た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

大根は半分でいい

2023年11月14日 | 短編

 

 街では初雪が舞い、人々が立ち止まり、学校帰りの子どもたちがプレゼント箱を開けたような歓声を上げた。犬を連れた婦人が自分の指に落ちた粉雪を、しゃがみこんで犬に見せた。しかし三階建てのアパートの一室は、初雪どころではない、という緊迫した空気に包まれていた。

  「ねえ、どうして大根を一本丸ごと買ってきたの」

 「え、だって、どうせ使うだろ」

 「使わないわよ。大根は半分でいいって言ったじゃない」

 「でも、まあ、何かに使うよ」

 「使わないったら使わないのよ。なんで? なんで言うことを聞いてくれないの」

 「そんなこと言っても・・・」

 「ねえ、私、大根は半分って、メモにも書いたし、口でも伝えたよね。なのにどうして一本買ってきたの」

 男は目をしばたたきながら買い物袋を覗き込み、それから女の顔を恐る恐る伺い、最後に腕を組んで眉間にしわを寄せた。自分が何を考えていたのかまで覗き込もうとするように。

 「なんかまあ・・・別に・・・大した意味はないよ。大根って、一本丸ごとって方が、美しいっていうか、その、いかにも大根って感じが・・・」

 「美しい? 美しいって何よ。え? ちょっと何? 白菜も丸ごと買ってきたの?」

 「だって・・・」

 「四分の一切れって書いたよね」

 「ああ」

 「四分の一切れって書いたよね」

 「無かったんだよ。四分の一切れが。売り切れてて」

 「売り切れてて? 西友で? 四分の一切れが? 売り切れてて? そんなはずないわ。西友ならいつ行ってもあったもん。ほんとに? ほんとに全部売り切れてたの? もし仮によ、仮に、四分の一切れが今日たまたま全部売り切れたとしても、半分のがあったはずよ。そうでしょう。ハーフサイズカットのが。どうして丸ごと一個買う必要があるの。今、白菜がバカ高いって知ってた? それとも、やっぱり白菜も丸ごとの方が美しいって思ったわけ?」

 「ごめん」

 「言っていいかしら」

 「え、なんだよ」

 「あなた今失業中じゃない」

 気まずい沈黙を打ち破るように、隣室から幼い女の子の声が、彼らの耳に届いた。母親を呼んでいる。しかし当の母親は首だけそちらに向けて、「ちょっと待ってて!」と怒鳴った。

 失業中を指摘された夫は髪を搔いた。

 「それは・・・まあ・・・そうだよ」

 「仕事を辞めたことを責めてるんじゃないのよ」

 「わかってるよ」

 「あなたは独立して頑張ろうとしているところだし。それを応援したいし。でももうすぐ失業保険も切れるし」

 「うん」

 「私たち三人、しばらく私のパートだけで食べていかなくちゃいけいかもしれないの。わかってる?」

 「うん」

 「ほんとにわかってるの」

 「わかってる」

 「わかってない。全然わかってない」

 女は首を振りながらうつむいて、床を睨みつけた。監督がピッチャーの交代を告げに不承不承マウンドまで足を運んだ───いや、舞台監督が、演者が思い通りに演技しないことに耐え切れず、怒りを爆発させる寸前、といった雰囲気であった。

 「ねえ、私、料理下手なの知ってるでしょ」

 「そんなことないよ」

 「そんなことあるわよ。そんなことあるの。余った大根や白菜を傷む前に上手に工夫して使うなんて、そんな器用なこと私できないじゃない。私は、クックパットに書いてある分量で、書いてある通りにしか作れない人間なの。だから私、無駄を出したくないの」

 「君は、料理上手だよ」

 「この包丁で峰打ちしていい?」

 「やめてくれよ」

 「冗談よ。冗談に決まってるでしょ? お願いだからサトシ、心にもないお世辞とかやめて。いいからやめて。お願い。ねえ、聞いて? ちゃんと真面目に聞いてくれる?」

 女は極度に興奮していた。しゃべらないときは下唇を噛み、しゃべるときは感情の発露を押し留めようとするかのように両手で宙を鷲摑みにした。

 「私は料理が下手よ。とっても下手よ。仕方ないでしょ。どうしようもない事実なんだから。でも私が料理するしかない。なぜなら夫は現在無職で、家に一日居るけど、料理を任せられないから。なぜなら私より料理が下手だから。料理を覚えようという気がまったくないから。ごめんね。責めてるわけじゃないの。私、あなたに料理して欲しいなんてこれっぽっちも思ってないの。ほんとよ。あなたには夢を追いかけて欲しいの。でも、でもせめて、買い出しくらいはしてもらいたい。そう思うのも自然でしょ? 私間違ってる? 私間違ってないよね?」

 「ごめん」

 「あのね、ケチで言ってるんじゃないの。そこをあなた誤解してるでしょ。してない? ほんと? 私、大根が半分じゃなく一本だとか、白菜が四分の一とか二分の一とか、ほんとはそんなことどうでもいいのよ。そんな細かいことはどうでもいいの。大事なことは、どうして私のお願いを軽々しく無視できるのかってこと」

