怖い夢を見た。
私が処刑されるのだ。理由はわからない。もちろん身に覚えがない。ただわかっているのは、これから群集の面前で、ギロチンを使って公開処刑される、ということである。ギロチン────ギロチン? なぜギロチンなのかまったく理解できない。状況を一切呑み込めていない。そのくせ何となく、自分が処刑されるのも致し方ないと、漠然と観念している自分がいた。そこが妙であった。
どこか見知らぬ街の広場であった。それはいつかテレビ番組で観た様な、ヨーロッパ風のレンガ造りの建物に囲まれた、あえて言うなら美しい広場であった。その広場を醜くも埋め尽くした顔、顔、顔は、老若男女を問わず、どれも一様に怒りの表情を浮かべていた。明らかに私に対して怒っていた。そんな理不尽なことがあろうか。私が何をしたというのか。あちこちから怒声や罵声が飛び交う。声と声が幾重にも重なり合うので、何を叫んでいるのかよく聞き取れない。それでも私の足下近くにいる男二人の会話は、耳に入った。
「ようやく処刑だとよ。よくここまで生き永らえたもんだ」
「恥知らずにもほどがあらあ!」
私は項垂れた。非常に惨めだった。
空には雲一つない。
広場にはどす黒い憤懣が渦巻いている。その只中に立たされて、私は大人しく刑の執行を待っている。
訳が分からない。だが、本当に訳が分からないことなどこの世に存在するだろうか?
私の傍らには、わざわざ今日のためにこしらえたことがわかる、新品・未使用のギロチン台がそびえ立っている。首一つ切り落とすのによくもまあこんなに馬鹿でかくしたものだ。私の身長の三倍はあろうか。そのてっぺんに、厚みのある鉄製の刃が、日差しを浴びてぎらぎらと輝いている。人間の生首を二、三十個束にしても難なく切り落としそうである。目がくらんでとてもじゃないが正視できない。
私の両手は背中に回され、縄で縛られている。船を曳くのに使えそうな太い縄である。動かそうとしてみたがびくともしなかった。おまけに裸足である。縄文時代の貫頭衣のような粗末な着物を着せられている。私はまったくの囚人だった。
何もかもが馬鹿げていた。途方もなく馬鹿げていて、どう転んでも夢に違いなかった。こんなことは現実ではあり得ない。しかし、これだけ自分の意識がはっきりしていても、一向に眠りから醒めないのが、不気味であった。
見物人の肩の高さほどの壇上に、私とギロチンが立たされている。そこから十メートルほど離れた場所にも、これよりずっと幅の狭い壇がしつらえてある。そこに今しも、山高帽に丸眼鏡、顎鬚を薄汚く垂らした小男が勢いよく登壇した。偉そうな咳払い一つすると、奴はキーキーとドアの軋むような声を上げて演説を始めた。
「紳士淑女様! ご静粛に!(そんなことを言う必要はなかったのだ。奴が現れるや否や、群衆は水を打ったように静まり返っていたのだから。)皆様がご覧の、この罪深き男も、ついに正義の裁きを逃れること叶わず、本日死刑に処せられることと相成りました!」
大歓声が上がる。口笛が鳴る。拳を振り上げる者もいる。
「この男のこれまで犯してきた罪状の数々は、すでにあまねく知られているところであります。がしかし、まさに張本人にこの場で今一度、己の犯した罪をしっかりとわきまえさせ、のち刑に処すのが、この男に我々が与えるべき、最後の寛大なる憐憫であると思うのであります」
拍手と歓声。
「さてこの男の所業を一つ一つ挙げるにあたり、わたくしめの口よりも、この男と直接かかわり、その過ちを間近に見てきた証人たちに直接語らせる方が、ずっとわかりやすく、かつ公平というものでありましょう」
「そうだそうだ」という声が上がった。「いいぞ!」という声も。
空を舞っていた鳩の群れが、この催し物を見物するためか、広場の街燈や水の出ない噴水塔の上にばらばらと留まった。
「ではまず最初にご登壇いたしますのは、死刑囚の中学時代の恩師、加藤教諭でございます」
