た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

並び替え 第二弾

2006年04月16日 | 連続物語
無計画な死をめぐる冒険17~25を進行順に並び替えました。

1~16も少し前の過去ログに並んでいます。

こういう整理をするときは、大抵原稿の進まないときです。
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無計画な死をめぐる冒険 17

2006年04月16日 | 連続物語
 「ほほ、そうそう。あなたには見えないんですな。同志の姿が」
 人を馬鹿にした笑みを浮かべてそうつぶやくと、ぷー公はふわりと私の傍を通り抜けた。聞き捨てならない。私は開いた口を閉じるのも忘れてやつの背中に振り向いた。
カラスが下方でまた鳴いた。
 「同志? 幽霊は我々の他にもいるのか」
 やつは振り返りもせずに先に行く。
 「おい待て」
 返事はない。斜めに下降しているから、下界に降り立つつもりかも知れない。当然のごとく私はやつを追いかけた。霧雨が下から降ってくる。私はすぐにやつの横に並んだ。
 「どういうことだ。止まれ。仲間は他にもいるのか」
 「お仲間は多い方がいいでしょう」
 「多い方がって、その、つまりたくさんいるのか」
 「そりゃいます。もちろんいますよ。ゴキブリ一匹出れば、その屋根裏には千匹のゴキブリがいるって言うじゃないですか。もちろんゴキブリにたとえたら失礼だが、あなたと同じ境遇の人はその辺にうじゃうじゃいます。すぐ近くにもいます。あなたに見えないだけです」
 「私に見えないだと? 私には見えないのか? おいどうなんだ。ゴキブリとは何だ。失礼と言いさえすりゃ何にたとえてもいいのか。畜生。本当にうじゃうじゃいるのか。目に見えるか見えないか、それが安心と恐怖の分かれ目なんだ。ゴキブリが目に見えなかったら最低じゃないか。そう言うお前は、そのうじゃうじゃが見えるのか」
 男は私に襟首を揺さぶられるままに、河馬のような笑い顔を私に向けた。
 「この世界の住人にもいろいろな人がいます。どうぞお手柔らかに。この世界、というのはつまり、あなたの言う幽霊とか、幽体離脱とか、そういった存在のひしめく世界ですな。どうぞ手をお離しください。ええ。これでも私の一張羅なのでね、へへ。そうですな、冥界と呼ぶ人がこの世界でも多いから、便宜上その名前でこの世界を語ることにしましょうか。冥界の住人に共通なのは冥界の住人である、というただその一点だけでして、あとは百貨店のように多種多様な品揃えがあります。自分以外の住人は目に入らない住人がいる。あなたもその一人ですな。一方で、自分以外の住人の姿も見える住人もある。見える度合いが違うんです。あなたは生きていたときとさほど見えるものが変わっていない。だがまた、見られる度合いも人により異なる。仲間に見えやすい住人もいれば、仲間に見えにくい住人もいる。冥界の住むならば普通りんごをかじれませんが、中にはかじれる住人もいる。ドアを叩ける住人もいる。叩けるどころか、ドアを開いて自分の姿を生身の人間に見せることのできる住人までいる。稀ですけどね。この最後の稀な部類が、生きている人間どもが普通に名づけている、俗に言うところの幽霊です」

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 18

2006年04月16日 | 連続物語
 彼と私は交差点を行き交う下界の人間どもの表情が見える位置まで降りてきた。
 賑やかである。バスが車に警笛を鳴らし、車が歩道の通行人を走らせる。人は人の尻を追いかけながら足早に赤信号を渡り終える。
 排気ガスが街角という街角に充満していることは、臭いでわからなくても目で見てわかる。雨ニモ負ケズ薄汚れている。これは文明社会を文明社会たらしめる催眠ガスではないか、とふと私は、団子鼻の話に動揺する心の片隅で思った。人間はこの灰色のバリアに包まれて暮らす中で、いつしか白銀の太陽と、青空と、澄んだ空気が肌に合わない体質に変容させられていったのではないか。
 見えるか見ないか、そこが安心と恐怖の分かれ目である。地上からは、この催眠バリアと青空の境界は見えまい。ふん。私は空を舞えるとわかったときの優越感を少し取り戻した。
 心の片隅の優越感はそれとして、心の中心は動揺の最中にある。
 「そんなに、我々は、いろいろあるのか」
 「この世界の住人がですか? ええ、程度の差ですな、あくまでも。おや雨が上がりそうですね。程度の差なんです。羽があるか無いか、てな具合に峻別できるものではなくてね。幽霊としての、何と言いますか、最近の言葉で言えば、エネルギーの差、とでも形容すれば、おわかりいただけますかな」 
 「まったくわからん。少なくともこいつら生きている人間には、我々は見えないのか」
 私は通行人たちを指差した。尻を追いかけるのに必死の人間どもは一様に目線を下げて歩いていて、だれも空に浮かぶ私たちの方を見上げる者がいない。皆、空なぞ存在しないかのように歩いている。傘を差している者もいる。その数は少ない。雨は確かに上がりつつある。
 垂れ目の団子鼻のぷー公は、これ見よがしに右耳を掻いた。
 「大学教授でいらっしゃる割には、話を飛ばしますね」