 「君も喜ぶと思ったんだ」

 「ありがとう。でも現実を見て!」

 「咲子」

 「私の言うことを聞いて!」

 甲高い叫び声のあとに、軽い耳鳴りと、死骸のようにテーブルに横たわる大根と白菜と、彼らが残った。

 ドアがかちゃりと開いて、幼い娘が顔を出した。デニムサロペットを履いて男の子のように短い髪をしている。

 「どうしたの?」

 「何でもないわ。部屋に戻りなさい」

 「パパ、どうしたの」

 「うん。何でもないよマリ。何でもないんだ」

 「わあ、大きな大根!」

 マリと呼ばれる少女はテーブルに近寄って手を伸ばし、白い根菜に触れた。

 「あたたかーい」

 両親は自分たちの娘をいぶかしげに見つめた。

 「この大根あたたかーい」

 少女は大きな大根を持ち上げ、大切にしている人形のように頬ずりをし、胸に抱きしめた。

 街にちらつく初雪は、次第にその数を増していた。もう夕方が来たのかまだ来ていないのかわからないような淡い色に通りを染めていた。

 アパートの三階の窓が開き、三つの顔が覗いた。

 

(終わり)

 

 

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残雪

2022年05月10日 | 短編

 

 五月の連休というのに白駒池にはまだ雪があった。それは泣き腫らした頬に残る涙のようであった。駐車場ではしっかり六百円取られた。自分はここに何しに来たんだろうと思いながら、靴紐を結び直し、遊歩道に足を踏み入れた。

 雪は柔らかく、滑りやすい。冬景色なんて想像もしていなかったのは私だけではないらしく、訪れた観光客はみんな脚を震わせながら歩いている。子どもたちはキャッキャと喜んでいる。登山の格好をした若者は、涼しい顔で颯爽と通り過ぎる。

 なんで自分はここに来たんだろうと、また思った。

 知人が死んだからだ。

 彼女は(仮にSさんとしておく)働き者で、老いた母親と二人の子どもを抱え、シングルマザーとして、つねに気を張って生きていた。子どもの一人は障害児だった。いくつもの仕事を掛け持ちし、言いたいことを言い、甘い物が大好きで、別れた夫を許さなかった。何の兆候もなく、春うららかな日に大動脈が破裂して死んだ。

 雪を踏みしめ、森をゆく。雪の下では、びっしりと生えた苔が、なかなか来ない春をじっと待っている。

 三叉路に出た。髙見石の方角に向かう。

 緩やかに続く登山道を、一歩一歩、自分の足跡を確かめるようにして慎重に歩く。行き交う人はいつの間にかいなくなった。

 数年前、Sさん手製のサンドイッチを、一度だけ食べさせてもらったことがある。施設で働く彼女が試作品として作ったので、感想を聞かせて欲しい、とのことだった。なぜ私が指名されたのか、その経緯は覚えていない。シンプルで、飾り気のない、しっかりとしたサンドイッチだった。誠実な味がした。母が脳こうそくで倒れたときは、私よりも早く駆けつけてくれた。そうやって周りの人々に惜しみなく親切を与え、自分だけ先に逝ってしまった。

 道の勾配がきつくなってきた。背に汗を感じる。足を滑らし、両手を突いた。

 自分はとても無謀な登山をしているのではないか。 

 木立の先に小屋の屋根が見えた。立ち上がり、先を急ぐ。

 歩きながら、今度はウクライナのことを思った。

 連日たくさんの民間人が死んでいる。ひどい話だ。誰一人こんなことでは死にたくなかったはずだ。人々の命が、野に咲く草花のように、あっけなく踏み潰されていく。独裁という名のキャタピラによって。誰もそれを止められない。

 人類は命について何を学んできたのだろうか?

 お前は?

 小屋に到着し、深い息をついた。小屋の脇道からさらに先にそびえる、無数の岩でできた山を見上げる。あれを登れば、頂上だ。十年ほど前、一度だけ上ったことがある。しかしあの時とは季節が違う。岩の日陰部分には雪が残っているではないか。これを登るのか。こんな軽装で。もし万が一足を踏み外し、滑り落ちでもすれば──────。

 私は岩に手をかけ、登り始めた。

 足を掛ける場所にいちいち迷う。体を変な風に曲げる。息が切れる。四十も終わりに差し掛かった自分の体をひどく重く感じる。十年前の夏は、ずっと楽に登ったはずだが。雪を踏み、バランスを崩しかけて岩に抱きついた。脚がすくむ。自分は何をしようとしているのか。ここで死にたいのか。不本意な死をこれだけたくさん目にしながら、なぜ自分は、どうしようもなく自分の生を揺さぶりたくなるのか。

 誰かが呼んでいる。

 はっと気づけば、無辺に広がる空の下にいた。呼び声がしたと思ったのは、先に登り詰めていた若い三人連れだった。皆しっかりした山行きの装備をしている。彼らにとっては何の苦労もない岩山なのだろう。爽やかな笑い声が飛び交う。中の一人がサングラス越しの視線を私に注いだ。その視線はしばらく私から離れなかった。

 彼らから身を隠すように岩を移動し、平たい場所を探して、恐る恐る腰を下した。眼下には、出発点となった白駒池が不透明な水を湛えて口を開けていた。

 夕刻の風が吹いた。

 誰かがくしゃみをした。

 そうだ。自分はあそこに戻らなければならない。戻るために、ここに来たのだ、と、このときようやく気がついた。

 