驚きのあまり私は声を上げた。我が耳を疑った。加藤学先生。あの加藤先生なのか。私の中学一、二年時の担任である。私がおそらく人生で一番、尊敬する人物である。高校インターハイの全国出場経験を持つ彼は、筋肉質の男らしい体躯でありながら、同時に知性溢れる数学の教師であった。その授業はときにクラスを笑いの渦に巻き込み、ときに全員を真剣な眼差しに変える魔力をもっていた。このような大人になりたい、とただ一人、私に思わせた人であった。あれから三十年近く、もう相当な歳になられているはずだが────どうしてこの、私を晒し者にする場に────。
加藤先生が登壇した。スーツ姿に黒眼鏡。風貌はあの頃と全く変わっていない。
黒眼鏡の奥の目が、私をじっと見た。表情まではわからない。担任の時からそうだった。首を傾げ、肩の凝りをほぐすような仕草をする。機嫌が悪い時の先生の癖だ。口元に深い皺が刻まれる。先生は怒っている!・・・・三十年ぶりの再会なのに・・・・。
「えー、私は、がっかりしました」
よく通る太い声も、かつてのままである。
「心から、がっかりしました。私は、裏切られたのであります。えー、中学生の頃は、この男も成績優秀でした。勉強熱心で、生徒会の仕事も積極的にこなし・・・まあ、その頃から多少、自己中心的な部分もうかがえましたが、それでも、我々教師の側から見て、将来を嘱望するに値する子供でした。私はこの男に期待したのであります。私だけでなく、多くの人が期待しました。もっとも、周りにちやほやされることで、本人に傲慢な自惚れが生じたのも事実です。卒業文集に、将来の夢という題で、彼はこんなことを書きました。『僕は将来、世の中の人々の役に立つ人間になりたいです。みんなの役に立って、なるべく多くの人を幸せにできるような仕事をしたいです。一生けん命働いて、この社会を少しでもよくすることができたらいいなと思います』───どうですか、お聞きのみなさん。笑止千万ではないですか。え? まったく笑止千万ではないですか!」
群衆は地鳴りのようにげらげらと笑った。顎髭の司会者はひときわ甲高い奇声を上げた。私は項垂れるしかなかった。
「世の中を少しでもよくしたい! は! それほど大層なことを豪語しながら、この男の成人してのちにやったことは何でしょうか? 勉強の方は、大学入試で失敗してからいっさい興味をなくしたようです。行きたくもない大学に行って、遊ぶことに夢中で全く学問を省みず、二年も留年して親に迷惑をかけ、ようやく社会に出たときには、理想を捨てて利己主義の塊となっていました。安きに甘んじ、楽をして得することだけを考え、目の前に転がる幾多の社会問題には目をつぶる。そんな腑抜けのような大人になっていました。就職は給料と休日の多さで決めたと聞きます。世の中の人々の役に立つ仕事? とんでもない! 無知で騙され易い個人事業主を相手に、実際には安くもお得にもなっていないコピー機のリースを、詐欺同然の言葉を並べ半ば強引に押し売りするセールスマンです。自分の給料のためなら人を騙して何とも思わない仕事をして、それでも良心の呵責を感じるのでしょうか。溜めたストレスは、酒と、パチンコと、風俗に注いでうっぷんを晴らしているのです。風俗は週に一度のペースで入り浸っているとか。家庭を持つ身でありながら! これが、これが周りに将来を期待させるだけさせた男の、なれの果ての姿なのです!」
私はひどく赤面した。狼狽した。妻と子供は来ていないか、慌てて会場を見渡した。加藤先生はいったいどうやって中学卒業後の私の行動を知ったのだろう。調べたのだろうか? しかしそれにしても、あまりと言えばあまりではないか。嘲笑されるくらいは仕方ない。そうだ。確かに自分は嘲笑されるほどちっぽけな人生を歩んできた。しかし、だからといって、これはあまりにひどい仕打ちではないか。子供の頃描いた理想通りの人間にならなかった、ただそれだけのことで、私はかくも辱められ、死刑になるのか。私のしてきたその程度のことが、そこまで重い罪に値するのか。そう言いたかったが、ぐっと言葉を呑みこんだ。だがあまりに悔しかった。「そんなことで」という言葉が小さな声になった。加藤先生は私の漏らしたつぶやきを、しっかり聞き取った。