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 19

2006年04月16日 | 連続物語
 「うるさい。お前さんはさっきから、私の質問の核心に対しては答えをはぐらかしてばかりいるぞ。この空中には我々みたいなのがうじゃうじゃいて、お前さんにはそれが見えるのか。そして我々は、生きている人間には見つからないまま行動できるのか」
 再び私に襟首を鷲掴みにされた団子鼻は、げっぷのような呻き声を上げた。さすがの私も暴力的に過ぎると思うが、正直なところ、何かを掴めるという感触が嬉しくもあるのである。Realityは目と手で感じるものである。何も掴めないのは恐怖であることに、こうなってみて気づいた。団子鼻の汚らしい襟首でも安心を与えるのである。
 「よして下さい。よして下さいって。興奮したところでどうしようもないじゃないですか。あなたはもう、見えない者に殺される心配も無ければ、何か見えたところで得することもないんです。何もないんですから、ここから先は。参ったなあ。わかんないかなあ。もう少し死に続けたらわかりますよ。二百年も経てばお釈迦様のように至極穏やかな気持ちになれますよ」
 「お前がこれ以上俺をからかい続けたら、悪いがあの二階建てバスの下敷きになってもらうぞ。どうせお前さんは死なないだろうが、これも学術的興味に基づく実験だ」
 「一張羅が破れます。もう、乱暴な人だ。わかりませんか? わからないものなんてないはずだけど。我々はすべての答えがわかっているという詰まらない世界にいるのですよ。無駄です。無駄なんですよ。それより、そんなに見られる見られないを確かめたかったら、お部屋に戻ったらどうです」
 「何だと」
 私は手を離した。足元を、蛙のように地面に這いつくばった赤いスポーツカーが迷走しながら駆け抜けた。四方から警笛が鳴る。
 団子鼻はようやく私の両手から逃れて、吐息をつき、自分の首筋を愛しそうに厚い手の平で撫でた。
 「奥さんがもうそろそろご帰宅されている時分でしょう」
 私は団子鼻をじっと見つめた。
 雨はもう一滴も落ちてこなかった。