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街の別れ

2020年04月14日 | 短編

 その男はいつも昼前から日没まで通りで笛を吹いていた。いわゆるストリートミュージシャンである。笛を吹いている、というのが、一風変わったところであった。笛はたて笛。両掌を広げれば隠れるほどの小ささである。地面に胡坐をかいて座り込み、茶色い犬を脇に寝そべらせていた。この犬はいかにも雑種犬であろうし、あまり贅沢な扱いを受けてきたとは思われないふてくされた面をしていたが、主人が笛を吹いている間決してそばを離れることなく、通行人が拍手したり野次を投げかけたり、ときには一撫でしてやろうと腕を伸ばしてきても、全く関心のない風で寝そべったままであった。

 男の演奏する曲は、クラシックだったり、どこかの民族音楽であったりした。ときたま馴染の歌謡曲になることもあれば、ごく稀には、即興であろうか、聞いたこともない調べもあった。しかし一概に通行人たちの評判は上々であり、彼の膝もとに置かれたブリキの灰皿にはいつも硬貨や札が積み重なった。教会に続く石畳は観光客も多く、硬貨を投げ入れた後でカメラを向けてくる者も少なくなかった。女たちが彼の背後に回り、一緒に写真に納まろうとすることもあった。だがどんなときでも胡坐をかいた男の姿勢が崩れることはなかった。カリブ海の伝説のミュージシャンのような長いドレッドヘアに神経質そうな細い顎。そしてジブラルタル海峡から吹く生暖かい風を感じさせる大きく黒い瞳は、滅多に顔を上げないことから、意外と知る人が少なかった。

 笛を吹く以外は、唖(おし)のように寡黙であった。

 彼は曲に魂を込めるような吹き方をした。しばしば観光客のために『コンドルは飛んでいく』や『新世界』を吹き、秋には地元の酔っぱらいたちのために『枯葉』をやり、日曜日の午後三時にくる老いた未亡人のためにはヨハン・シュトラウスを奏でた。

 彼のことを商店街の人たちはゲーテと呼んだ。誰がいつからそう呼び始めたのか、由来は語る人によりさまざまである。風貌が詩人のようだから、と言う人もいれば、地獄を見てきたから、とも囁かれた。散髪屋の禿親父に至っては、ありゃ密かに愛慕する人妻シャルロッテがいるんだ、ついでに言やあ名付け親は俺さ、ともったいぶって説明する始末であった。

 ゲーテと呼ばれた男の幼少期は、彼の紡ぐ音楽ほど美しいものではなかった。五歳の時、飲んだくれの父親が蒸発した。音楽大学の教授だった父親は、一人息子の彼に音楽的感性と厭世観だけ植えつけて、若い女子学生と共に南の国へと去っていった。神経質な彼の母親は失意の中でノイローゼになり、彼が十一歳の時に郊外の病院に入れられ、二度とそこから出てくることはなかった。

 彼が石畳に汚い犬と座り込んで笛を吹き始めたのは、十七歳のときからである。演奏が終われば、彼は犬を連れて四区画分歩き、貧民街にある自分のアパートへと戻った。時たま女が転がりこみ、そのまま同棲することもあったが、いつも一か月と続かなかった。だから基本的には一人と犬一匹の暮らしであった。

 彼にとって、教会に続く石畳のあの場所が、世界のすべてであった。それで十分だ、と思っていた。わざわざ自分が腰を上げなくても、世界の方から順ぐりに巡ってきてくれる。フランス人。アメリカ人。オーストラリア人。日本人・・・。そして地元の人。

 笛を吹いているだけで彼は幸せだった。幸せというものの抱きしめ方を、彼は知っていた。

 ある日、街から人々の姿が消えた。

 その数日前から、観光客が減っていることには気づいていた。感染病が世界的な流行を示していることも聞き知っていた。しかしそれはずっと遠い国で起こった政治的動乱のように、この街とは無関係の話だと思っていた。それがあっという間に、この国にも魔の手が伸びてきたらしい。気がつけば石畳に響く靴音は途絶え、紙屑が風に吹かれてどこまでもからからと転がった。

 それでも彼は笛を吹き続けた。ときたま通る一人、二人が、懐かしい人の墓標を前にしたかのように、立ち止まってじっと聴き入った。

 やがて外出禁止令が出された。マスクをし、警棒を持った太っ腹の警官が二人現れ、彼も通りから退去するように告げた。彼は嘆息し、首を振った。やり場のない怒りさえ覚えた。自分は一切、この場を動いたことがない。世界の方からいつも自分を訪れてきた。自分は一切、悪いことをしていない。悪いことをしようがない。いつも同じ場所で笛を吹いていただけなのだから。それなのに、病気をうつす恐れがあるから、あるいはうつされる恐れがあるからと言って、笛を降ろし、立ち退けと言うのか? 

 二人の警官が見守る中、彼はゆっくりと立ち上がった。茶色い雑種犬が首をもたげ、主人を見上げた。彼は誰もいなくなった通りを見回した。朝日を浴びる石畳を見つめた。通りのずっと向こうで、尖塔だけ覗かせる古い教会を仰ぎ見た。

 ああ、と彼は嘆息した。この街はこんなにも美しかったのだ!