「そんなことで! おお、そんなことでと、この男は今言いました!」
加藤先生は憤怒の形相で人差し指を私に向けた。私はたじろいだ。感極まった聴衆は津波のような罵声を上げた。
「そんなことで!」狂ったような喧騒の中、先生の声は一段と張り上がった。「そんなことで? どういうつもりでしょうか。この男は、小中高と、一人当たりに注がれる三百万に上る税金を、どう心得ているのでしょうか? 大学では奨学金も得ています。言い逃れをしながら、まだほとんど返していません。記録にちゃんと残っています。ということは、社会はそれだけこの男に投資しながら、本人はそれに報いてないのです。そのことを本人自身はどう思っているのでしょうか? 当然、ええ当然ながら、この男の両親は、社会がかける以上の苦労と期待をこの男にかけてきたことでしょう。自分たちの息子が、幼い頃に豪語した通り、立派な大人になることを願って! それをも見事に裏切ったのです。自分の怠惰のために、自分の弱い性格のために、いとも簡単に。それがどんなに罪深いことか、この男はこの場に及んでもまだわかっていないのではないでしょうか!」
振り上げた拳をゆっくりと降ろした。目は私を見据えている。眼鏡越しに、背筋の凍りつくような視線だった。
「あくまで自分のなしてきた非を理解しようとしない囚人には、求刑通り死刑を望みます」
地鳴りのような大歓声が沸き起こった。鳩たちは驚いたのか残らず飛び去った。加藤先生は降壇した。二度と私の顔を見ることなく。
私は涙した。涙は私の素足に落ちた。
馬鹿馬鹿しい────馬鹿馬鹿しいはずなのに!
顎鬚の汚らしい小男が再び登壇した。何かを祝福でもするかのように、両手を揉み合わせていた。
「素晴らしい、実に素晴らしい演説でした。正義と誠実さに満ち溢れた演説でした。厚顔無恥な囚人も、これで少しは自責の念に苛まれることができたでしょうか」
奴は胸を張り、空咳を一つした。
「さて、次にご登場いただくのは、看護師として日夜患者さんのために尽くす、小谷さつきさんでございます」
再度、我が耳を疑わなければならなかった。開いた口が塞がらなかった。小谷さつき?────その名は、針で刺されたような痛みを伴わずに、口にすることができない。小谷さつき。なぜ彼女が。私の学生時代、一年半同棲生活を送ったさつきが、なぜ。
壇上に現れた、小柄でほんの少しふっくらした女性は、まぎれもなく彼女だった。かつて私が心から愛し、倦み、ひどいやり方で捨てた、彼女だった。
大観衆を前にして、証人は俯いて顔を赤く染めた。しかし、私の方をちらりと見ると、憤りの記憶がよみがえったのか、意を決した表情で頭を上げた。両手を腰の前で握りしめ、心もち前かがみになり、口を開いた。
「この人は、この人は、私の人生をめちゃくちゃにしました」
記憶にある可憐な声。
「ひどい人でした。でも、こんなにひどい人だとわかるまでは、私にとっては、世界で一番大事な人でした。二十年前に私たちは出会いました。当時この人は大学生、私は看護師をしていました」
そうだ。それは、蒸し暑い夏の夜から始まる濃密な思い出だった。私が彼女に告白した。年上で、甘えられる人を探していた。軽い気持ちもあった。相手は社会人だから、しばらく遊んでから別れても、さほど相手を傷つけない気がしていた。
不幸なほどに優しい心を持った人だった。私はその優しさに付け込んだのだ。
「この人は私のアパートに転がりこんできて、半同棲の生活が始まりました。私を幸せな気分にしてくれるようなことをいっぱい語ってくれました。将来結婚したら、すぐに一軒家を建てようとか、看護師の仕事を今ほどしなくても済むようにしてあげるとか。私はもちろん、そんなことを言われて嬉しかったですし、彼の言葉を信じました。まだ彼は学生だったので、同棲中の家賃はもちろん私が払いましたし、食費も光熱費も彼に請求したことはありませんでした。