 (ちゃんとつづく)
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無計画な死をめぐる冒険 20

2006年04月16日 | 連続物語
 品川大井町の雨上がりは坂の小道もすぐ乾く。
 我が家は緩やかな坂を登りつめた所にある。
 門の前に大きな救急車が停まっていた。ライトは回転させているが、サイレンは鳴らしていない。この狭い路地をよく進入できたと思う。
 私は地上に感触もなく降り立った。見慣れた視界が戻る。
 我が家はやはり正面から見るに限る。
 私の三代前に当たる家主が植えた松が塀から門番代わりに枝葉を広げている。私が自宅へ帰ったことを実感するのは、妻が疲れた顔で玄関に出迎えるときでもなければ、テレビゲームに熱中する息子の丸い背中を目にするときでもなかった。まさに門をくぐる前にこの松を目にするときであった。皮肉である。三度目の主人は短命に終わり、松がまたもや生き延びる。この家の本当の主人は誰であったのか。松の葉は通り過ぎた雨に濡れそぼちたまま、不機嫌そうに救急車のライトを浴びている。 
 救急車の傍らに、救急隊員らしき白衣の男が二名。手持ち無沙汰に帰宅命令を待っている。
 細い眼鏡を掛けた若い男が、退屈紛れに我が家の敷石の角をつま先で蹴っている。敷石一枚の値段を知らない輩の所業である。私が存命してここにいたら、やつの首根っこを掴んでごみ収集所の空瓶入れの中に突っ込んでやるのだが、今となってはできない話である。それに正直なところ、私の持ち家という所有意識も急速に薄れてきている。敷石なんて今更どうでもいいのだ。塀でも郵便受けでも蹴るがいい。名残惜しいものがあるとすれば、引継ぎもののあの黒松くらいである。だから見過ごしてやることにした。
 細眼鏡は青白い顔を上げて我が家の門構えを眺めた。
 「仏はさ、何してこんなに稼いでたんだ?」 
 顎の無い男が鼻の穴の下を指で掻く。
 「大学教授だってよ」 
 「大学教授? 大学教授はこんなに儲かるのか?」
 「知るか」
 鼻の下を掻く彼の指は、明らかに鼻の穴に入っている。願わくばこやつの手で私の遺体が搬出されないことを望む。
 「でも儲けてるだろうよ。大学教授ってのは言いたいことしゃべってときどき学生のレポートに不可つけてりゃ一年を暮らしていけるのさ」
 これだから無知蒙昧な大衆は困る。私がどれだけの苦労をして学閥闘争の中で生き残ってきたことか。
 細眼鏡は顎なしの誤情報を真に受けたらしく、舌打ちをして一際強く敷石を蹴った。そのあとつま先をいたわるようにもう片方の軸足のかかとに撫で付けたところを見ると、自分の想定よりも思い切り蹴り過ぎたらしい。まったく間抜けである。
 「一体なに手間取ってんだおやじは?」
 細眼鏡は首を伸ばして家の方を見やった。「早いとこずらかろうぜ。死んだ成金に何の用事があんだよ。死にそうな庶民を救うのが俺たちの仕事じゃねえか」
 庶民を救うとは、このやさぐれた若者も、案外正義感なるものを持ち合わせているのかも知れない。無知蒙昧は無知蒙昧としても。 
 顎無しは同僚の愚痴を聞いていない。野次馬の女たちを見遣ったり、救急車の窓の中を見遣ったり、無い顎を撫でたりしている。「腹減ったなあ」
 一人間の死という荘厳な場面に立ち会っているというのに、何たる不遜、私はこの男の口に煉瓦を押し込んで東京湾に沈めたくなった。
 不届きな小市民たちは放っておいて、私は家の中に入ることにした。気になるのは美咲の反応である。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 21

2006年04月16日 | 連続物語
 幸い引き戸が少しだけ開いている。実体のない私の体なら容易に滑り入ることができる。これは一応家宅侵入に当たるのだろうか、いやしかし私は痩せても枯れても死んでも この家の当主に違いないはずだが、などと瑣末なことを考えながら私は隙間を通り抜けた。
 いきなり目の前に立ちはだかったのは、大きな男の背中である。 
 細眼鏡に「おやじ」と呼ばれていたのはこの男らしい。戸を隙間風のようにすり抜けて勢い余った私の手が、彼の白い救急隊員服に入り込んだが、彼は当然のように気づかない。やはり私は幽霊ですらないのだ。私は何でもないのだ。希薄未満の存在。うむしかし、我が家に戻った家主を無視するとは、止むを得ないとは言え不遜である。少しはこちらに気づくがよい。見れば無闇やたらと横も縦も大きい野郎である。横に回れば、オットセイのような鼻ひげをぶら下げて間の抜けた顔をしている。昔教授になりたての頃、家族で水族館を訪れたとき、オットセイに酒を飲ませようとして係員に叱られたことを思い出した。オットセイなんて、酒を飲んでも飲まなくても似たような動作しかしない知能の低そうな獣である。白服を着たこのずんどうのオットセイは、家人にしどろもどろに説明をしている。家人とは、泣きはらして立つ美咲である。
 死んで以来初めて妻と対面した。対面と言っても、向こうは私に気づいていないが。
 右手に握り締めるえんじ色のハンカチが、小刻みに震えている。
 実家から戻ったままの服装らしく、肩に真珠のブローチまでつけている。まるで私の死を確認したらまたそのまま出かけそうである。パーマのかかった髪で一筋前髪が落ちているのは、私の死体を見て動転してなったものか。そもそも彼女は悲鳴を上げただろうか。いや上げる必要もない、予定調和なら。ただハンカチを取り出して口を塞ぐくらいはしたか。
 奴はそういう女である。頬が一層瘠せこけて見えるのは、蒼白の顔色のせいか。
 濡れたハンカチの部分が、血糊の色に見える。
 なぜだか私は、彼女だけは、美咲だけは私の霊的存在に感づくのではないかという漠然とした予感を持っていたのだが、何のことはない、会ってみればまったくそのようなことは無かった。希薄な関係の夫婦は死に別れても希薄なのである。
 それにしても上手く泣きはらしたものである。まあ女というものは殺しておいて涙を流すくらいは朝飯前なのだろう。
 美人が泣きはらせば絵になるが、不細工が泣きはらせばより不細工になるだけである。死人に流す涙があれば、生前にもう少し優しくしてもよさそうなものである。
 ここは正直に語ろう。告白しよう。私がどぎまぎしたのも確かである。やはり死んだら誰か一人には泣かれたいものなのだ。一瞬とは言え、彼女の腕に飛び込んで自らの死を嘆きたくなったのは確かなのだ。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 22