 笛をポケットに仕舞うと、犬を立ち上がらせ、その茶色い頭を一度だけ撫でてやった。

 それから彼はその場を立ち去った。

 

(おわり)

 

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日用雑貨店

2019年12月26日 | 短編

 十二月の冷たい雨を眺めながらレジに佇む中年女性は

 一生に一度本気で愛した男のことを思い出していた。

 人生なんてたった一瞬燃え上がって

 あとは燃え滓(かす)を火箸で転がしているようなものね。

 「いらっしゃいませ」

 女性は自分の働く店のチラシを眺めながら声を出した。

 大根一本二百円。胸肉百グラム百六十円。これは高いわ。醤油一リットル三百二十円。

 うちの醤油が切れかけていたから、仕事上がりに買って帰ろうかしら。

 「はい、ありがとうございます。四百八十四円になります」

 一生に一度、体が溶けそうなくらいあたしが愛した男は

 こんな寒い日、どこで何してるのかしら。

 自動ドアが閉まったその後に

 雨に消える客の背中をぼんやり眺めて

 彼女はまた、レジに貼ってある店のチラシに視線を戻した。

 何と愚かな。

 今出て行ったその客こそ

 三十年前、自分が愛した男だったことにも気づかずに!

 

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『死刑台に立たされて』

2019年10月10日 | 短編

 怖い夢を見た。

 私が処刑されるのだ。理由はわからない。もちろん身に覚えがない。ただわかっているのは、これから群集の面前で、ギロチンを使って公開処刑される、ということである。ギロチン────ギロチン? なぜギロチンなのかまったく理解できない。状況を一切呑み込めていない。そのくせ何となく、自分が処刑されるのも致し方ないと、漠然と観念している自分がいた。そこが妙であった。

 どこか見知らぬ街の広場であった。それはいつかテレビ番組で観た様な、ヨーロッパ風のレンガ造りの建物に囲まれた、あえて言うなら美しい広場であった。その広場を醜くも埋め尽くした顔、顔、顔は、老若男女を問わず、どれも一様に怒りの表情を浮かべていた。明らかに私に対して怒っていた。そんな理不尽なことがあろうか。私が何をしたというのか。あちこちから怒声や罵声が飛び交う。声と声が幾重にも重なり合うので、何を叫んでいるのかよく聞き取れない。それでも私の足下近くにいる男二人の会話は、耳に入った。

 「ようやく処刑だとよ。よくここまで生き永らえたもんだ」

 「恥知らずにもほどがあらあ!」

 私は項垂れた。非常に惨めだった。

 

 空には雲一つない。

 広場にはどす黒い憤懣が渦巻いている。その只中に立たされて、私は大人しく刑の執行を待っている。

 訳が分からない。だが、本当に訳が分からないことなどこの世に存在するだろうか?

 私の傍らには、わざわざ今日のためにこしらえたことがわかる、新品・未使用のギロチン台がそびえ立っている。首一つ切り落とすのによくもまあこんなに馬鹿でかくしたものだ。私の身長の三倍はあろうか。そのてっぺんに、厚みのある鉄製の刃が、日差しを浴びてぎらぎらと輝いている。人間の生首を二、三十個束にしても難なく切り落としそうである。目がくらんでとてもじゃないが正視できない。

 私の両手は背中に回され、縄で縛られている。船を曳くのに使えそうな太い縄である。動かそうとしてみたがびくともしなかった。おまけに裸足である。縄文時代の貫頭衣のような粗末な着物を着せられている。私はまったくの囚人だった。

 何もかもが馬鹿げていた。途方もなく馬鹿げていて、どう転んでも夢に違いなかった。こんなことは現実ではあり得ない。しかし、これだけ自分の意識がはっきりしていても、一向に眠りから醒めないのが、不気味であった。

 

 見物人の肩の高さほどの壇上に、私とギロチンが立たされている。そこから十メートルほど離れた場所にも、これよりずっと幅の狭い壇がしつらえてある。そこに今しも、山高帽に丸眼鏡、顎鬚を薄汚く垂らした小男が勢いよく登壇した。偉そうな咳払い一つすると、奴はキーキーとドアの軋むような声を上げて演説を始めた。

 「紳士淑女様! ご静粛に!(そんなことを言う必要はなかったのだ。奴が現れるや否や、群衆は水を打ったように静まり返っていたのだから。)皆様がご覧の、この罪深き男も、ついに正義の裁きを逃れること叶わず、本日死刑に処せられることと相成りました!」

 大歓声が上がる。口笛が鳴る。拳を振り上げる者もいる。

「この男のこれまで犯してきた罪状の数々は、すでにあまねく知られているところであります。がしかし、まさに張本人にこの場で今一度、己の犯した罪をしっかりとわきまえさせ、のち刑に処すのが、この男に我々が与えるべき、最後の寛大なる憐憫であると思うのであります」

 拍手と歓声。

 「さてこの男の所業を一つ一つ挙げるにあたり、わたくしめの口よりも、この男と直接かかわり、その過ちを間近に見てきた証人たちに直接語らせる方が、ずっとわかりやすく、かつ公平というものでありましょう」

 「そうだそうだ」という声が上がった。「いいぞ!」という声も。

 空を舞っていた鳩の群れが、この催し物を見物するためか、広場の街燈や水の出ない噴水塔の上にばらばらと留まった。

 「ではまず最初にご登壇いたしますのは、死刑囚の中学時代の恩師、加藤教諭でございます」

 驚きのあまり私は声を上げた。我が耳を疑った。加藤学先生。あの加藤先生なのか。私の中学一、二年時の担任である。私がおそらく人生で一番、尊敬する人物である。高校インターハイの全国出場経験を持つ彼は、筋肉質の男らしい体躯でありながら、同時に知性溢れる数学の教師であった。その授業はときにクラスを笑いの渦に巻き込み、ときに全員を真剣な眼差しに変える魔力をもっていた。このような大人になりたい、とただ一人、私に思わせた人であった。あれから三十年近く、もう相当な歳になられているはずだが────どうしてこの、私を晒し者にする場に────。