「私が妊娠したとわかったとき、彼の態度は急変しました。だましたな、とまで言われました」
彼女は口に手を当て、嗚咽をこらえた。「だましたな」────そんなひどい言葉を吐いた覚えはない。しかし、口論になったとき、かなり乱暴な言葉を並べ立てたのは事実である。あるいはそんな台詞も口にしたのかも知れない。そんなことを、ずっとのちに、公衆の面前で暴露されることも知らずに。
「だま・・・だましてなんかいません。だましてなんか、いません。私だって、妊娠がわかった時には、まさかと思ってびっくりしました。でも、でも心のどこかで、俊君に喜んでもらえるような期待もしました。私は女です。子どもを産みたい気持ちもあります。でも、すぐに下ろすよう言われました。ほとんど命令されました。私が抵抗すると、態度を和らげて、今産んでも自分たちは生まれた子を幸せにすることが出来ないから、と、なだめられました。もっと、二人とも大人になって、貯蓄できるようになって、周りからも祝福される立場になってから、それから考えようって。そう言う彼は、とても青ざめてました。自分の親には相談できない、と言いました・・・・。私は彼に説得されました。彼は費用をほんの少しだけ負担してくれましたが、ほとんどを私自身が出して、中絶しました。病院から帰ってきた日、彼から別れを切り出されました」
「殺せ」という怒号が聞こえた。「人間じゃねえ」という声も。
小谷さつきは嗚咽をこらえるため口に手を当てた。
「そのとき気づきました。この人は、この人は結局全部、自分の都合のいいようにしているのだと。私は彼の都合で愛され、彼の都合で中絶させられ、彼の都合で捨てられたのです。理由は、私が邪魔になったからです。勝手です。勝手過ぎます。どれほど私がこの人によって人生を狂わされたか、あれから、どれほどの悲しみと傷を背負って残りの人生を生きてきたか、この人にはわかっていません」
彼女は頬を濡らした顔を私に向けた。別れを告げた日に見せたのと同じ目つきで、私を睨んだ。
「私は、この人に、極刑を、望みます」
観衆は一斉に叫び声を上げた。その轟きは青空まで届きそうであった。
泣き顔を両手で覆う彼女を、数人の男が支えながら壇から降ろした。私は───後ろ手に縛られた縄の重みのせいであろうか、立っているのがやっとであった。叶うことならこの場に座り込み、泣き崩れたかった。しかし、死刑囚の私には、その自由さえ許されていない。
何なのだ。この感情は何なのだ。理不尽を強制され続けることによる疲労と恐怖が、ついに私の意識を混濁させ始めたのか。私は・・・・私は、自分の罪を受け入れ始めているのか。
丸眼鏡で顎鬚の小男がまたひょこんと登壇した。嬉しくてたまらない様子である。
「三番目に登壇いただくのは」彼のキーキー声で、喧騒もぴたりと鳴り止んだ。
「死刑囚の幼少期を身近で見てきた、祖父栄次郎さんです」
今度こそ、私は吐き気を催すほどの衝撃を受けた。激しく身震いしたはずだ。祖父栄次郎? そんな馬鹿な! 栄次郎────もう二十年も前に死んだはずなのに!
広場を一陣の風が通り抜けた。人々は沈黙した。
骨と皮だけの、よぼよぼの老人が、杖を突き、左右の付き人に腕を支えられながら登壇した。学校の理科室にあった頭蓋骨の標本のような、見事に剥げ上がった頭。老いてもなお凛々しく太い眉。知的に見開いた目。言いたいことをたくさん封じ込めて後半生を生きてきた、醜くすぼんだ口元。まぎれもなく、祖父、栄次郎であった。
私は思わず、おじいちゃん、と声を漏らした。
幼い孫の私を溺愛し、つねに慈愛に満ちた表情で接してくれた祖父。その彼は、太い眉を吊り上げ、生前は一度として見せたことのない怒りに満ちた視線を孫の私に投げかけた。