2006年04月16日 | 連続物語
「おかしいです」と妻。
「おかしかありません」とオットセイ。
「だってつまり検死の必要があるんでしょう」
「だから誰がどこで死んでも、医者の死亡診断書は必要なんですよ、奥さん。それをご存じないとは、これまでご親族の死に目に会われたことがないんですな」
「死亡診断書くらい知っています」
美咲は憮然としている。
「でも何にも手を触れるなって、そうおっしゃったから。それはつまりそういうことでしょう。何にも手を触れるなって、普通言わないでしょう。つまり宇津木の死に疑いを持ってらっしゃるってことでしょう」
オットセイはふけの多い頭を掻いた。
「だから違いますって。通じないかなあ。どなたでもそうお願いしてるんです」
「第一発見者の私は、やっぱり事情徴収とかあるんでしょうか」
「事情聴取です。ある場合もあるでしょうが、ご存知のままを答えたら終わりですよ」
美咲はハンカチを持つ手の人差し指を折り曲げて鼻を押さえた。会話が通じないときにやる彼女の癖である。臭いものを嗅いだときと同じ仕草で、大変失礼である。


(ちびちびとつづく)
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無計画な死をめぐる冒険 23

2006年04月16日 | 連続物語
 しかし彼女がオットセイに対して感じる不安ももっともであろう。オットセイが何かに勘付いているのは傍の目にも確かである。そしてそれは彼女の最も勘付かれたくないことに違いないのである。だから事情徴収なんて言い間違いをしてしまうのだ。見よ、膝が震えているではないか! 
 女ラスコーリニコフよ、猜疑心に苦しむがよい。罪がばれるまでがお前の本当の地獄なのだ。
 
 オットセイは手を触れないようにと念を押して帰っていった。彼が心配しなくても、私がちゃんと見張っている。何しろ犠牲者が加害者を見張るわけだから、念入りである。
 しかし玄関の向こうで救急車が走り去る音がしたあとも、美咲は怪しげな挙動を示さなかった。それどころかその場所を動かなかった。ずっと玄関先にたたずんだままである。吊り上がった目だけが落ち着かなくドアや下駄箱を彷徨う。それは生前、私に向かって見せた警戒心に塗り固められたすまし顔と違い、子どものような無邪気さの滲み出た表情であった。
 ぶるっ、と一つ身震いをしたかと思うと、美咲は膝を落としてその場にうずくまってしまった。驚いたことに、目からはまた涙がこぼれている。湯気の立つような涙が次々と溢れ出ている。
 美咲はしゃくり上げながら泣いた。
 弱い女なのだ、結局。美咲は弱い女だったのだ。
 夫を殺害しておきながら、死体のある部屋に入って証拠を隠滅することすらできないのだ。もちろん、当然無論、彼女が犯人と決まったわけではないが、しかしもし彼女が潔白だとすると、彼女はなんで泣いているのだ。説明がつかない。愛する夫が死んだからか。まさか。生前ゴキブリのように私を忌み嫌っていたではないか。ゴキブリは叩き殺せるが、私は叩き殺せない。そこを無理してでも殺したくなったから、ローヤルに毒を混入させたのではないのか。
 妻が泣き崩れているその不細工な顔を見ていると、ふと、二十数年前のある暑い夏祭りの晩のことを思い出した。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 24