 加藤先生が登壇した。スーツ姿に黒眼鏡。風貌はあの頃と全く変わっていない。

 黒眼鏡の奥の目が、私をじっと見た。表情まではわからない。担任の時からそうだった。首を傾げ、肩の凝りをほぐすような仕草をする。機嫌が悪い時の先生の癖だ。口元に深い皺が刻まれる。先生は怒っている!・・・・三十年ぶりの再会なのに・・・・。

 「えー、私は、がっかりしました」

 よく通る太い声も、かつてのままである。

 「心から、がっかりしました。私は、裏切られたのであります。えー、中学生の頃は、この男も成績優秀でした。勉強熱心で、生徒会の仕事も積極的にこなし・・・まあ、その頃から多少、自己中心的な部分もうかがえましたが、それでも、我々教師の側から見て、将来を嘱望するに値する子供でした。私はこの男に期待したのであります。私だけでなく、多くの人が期待しました。もっとも、周りにちやほやされることで、本人に傲慢な自惚れが生じたのも事実です。卒業文集に、将来の夢という題で、彼はこんなことを書きました。『僕は将来、世の中の人々の役に立つ人間になりたいです。みんなの役に立って、なるべく多くの人を幸せにできるような仕事をしたいです。一生けん命働いて、この社会を少しでもよくすることができたらいいなと思います』───どうですか、お聞きのみなさん。笑止千万ではないですか。え? まったく笑止千万ではないですか!」

 群衆は地鳴りのようにげらげらと笑った。顎髭の司会者はひときわ甲高い奇声を上げた。私は項垂れるしかなかった。

 「世の中を少しでもよくしたい! は! それほど大層なことを豪語しながら、この男の成人してのちにやったことは何でしょうか? 勉強の方は、大学入試で失敗してからいっさい興味をなくしたようです。行きたくもない大学に行って、遊ぶことに夢中で全く学問を省みず、二年も留年して親に迷惑をかけ、ようやく社会に出たときには、理想を捨てて利己主義の塊となっていました。安きに甘んじ、楽をして得することだけを考え、目の前に転がる幾多の社会問題には目をつぶる。そんな腑抜けのような大人になっていました。就職は給料と休日の多さで決めたと聞きます。世の中の人々の役に立つ仕事? とんでもない! 無知で騙され易い個人事業主を相手に、実際には安くもお得にもなっていないコピー機のリースを、詐欺同然の言葉を並べ半ば強引に押し売りするセールスマンです。自分の給料のためなら人を騙して何とも思わない仕事をして、それでも良心の呵責を感じるのでしょうか。溜めたストレスは、酒と、パチンコと、風俗に注いでうっぷんを晴らしているのです。風俗は週に一度のペースで入り浸っているとか。家庭を持つ身でありながら! これが、これが周りに将来を期待させるだけさせた男の、なれの果ての姿なのです!」

 私はひどく赤面した。狼狽した。妻と子供は来ていないか、慌てて会場を見渡した。加藤先生はいったいどうやって中学卒業後の私の行動を知ったのだろう。調べたのだろうか? しかしそれにしても、あまりと言えばあまりではないか。嘲笑されるくらいは仕方ない。そうだ。確かに自分は嘲笑されるほどちっぽけな人生を歩んできた。しかし、だからといって、これはあまりにひどい仕打ちではないか。子供の頃描いた理想通りの人間にならなかった、ただそれだけのことで、私はかくも辱められ、死刑になるのか。私のしてきたその程度のことが、そこまで重い罪に値するのか。そう言いたかったが、ぐっと言葉を呑みこんだ。だがあまりに悔しかった。「そんなことで」という言葉が小さな声になった。加藤先生は私の漏らしたつぶやきを、しっかり聞き取った。

 「そんなことで! おお、そんなことでと、この男は今言いました!」

 加藤先生は憤怒の形相で人差し指を私に向けた。私はたじろいだ。感極まった聴衆は津波のような罵声を上げた。

 「そんなことで!」狂ったような喧騒の中、先生の声は一段と張り上がった。「そんなことで? どういうつもりでしょうか。この男は、小中高と、一人当たりに注がれる三百万に上る税金を、どう心得ているのでしょうか? 大学では奨学金も得ています。言い逃れをしながら、まだほとんど返していません。記録にちゃんと残っています。ということは、社会はそれだけこの男に投資しながら、本人はそれに報いてないのです。そのことを本人自身はどう思っているのでしょうか? 当然、ええ当然ながら、この男の両親は、社会がかける以上の苦労と期待をこの男にかけてきたことでしょう。自分たちの息子が、幼い頃に豪語した通り、立派な大人になることを願って! それをも見事に裏切ったのです。自分の怠惰のために、自分の弱い性格のために、いとも簡単に。それがどんなに罪深いことか、この男はこの場に及んでもまだわかっていないのではないでしょうか!」

 振り上げた拳をゆっくりと降ろした。目は私を見据えている。眼鏡越しに、背筋の凍りつくような視線だった。

 「あくまで自分のなしてきた非を理解しようとしない囚人には、求刑通り死刑を望みます」

 地鳴りのような大歓声が沸き起こった。鳩たちは驚いたのか残らず飛び去った。加藤先生は降壇した。二度と私の顔を見ることなく。

 私は涙した。涙は私の素足に落ちた。

 馬鹿馬鹿しい────馬鹿馬鹿しいはずなのに!

