない。草原を探してもない。一度しまったテントをまた広げてもない。本当に見つからないのだ。
私はようやく青ざめて草原にしゃがみこんだ。
車のキー。今までなくしたことはあったが、本当になくしたことはなかった。わかりにくい表現だがまさにそのままなのである。車のカギをなくしたらどうすればよいかということは、これだけ進歩した文明社会なら自動販売機のボタンを押すように簡単に解決するものと、何となく思っていたふしがある。
家族三人、芝刈り機みたいに下を向いてさんざん草原を歩き回った後、車を買ったディーラーに電話してみることになった。お盆だから店を開けていないだろうと思ったらちゃんと開けている。しかも、台車を長野から山梨まで届けてくれるという。捨てる神あれば(カギを「捨てた」のは私自身だが)拾う神ありである。
二時間待って、待つ間には子供とサッカーもして、ようやく台車が到着。台車に乗って一旦長野に帰り、スペアキーを探し出して、再び台車で山梨へ。その辺で日が暮れる。そして最後は、台車を私が、自家用車を妻が運転して、二台で我が家まで戻ってきた。私もいろんな経験を重ねてきたが、まさか家から隣の県のキャンプ場まで二往復するとは思っていなかった。そんなことは、キャンプをしようとする人は誰も思っていないだろう。
とんでもない番狂わせがあったが(しかもそれは確実に私自身が招いたものであったが)、家族が会話をする機会は当初の予定以上に確保できた。何しろ車に乗っている時間は長かったからである。家族も私に対して、可能な限り寛容であった。楽しかった、とまで言ってくれた。まあそういうところをよしとして、あとは今回のお盆休みの記憶は丸ごと(それも三人分!)黄泉の国にお戻り願いたい次第である。
お盆に家族でキャンプに行く、そんなコマーシャルに出てきそうな定番中の定番の余暇の過ごし方を、私は今回初めて挑戦した。テントやシュラフを購入するのも出立の二日前。気がつけばどこのキャンプ場に電話しても満杯状態。仕方なく唯一、予約しなくても張れるというキャンプ場を選んだ。
清里の広大な森の一角、見晴らしの良い草原がその場所であった。一段高くなっている丘の上にテントを張る。なかなかよいではないか。設備は整っていないが、その分自由度がある。犬を五六匹も散歩させる人もいる。花火を始める人もいる。ビールサーバーを傍らに置いて延々とおしゃべりしている人もいる。我々三人はバーベキューをしながら、キャンプの上級者と思われる彼らのやることなすことをいちいち観察しながら過ごした。どこに行っても人間を見て楽しんでいるのだから世話はない。
それにしても、何もかもがうまく行っていた。
こんなに幸せでいいのだろうか、と疑いたくなるような休暇だった。
もちろん、いいわけはない。
翌日、テントを撤収していざ車に乗り込もうというときにドラマは起こった。
車のカギがない。その程度の騒ぎなら何度も経験済みなので、五分も探していれば見つかると高をくくっていたが、三十分たっても一時間たっても見つからない。草原を探してもない。一度しまったテントをまた広げてもない。本当に見つからないのだ。
私はようやく青ざめて草原にしゃがみこんだ。
車のキー。今までなくしたことはあったが、本当になくしたことはなかった。わかりにくい表現だがまさにそのままなのである。車のカギをなくしたらどうすればよいかということは、これだけ進歩した文明社会なら自動販売機のボタンを押すように簡単に解決するものと、何となく思っていたふしがある。
家族三人、芝刈り機みたいに下を向いてさんざん草原を歩き回った後、車を買ったディーラーに電話してみることになった。お盆だから店を開けていないだろうと思ったらちゃんと開けている。しかも、台車を長野から山梨まで届けてくれるという。捨てる神あれば(カギを「捨てた」のは私自身だが)拾う神ありである。
二時間待って、待つ間には子供とサッカーもして、ようやく台車が到着。台車に乗って一旦長野に帰り、スペアキーを探し出して、再び台車で山梨へ。その辺で日が暮れる。そして最後は、台車を私が、自家用車を妻が運転して、二台で我が家まで戻ってきた。私もいろんな経験を重ねてきたが、まさか家から隣の県のキャンプ場まで二往復するとは思っていなかった。そんなことは、キャンプをしようとする人は誰も思っていないだろう。
とんでもない番狂わせがあったが(しかもそれは確実に私自身が招いたものであったが)、家族が会話をする機会は当初の予定以上に確保できた。何しろ車に乗っている時間は長かったからである。家族も私に対して、可能な限り寛容であった。楽しかった、とまで言ってくれた。まあそういうところをよしとして、あとは今回のお盆休みの記憶は丸ごと(それも三人分!)黄泉の国にお戻り願いたい次第である。
忙殺と忙殺の合間に、不意に聞こえてきた蝉しぐれのような休日がある。
家人に祭り見物に誘われて浴衣を着る。
団扇を腰に差してテーブルに座り、呆然として缶ビールに口をつける。
失われた時間と少しだけ修復された時間。
祭りという
妙に縁取られた時間。
家人に促され、最後のほろ苦い一滴を飲みほして席を立つ。さあ。
家人に祭り見物に誘われて浴衣を着る。
団扇を腰に差してテーブルに座り、呆然として缶ビールに口をつける。
失われた時間と少しだけ修復された時間。
祭りという
妙に縁取られた時間。
家人に促され、最後のほろ苦い一滴を飲みほして席を立つ。さあ。