2006年04月16日 | 連続物語
 当時私は大学の研究生で野球部のOB、美咲は野球部の一年生マネージャーだった。歳は六歳ほど離れていた。今日的状況からは想像もつかないが、我々は恋人同士だった。枯れ草だって枯れる前は青かったのだ。
 あれは戸越か荏原か、確か東急大井町線沿いのどこかの小さな神社の祭りだったと記憶する。どこでも良かったのだ。二人揃って浴衣を買って、それを初めて着て歩くのが目的だった。しかし慣れない着物で出歩くものではないのであり、金魚すくいか何かの屋台の前で、美咲が財布を落としたことに気づいた。自分たちが歩いた経路を逆に辿ったが、当然見つかるはずはない。誰かがもし拾っているなら、祭りの日の縁起物くらいに思って失敬するに違いないのだ。探し疲れた美咲は浴衣の襟もはだけたまま、しゃがみこんで泣き始めた。泣き顔も今ほどは不細工でなかったように思う。夜は蒸し暑いままゆっくりと更けていた。赤い提灯が闇と電灯の煌々とした明かりとの境界を曖昧につないでいて、その下を人々が夢遊病者のように行ったり来たりしていた。どこか現実離れした夜祭の光景の真中で、浴衣姿の美咲がしゃがんで嗚咽していた。
 私は非常に困った。行きかう人が想像をたくましくして我々二人をじろじろ見ていく。どうせ皆、私が泣かせたくらいに思っているのである。迷惑なことこの上ない。立てと言っても美咲は立たない。諦めろと言ってもかぶりを振る。駄々をこねる子どものようで腹立たしかった。と同時に、嗚咽に波打つ浴衣姿の丸い背中が妙にエロティックに映ったのも確かである。
 財布にいくら入っていたかと聞くと、二万四千円だと言う。何だそれくらい持ってるなら私にばかり奢らせるなと言い返してやりたかったが、まあ私が奢ると見栄を切った手前なのでそれは仕方ない。二万は確かに大きいなと同情してやると、二万四千が惜しいのではない、あれは私から誕生プレゼントにもらった財布だから、それが惜しいのだと言う。私は誕生プレゼントに財布をやったことすら忘れていた。感心なことを言うから、肩に手を置いてもう気にするなと慰めてやった。しかしぐずぐずとかぶりを振るばかりである。本当に財布が惜しいんだが、二万四千の方が惜しいんだか怪しい限りだが、当時はまだ恋人同士と呼ぶに相応しい関係であったので、私は奴が泣き止むまでずっと傍に立ってやり、泣き止んだらりんご飴を買ってやった。私も一口かじったが、無性に甘ったるくて食えたもんじゃなかったのをなぜだかよく覚えている。

 あのときのように、美咲は今、玄関先でしゃがんで泣いている。あの頃のように泣き顔が可愛いいわけではない。割合切実に感じるのは、あのときのように、私が彼女の傍に立って自らの存在感を示してやれないことである。

(つづく)
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無計画な死をめぐる冒険 25

2006年04月16日 | 連続物語
 電話が鳴った。
 我が家の玄関先の電話機は、ドイツ製のレトロなもので、コロコロと、金属の玉を転がすような妙な音で鳴る。
 美咲は涙を拭いて立ち上がった。私は受話器を取る彼女のすぐ傍に立って受話器に耳をそばだてた。もしかして共犯者からの電話かもしれないからである。
 「もしもし宇津木です」
 「あ、俺」
 あ、俺で世の中を渡れると思っているのは馬鹿息子の博史くらいである。そう言えばあの馬鹿息子は現在三流大学の二年生で、家から電車で二十分もかからないところに独り暮らししている。家から出たくて仕様がなかったらしい。そのくせ週末になると戻ってきて小遣いをせびる。生みなおせるならもう一度生みなおしてやりたいくらいの出来損ないに成長してしまった。母親が出来損ないだから仕方ない。
 「博史。どこにいたの」
 母親は怒っている。
 「どこにって、友だちんちだよ」
 息子も腹を立てている。
 「博史、すぐ家に帰ってきなさい」
 「え? やだよ。今日も友だちと約束があるんだよ」
 「いいからすぐ帰ってきなさい」
 「どうして。なんかあったの」
 「お父さんが死んだのよ」
 「どうして?」
 「知らないわよ」
 まったく、死んだ父親の救われない会話である。死人に頭痛はないのだが、私は我がひたいに手を当てた。
 「とにかく帰ってきなさい」
 受話器の向こうはしばし沈黙した。
 「葬式あんの?」
 あるに決まっている。何という不肖息子か。
 「そりゃあるわよ。まだいつと決まったわけじゃないけど。そうね、いつすればいいのかしら。ああ、博史、あなたが宇津木家の唯一の男になったんだから、しっかりして。すぐに帰ってきてちょうだい」
受話器の向こうはさらに長く沈黙した。
 「どうせ酒だろ? 原因は」
 美咲もすぐには答えなかった。どうしてすぐに答えないのだ。震える両手で受話器を耳に押し当てて黙っている。吊り目は見開いて、居間へ続く廊下の虚空を見つめている。
鼻を啜る音が響いた。
 「酒か女か知らないけど、ろくな死に方じゃないわ」

(つづく)
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