 顎鬚の汚らしい小男が再び登壇した。何かを祝福でもするかのように、両手を揉み合わせていた。

 「素晴らしい、実に素晴らしい演説でした。正義と誠実さに満ち溢れた演説でした。厚顔無恥な囚人も、これで少しは自責の念に苛まれることができたでしょうか」

 奴は胸を張り、空咳を一つした。

 「さて、次にご登場いただくのは、看護師として日夜患者さんのために尽くす、小谷さつきさんでございます」

 再度、我が耳を疑わなければならなかった。開いた口が塞がらなかった。小谷さつき?────その名は、針で刺されたような痛みを伴わずに、口にすることができない。小谷さつき。なぜ彼女が。私の学生時代、一年半同棲生活を送ったさつきが、なぜ。

 壇上に現れた、小柄でほんの少しふっくらした女性は、まぎれもなく彼女だった。かつて私が心から愛し、倦み、ひどいやり方で捨てた、彼女だった。

 大観衆を前にして、証人は俯いて顔を赤く染めた。しかし、私の方をちらりと見ると、憤りの記憶がよみがえったのか、意を決した表情で頭を上げた。両手を腰の前で握りしめ、心もち前かがみになり、口を開いた。

 「この人は、この人は、私の人生をめちゃくちゃにしました」

 記憶にある可憐な声。

 「ひどい人でした。でも、こんなにひどい人だとわかるまでは、私にとっては、世界で一番大事な人でした。二十年前に私たちは出会いました。当時この人は大学生、私は看護師をしていました」

 そうだ。それは、蒸し暑い夏の夜から始まる濃密な思い出だった。私が彼女に告白した。年上で、甘えられる人を探していた。軽い気持ちもあった。相手は社会人だから、しばらく遊んでから別れても、さほど相手を傷つけない気がしていた。

 不幸なほどに優しい心を持った人だった。私はその優しさに付け込んだのだ。 

 「この人は私のアパートに転がりこんできて、半同棲の生活が始まりました。私を幸せな気分にしてくれるようなことをいっぱい語ってくれました。将来結婚したら、すぐに一軒家を建てようとか、看護師の仕事を今ほどしなくても済むようにしてあげるとか。私はもちろん、そんなことを言われて嬉しかったですし、彼の言葉を信じました。まだ彼は学生だったので、同棲中の家賃はもちろん私が払いましたし、食費も光熱費も彼に請求したことはありませんでした。

 「私が妊娠したとわかったとき、彼の態度は急変しました。だましたな、とまで言われました」

 彼女は口に手を当て、嗚咽をこらえた。「だましたな」────そんなひどい言葉を吐いた覚えはない。しかし、口論になったとき、かなり乱暴な言葉を並べ立てたのは事実である。あるいはそんな台詞も口にしたのかも知れない。そんなことを、ずっとのちに、公衆の面前で暴露されることも知らずに。

 「だま・・・だましてなんかいません。だましてなんか、いません。私だって、妊娠がわかった時には、まさかと思ってびっくりしました。でも、でも心のどこかで、俊君に喜んでもらえるような期待もしました。私は女です。子どもを産みたい気持ちもあります。でも、すぐに下ろすよう言われました。ほとんど命令されました。私が抵抗すると、態度を和らげて、今産んでも自分たちは生まれた子を幸せにすることが出来ないから、と、なだめられました。もっと、二人とも大人になって、貯蓄できるようになって、周りからも祝福される立場になってから、それから考えようって。そう言う彼は、とても青ざめてました。自分の親には相談できない、と言いました・・・・。私は彼に説得されました。彼は費用をほんの少しだけ負担してくれましたが、ほとんどを私自身が出して、中絶しました。病院から帰ってきた日、彼から別れを切り出されました」

 「殺せ」という怒号が聞こえた。「人間じゃねえ」という声も。

 小谷さつきは嗚咽をこらえるため口に手を当てた。

 「そのとき気づきました。この人は、この人は結局全部、自分の都合のいいようにしているのだと。私は彼の都合で愛され、彼の都合で中絶させられ、彼の都合で捨てられたのです。理由は、私が邪魔になったからです。勝手です。勝手過ぎます。どれほど私がこの人によって人生を狂わされたか、あれから、どれほどの悲しみと傷を背負って残りの人生を生きてきたか、この人にはわかっていません」

 彼女は頬を濡らした顔を私に向けた。別れを告げた日に見せたのと同じ目つきで、私を睨んだ。

 「私は、この人に、極刑を、望みます」

 観衆は一斉に叫び声を上げた。その轟きは青空まで届きそうであった。

 泣き顔を両手で覆う彼女を、数人の男が支えながら壇から降ろした。私は───後ろ手に縛られた縄の重みのせいであろうか、立っているのがやっとであった。叶うことならこの場に座り込み、泣き崩れたかった。しかし、死刑囚の私には、その自由さえ許されていない。

 何なのだ。この感情は何なのだ。理不尽を強制され続けることによる疲労と恐怖が、ついに私の意識を混濁させ始めたのか。私は・・・・私は、自分の罪を受け入れ始めているのか。

 丸眼鏡で顎鬚の小男がまたひょこんと登壇した。嬉しくてたまらない様子である。

 「三番目に登壇いただくのは」彼のキーキー声で、喧騒もぴたりと鳴り止んだ。

 「死刑囚の幼少期を身近で見てきた、祖父栄次郎さんです」

 今度こそ、私は吐き気を催すほどの衝撃を受けた。激しく身震いしたはずだ。祖父栄次郎? そんな馬鹿な! 栄次郎────もう二十年も前に死んだはずなのに!