はらわたをえぐりだされるような気分だった。
三番目の証人は拳を口に当て、痰の詰まった咳払いを一つした。
「恥ずかしい───誠に、誠に恥ずかしい限りであります。このような孫を持ったことが。このような出来損ないを、我が家系に生じせしめたことが」
杖に寄りかかる腕がわなわなと震える。
「私は余生十年余りを、まさに、この孫のためにすべて捧げたと申しても、よろしい。私栄次郎は、激動の人生を歩んでまいりました。私は元職業軍人でございます。自ら銃剣を取り、お国に命を捧げ・・・・。そうすることが正しいと、この国のためになると信じて戦って参りました。戦友がすぐ隣で砲弾に吹き飛ばされても、人殺しをする恐怖に囚われても、飢えと渇きに倒れそうになっても、今ここで自分たちが踏ん張らなければ、祖国日本は滅びる、そう信じて涙をこらえ、戦って参りました。それが終戦と同時に、同じ────日本人から戦犯扱いをされ、罪人同様の扱いを受け、日陰でひっそり生きなければならなくなりました。その屈辱も、日本がより良い国に、平和で豊かな国に生まれ変わるためなら、と、そう思って耐え忍んで参りました」
鳩の群れが、広場をぐるりと旋回する。
「孫は私にとって、希望でした。新しい日本を支え、発展させていくのはこの子たちだと思いました。学びたいことを学び、したいことができ、自由を、自由を謳歌する世代でございます。私らの時代は暗黒の時代でした。自分の夢なんて追い求めることは一切許されませんでした。が、孫の時代は、思いきり自分の夢を追い求めることができる。羨ましい限りだと思いました。ひもじい経験もせず、殺人の道具を手に取る必要もないのです。自分の才能を生かし、自分のつきたい職業につけばいい。ぜひともそうして、世の中の役に立つ立派な人間になって欲しいと願っておりました。
「それが・・・・それが、なんたることか!」
祖父は皺だらけの口から泡を飛ばし、目を血走らせ、節くれだった震える手で私を指さした。
「こんな堕落した、つまらん人間になりおって! しかも、しかも今聞けば、ふしだらな恋愛をして、無垢の他人を傷つけたとか。お前の年齢のころ、いいか、お前の年齢のころ」
祖父はいつしか私に向かって語りかけていた。
「わしは、間違っておったかもしれんが、必死に働いた。文字通り必死に働いた。間違っておったかもしれんが、わしはつねに自分以外のことのために戦った。みんながそうだった。今のお前は、自分のためしか考えておらんではないか。自分のことすらきちんとできておらんではないか。一番大事な自分の家族のことすら、真剣に考えておらんではないか!」
自分の家族。この言葉に導かれたように、私の虚ろな視線は群衆の一点に集中した。
真紀子。良太。
まったく不意に、群衆に紛れてこちらを見つめる妻と息子の姿が目に入ったのだ。私は卒倒しそうなほど驚いた。先ほど目で探したときは気づかなかった。なぜ気づかなかったのか。二人は、ちゃんとこの場に来ていたのだ。それは五体を引き裂かれるように辛いことだった。叶うならいて欲しくなかった。家族だけには見られたくなかった。妻真紀子は唇を噛みしめ、涙を浮かべ、恐ろしく暗い表情で、私をじっと睨んでいた。十歳になる息子良太は、もはや何が起こっているのか理解できていない様子であった。神経をやられてしまったかのように、首を小刻みに振り続けていた。
私の視線を確かめた妻は、息子の手を引き、背を向けて群衆の垣根の向こうに去っていった。
二つの親しい後姿は、すぐに視界から消えた。
もはや限界だった。私は崩れ落ちるように両膝を突いた。そんな私の耳に、祖父のしゃがれた声が、情け容赦なく入ってきた。
「一つ懐かしい話を聞かせてやろうか。俊。一つ、お前に懐かしい話を聞かせてやろうのお・・・・。お前が高校に入学すると決まったとき、わしは入学祝に、腕時計を買ってやると約束したのを覚えておるか」
もちろん覚えていた。なぜそんなことを唐突に?
