梅の酸味とわさびの辛味と、和を代表する二つの刺激が溶け合い、なかなかに印象に残るよい味。写真は白飯の上に乗せているが、わさびの繊細な香りを楽しむためにはもう少し別な楽しみ方を工夫した方がよいかもしれない。酒の肴とか。
考えてみればお茶漬けには梅とわさびを混合したものがあるではないか。おお、お茶漬けはよいではないか。お茶漬けは白飯と微妙に違い、熱いお茶により香りが増幅され、味が全体に染み渡る。よしよし。最近懐の都合により粗食が続いているが、こういう粗食なら大いに結構。よしよし。しめしめ。めしめし。
安曇野等々力邸隣のわさび専門店で購入。お茶と漬物のサービスがあり、ゆっくりと味見しながら買い物できる。
考えてみればお茶漬けには梅とわさびを混合したものがあるではないか。おお、お茶漬けはよいではないか。お茶漬けは白飯と微妙に違い、熱いお茶により香りが増幅され、味が全体に染み渡る。よしよし。最近懐の都合により粗食が続いているが、こういう粗食なら大いに結構。よしよし。しめしめ。めしめし。
安曇野等々力邸隣のわさび専門店で購入。お茶と漬物のサービスがあり、ゆっくりと味見しながら買い物できる。
前回の「夏」に寄せてくださったコメントにお返しをしながら、これいいなあと思ってしまいました。しりとりをしたあと、そのしりとりで一つの物語を作る。作れなかったら負け。しりとりでも競い、物語でも競うわけです。
何が楽しいのかと問われたら、返答に窮するところですが。
◆ルールは二通り
①しりとりは複数の人数で行い、決められた語数続いたあと(10語とか)、各自それを物語りに仕立てる。まったく脈絡のない言葉のつながりをいかに説得力のある物語に仕上げるかが腕の見せ所。
②しりとりも一人で行い、それを自分で一つの物語に仕上げる。あとで物語りにすることを念頭に、しりとりの言葉を上手く選択していくのがコツ。
※①は主に物語の創作を競う競技、②は主にしりとりの技術を競う競技。
ここまで詳細にルールを作って、楽しいのかと問われたら、返答に窮するところですが。
何が楽しいのかと問われたら、返答に窮するところですが。
◆ルールは二通り
①しりとりは複数の人数で行い、決められた語数続いたあと(10語とか)、各自それを物語りに仕立てる。まったく脈絡のない言葉のつながりをいかに説得力のある物語に仕上げるかが腕の見せ所。
②しりとりも一人で行い、それを自分で一つの物語に仕上げる。あとで物語りにすることを念頭に、しりとりの言葉を上手く選択していくのがコツ。
※①は主に物語の創作を競う競技、②は主にしりとりの技術を競う競技。
ここまで詳細にルールを作って、楽しいのかと問われたら、返答に窮するところですが。
白米、おこわ、うどん、そば。ひやむぎ、ラーメン、スパゲティ。
これらの主食品にことごとくジャムが合わないのはなぜか。
答えはパンのみに付随する「焼く」という行為にある。
だって焼いたお餅にもジャムは合うんですもの。
では焼き飯にジャムは合うって言うのですか?
その真偽は一切味付けせずに炒めたご飯に
ジャムを乗せたとき明らかになる。
集え勇気ある実証主義者達よ!
私にはその勇気がない。
これらの主食品にことごとくジャムが合わないのはなぜか。
答えはパンのみに付随する「焼く」という行為にある。
だって焼いたお餅にもジャムは合うんですもの。
では焼き飯にジャムは合うって言うのですか?
その真偽は一切味付けせずに炒めたご飯に
ジャムを乗せたとき明らかになる。
集え勇気ある実証主義者達よ!
私にはその勇気がない。
古本を大量に譲り受けた。
空き地に積み上げられ、古紙に出される直前で、偶然そこを通りかかった私の手に渡ったのだ。
元の持ち主から依頼されて搬出した大家さんは、喜んで本の選別と抜き取りを手伝ってくれた。
詩集、画集、地理図鑑、百科事典。
「どんどん持ってってよ。もったいないもんねえ。いい本がこんなにあるのよ」
「古本屋に持ち込めば多少の金にはなるでしょうに」
「それが駄目なんだって。今出版は不景気でしょ。在庫が溜まるだけだって」
「へえ。そんなもんですかねえ」
よく見ると、全集はどれもわずかな一部が欠けていた。それで古本屋も価値なしと判断したのだろう。
もらっておきながら、少々腹が立った。こういう全集を好景気のころ、無計画に大量生産した出版社に腹が立ったのだ。
全集は一冊でも欠けると一気に価値を喪失してしまう。本当はそんなことはないと思うのだが、はなからそういう体裁の商品であり、当然ながら一般消費者にも広くそう認識されている。
そこが何か、全集に収められた個々の芸術作品や学術作品を冒涜しているようで、私は気に食わないのだ。
本の埃を一冊一冊拭いて日に干す作業中、その腹いせではないが、そんなことを考えた。(写真とはぜんぜん関係ないなあ。)
空き地に積み上げられ、古紙に出される直前で、偶然そこを通りかかった私の手に渡ったのだ。
元の持ち主から依頼されて搬出した大家さんは、喜んで本の選別と抜き取りを手伝ってくれた。
詩集、画集、地理図鑑、百科事典。
「どんどん持ってってよ。もったいないもんねえ。いい本がこんなにあるのよ」
「古本屋に持ち込めば多少の金にはなるでしょうに」
「それが駄目なんだって。今出版は不景気でしょ。在庫が溜まるだけだって」
「へえ。そんなもんですかねえ」
よく見ると、全集はどれもわずかな一部が欠けていた。それで古本屋も価値なしと判断したのだろう。
もらっておきながら、少々腹が立った。こういう全集を好景気のころ、無計画に大量生産した出版社に腹が立ったのだ。
全集は一冊でも欠けると一気に価値を喪失してしまう。本当はそんなことはないと思うのだが、はなからそういう体裁の商品であり、当然ながら一般消費者にも広くそう認識されている。
そこが何か、全集に収められた個々の芸術作品や学術作品を冒涜しているようで、私は気に食わないのだ。
本の埃を一冊一冊拭いて日に干す作業中、その腹いせではないが、そんなことを考えた。(写真とはぜんぜん関係ないなあ。)