 広場を一陣の風が通り抜けた。人々は沈黙した。

 骨と皮だけの、よぼよぼの老人が、杖を突き、左右の付き人に腕を支えられながら登壇した。学校の理科室にあった頭蓋骨の標本のような、見事に剥げ上がった頭。老いてもなお凛々しく太い眉。知的に見開いた目。言いたいことをたくさん封じ込めて後半生を生きてきた、醜くすぼんだ口元。まぎれもなく、祖父、栄次郎であった。

 私は思わず、おじいちゃん、と声を漏らした。

 幼い孫の私を溺愛し、つねに慈愛に満ちた表情で接してくれた祖父。その彼は、太い眉を吊り上げ、生前は一度として見せたことのない怒りに満ちた視線を孫の私に投げかけた。

 はらわたをえぐりだされるような気分だった。

 三番目の証人は拳を口に当て、痰の詰まった咳払いを一つした。            

 「恥ずかしい───誠に、誠に恥ずかしい限りであります。このような孫を持ったことが。このような出来損ないを、我が家系に生じせしめたことが」

 杖に寄りかかる腕がわなわなと震える。

 「私は余生十年余りを、まさに、この孫のためにすべて捧げたと申しても、よろしい。私栄次郎は、激動の人生を歩んでまいりました。私は元職業軍人でございます。自ら銃剣を取り、お国に命を捧げ・・・・。そうすることが正しいと、この国のためになると信じて戦って参りました。戦友がすぐ隣で砲弾に吹き飛ばされても、人殺しをする恐怖に囚われても、飢えと渇きに倒れそうになっても、今ここで自分たちが踏ん張らなければ、祖国日本は滅びる、そう信じて涙をこらえ、戦って参りました。それが終戦と同時に、同じ────日本人から戦犯扱いをされ、罪人同様の扱いを受け、日陰でひっそり生きなければならなくなりました。その屈辱も、日本がより良い国に、平和で豊かな国に生まれ変わるためなら、と、そう思って耐え忍んで参りました」

 鳩の群れが、広場をぐるりと旋回する。

 「孫は私にとって、希望でした。新しい日本を支え、発展させていくのはこの子たちだと思いました。学びたいことを学び、したいことができ、自由を、自由を謳歌する世代でございます。私らの時代は暗黒の時代でした。自分の夢なんて追い求めることは一切許されませんでした。が、孫の時代は、思いきり自分の夢を追い求めることができる。羨ましい限りだと思いました。ひもじい経験もせず、殺人の道具を手に取る必要もないのです。自分の才能を生かし、自分のつきたい職業につけばいい。ぜひともそうして、世の中の役に立つ立派な人間になって欲しいと願っておりました。

 「それが・・・・それが、なんたることか!」

 祖父は皺だらけの口から泡を飛ばし、目を血走らせ、節くれだった震える手で私を指さした。

 「こんな堕落した、つまらん人間になりおって! しかも、しかも今聞けば、ふしだらな恋愛をして、無垢の他人を傷つけたとか。お前の年齢のころ、いいか、お前の年齢のころ」

 祖父はいつしか私に向かって語りかけていた。

 「わしは、間違っておったかもしれんが、必死に働いた。文字通り必死に働いた。間違っておったかもしれんが、わしはつねに自分以外のことのために戦った。みんながそうだった。今のお前は、自分のためしか考えておらんではないか。自分のことすらきちんとできておらんではないか。一番大事な自分の家族のことすら、真剣に考えておらんではないか!」

 自分の家族。この言葉に導かれたように、私の虚ろな視線は群衆の一点に集中した。

 真紀子。良太。

 まったく不意に、群衆に紛れてこちらを見つめる妻と息子の姿が目に入ったのだ。私は卒倒しそうなほど驚いた。先ほど目で探したときは気づかなかった。なぜ気づかなかったのか。二人は、ちゃんとこの場に来ていたのだ。それは五体を引き裂かれるように辛いことだった。叶うならいて欲しくなかった。家族だけには見られたくなかった。妻真紀子は唇を噛みしめ、涙を浮かべ、恐ろしく暗い表情で、私をじっと睨んでいた。十歳になる息子良太は、もはや何が起こっているのか理解できていない様子であった。神経をやられてしまったかのように、首を小刻みに振り続けていた。

 私の視線を確かめた妻は、息子の手を引き、背を向けて群衆の垣根の向こうに去っていった。

 二つの親しい後姿は、すぐに視界から消えた。

 もはや限界だった。私は崩れ落ちるように両膝を突いた。そんな私の耳に、祖父のしゃがれた声が、情け容赦なく入ってきた。

 「一つ懐かしい話を聞かせてやろうか。俊。一つ、お前に懐かしい話を聞かせてやろうのお・・・・。お前が高校に入学すると決まったとき、わしは入学祝に、腕時計を買ってやると約束したのを覚えておるか」

 もちろん覚えていた。なぜそんなことを唐突に?