「わしは風邪をこじらせて、約束の日に外出することができんかった。別の日にしようと持ちかけたが、お前は約束したのだから今日がいい、どうしても今日がいい、と駄々をこねてわしの言うことを聞かんかった。仕方ないので、わしはお前に三万円を手渡し、それで自分で買ってくるように言った。あらかじめお前が選んでいた時計が三万すると言うし、近所の時計屋なんで、一人で行けるとお前は言い張った。わしはお前を信じた。そのわしが愚かだった。お前にお金を預けても、もう高校生だから大丈夫だろうと思った。お前は一万円の時計を買い、わしには三万円したと偽って報告し、残り二万の金で自分の欲しかった音楽機器を買いおった。最後まで、わしも、両親も、欺きながら。
「は、は! わかるか、俊。詰まらん話よのう。何とまあ小さい話よのう。お前のやったことはもちろん、すべてばれておった。わしは知り合いの時計屋に問い質してすぐにことの顛末を理解した。だが、お前にはそのことは言わずにおいた。あまりにも小さなことだからだ。あまりにもくだらんことだからだ。わかるか俊。そこで後ろ手に縛られて聞いておってわかるか。一万、二万のことでとやかく言っておるのではない。わしが許せんのは、欲しいものがあった、ただその程度のことで、平気で肉親を騙し、最後まで騙し通したと思いこんでおるお前が、あまりに、あまりに下等な人間だからだ。お前は虫けらに等しい小さな小さな人間であることを、この出来事が物語っておるからだ。それで何かい、社会に役立とうだと? は! 立派な人間になろうだと? 俊よ。お前のした悪事は、動機はちっぽけだが、人間性としてはとてつもなくひどいことだということが、まだわからんか。お前を祝福しようとするじいさんをお前は騙した。わしらの若い頃だったら、一番恥ずかしくて、不道徳で、不義理なことだ。一番唾棄すべき振る舞いだ。自分の大切な肉親からお金を騙し取って平気でおる。それも、己のちっぽけな欲求を満たすがために。お前は・・・・お前は虫けらに等しい根性の持ち主だ。そのことをわかっておるのか?」
祖父は、よろよろと体の向きを変え、顔を再び公衆に向けた。
「みなさん。私は、こんな孫を持ったことを痛切に悔やんどります。世間様に対し、どうお詫びして良いかわからん気持ちでおります。せめて潔く死でもって、自分の罪を償ってほしい。そう思っとります。誠に、誠に申し訳ありませんでした」
祖父は深々と頭を下げ、万雷の拍手に見送られながら、両脇を支えられ、壇を降りた。
群衆の輪よりも遠くの街角で、犬が吠えた。
空には雲がかかり、いつしか風は強まっていた。
私は両膝を突いたまま、次なる仕打ちを待った。また誰かが私を非難するために登場するのだろうか。それとも、もうそろそろ刑が執行され、私の首が胴体から離れるのだろうか。もちろん、もちろんのことだが、自分は全然納得できていない。自分が処刑される理由がいまだまったく腑に落ちない。ただ、ただ小さな人間であるというだけで、自分はこれだけ非難されなければならないのか。ただ生きてきたことが、こんなにも罪深かったということか?
顎鬚の小男は登壇しなかった。その代り、得体の知れない、ぬるぬるしたものが這い上がってきた。大人の膝ぐらいまでの高さだろうか。私は恐怖のあまり、後ろ手に縛られたままのけ反った。人間か。目鼻立ちはぬるぬるとした膜に覆われて判別できないが、短い手足からして、人間には違いない。しかしずいぶん小さな人間である。相当幼い、ほとんどまだ生まれる前のような────
気づけば、群衆はいつの間にか個々の顔がなくなり、全員がぬるぬるとした膜に覆われた小さな生き物に変わっていた。皆、目のない顔で私の方を見つめ、声にならない声で何かを訴えかけ、じりじりと私の方ににじり寄った。
私は堪らず叫び声を上げた。
それで目覚めた。
開いた窓から冷たい夜風が吹き込んで来る。ベッドのシーツもパジャマも、私の汗でぐっしょりである。隣を見ると、妻が安らかな寝息を立てて寝ている。さては、夢の中の叫び声は、実際の声にはならなかったか。九月に入っても熱帯夜が続くので窓を開けたまま寝ていたが、下手をすると風邪を引くところだった。私はそっとベッドを降りて窓とカーテンを閉め、妻の寝顔をもう一度確かめてから、音を立てないように寝室を出た。
つま先立ちに階段を下り、ダイニングルームに入った。グラスに水道水を注ぐ。変な夢だった。本当に夢だったのか、疑いたくなるほど克明だった。しかし冷静に振り返えれば、あまりに荒唐無稽な内容である。ただ人並みに、平凡に生きてきただけで公開処刑されるなんて。私は無理に笑おうとした。馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
食卓に腰かけてグラスの水を口に含んだ。口元からこぼれ落ちる水で、私はどうしようもないほど体が震えているのに気付いた。腕に力が入らなく、まともに水が飲めない。グラスを置き、両腕を抱いて、身を丸めた。そうでもしないと寒気が去らない気がしたからだ。
深夜のダイニングルームは真っ暗であった。わずかに壁時計の針と炊飯器の予約表示が、仄かな光を放っていた。生きているものは何一つ存在しないかのように、しん、と静まり返っていた。
私は暗闇で独り、震え続けた。
(おわり)