 「わしは風邪をこじらせて、約束の日に外出することができんかった。別の日にしようと持ちかけたが、お前は約束したのだから今日がいい、どうしても今日がいい、と駄々をこねてわしの言うことを聞かんかった。仕方ないので、わしはお前に三万円を手渡し、それで自分で買ってくるように言った。あらかじめお前が選んでいた時計が三万すると言うし、近所の時計屋なんで、一人で行けるとお前は言い張った。わしはお前を信じた。そのわしが愚かだった。お前にお金を預けても、もう高校生だから大丈夫だろうと思った。お前は一万円の時計を買い、わしには三万円したと偽って報告し、残り二万の金で自分の欲しかった音楽機器を買いおった。最後まで、わしも、両親も、欺きながら。

 「は、は! わかるか、俊。詰まらん話よのう。何とまあ小さい話よのう。お前のやったことはもちろん、すべてばれておった。わしは知り合いの時計屋に問い質してすぐにことの顛末を理解した。だが、お前にはそのことは言わずにおいた。あまりにも小さなことだからだ。あまりにもくだらんことだからだ。わかるか俊。そこで後ろ手に縛られて聞いておってわかるか。一万、二万のことでとやかく言っておるのではない。わしが許せんのは、欲しいものがあった、ただその程度のことで、平気で肉親を騙し、最後まで騙し通したと思いこんでおるお前が、あまりに、あまりに下等な人間だからだ。お前は虫けらに等しい小さな小さな人間であることを、この出来事が物語っておるからだ。それで何かい、社会に役立とうだと? は! 立派な人間になろうだと? 俊よ。お前のした悪事は、動機はちっぽけだが、人間性としてはとてつもなくひどいことだということが、まだわからんか。お前を祝福しようとするじいさんをお前は騙した。わしらの若い頃だったら、一番恥ずかしくて、不道徳で、不義理なことだ。一番唾棄すべき振る舞いだ。自分の大切な肉親からお金を騙し取って平気でおる。それも、己のちっぽけな欲求を満たすがために。お前は・・・・お前は虫けらに等しい根性の持ち主だ。そのことをわかっておるのか?」

 祖父は、よろよろと体の向きを変え、顔を再び公衆に向けた。 

 「みなさん。私は、こんな孫を持ったことを痛切に悔やんどります。世間様に対し、どうお詫びして良いかわからん気持ちでおります。せめて潔く死でもって、自分の罪を償ってほしい。そう思っとります。誠に、誠に申し訳ありませんでした」

 祖父は深々と頭を下げ、万雷の拍手に見送られながら、両脇を支えられ、壇を降りた。

 群衆の輪よりも遠くの街角で、犬が吠えた。

 空には雲がかかり、いつしか風は強まっていた。

 私は両膝を突いたまま、次なる仕打ちを待った。また誰かが私を非難するために登場するのだろうか。それとも、もうそろそろ刑が執行され、私の首が胴体から離れるのだろうか。もちろん、もちろんのことだが、自分は全然納得できていない。自分が処刑される理由がいまだまったく腑に落ちない。ただ、ただ小さな人間であるというだけで、自分はこれだけ非難されなければならないのか。ただ生きてきたことが、こんなにも罪深かったということか?

 顎鬚の小男は登壇しなかった。その代り、得体の知れない、ぬるぬるしたものが這い上がってきた。大人の膝ぐらいまでの高さだろうか。私は恐怖のあまり、後ろ手に縛られたままのけ反った。人間か。目鼻立ちはぬるぬるとした膜に覆われて判別できないが、短い手足からして、人間には違いない。しかしずいぶん小さな人間である。相当幼い、ほとんどまだ生まれる前のような────

 気づけば、群衆はいつの間にか個々の顔がなくなり、全員がぬるぬるとした膜に覆われた小さな生き物に変わっていた。皆、目のない顔で私の方を見つめ、声にならない声で何かを訴えかけ、じりじりと私の方ににじり寄った。

 私は堪らず叫び声を上げた。

 

 それで目覚めた。

 開いた窓から冷たい夜風が吹き込んで来る。ベッドのシーツもパジャマも、私の汗でぐっしょりである。隣を見ると、妻が安らかな寝息を立てて寝ている。さては、夢の中の叫び声は、実際の声にはならなかったか。九月に入っても熱帯夜が続くので窓を開けたまま寝ていたが、下手をすると風邪を引くところだった。私はそっとベッドを降りて窓とカーテンを閉め、妻の寝顔をもう一度確かめてから、音を立てないように寝室を出た。

 つま先立ちに階段を下り、ダイニングルームに入った。グラスに水道水を注ぐ。変な夢だった。本当に夢だったのか、疑いたくなるほど克明だった。しかし冷静に振り返えれば、あまりに荒唐無稽な内容である。ただ人並みに、平凡に生きてきただけで公開処刑されるなんて。私は無理に笑おうとした。馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。

 

 食卓に腰かけてグラスの水を口に含んだ。口元からこぼれ落ちる水で、私はどうしようもないほど体が震えているのに気付いた。腕に力が入らなく、まともに水が飲めない。グラスを置き、両腕を抱いて、身を丸めた。そうでもしないと寒気が去らない気がしたからだ。

 深夜のダイニングルームは真っ暗であった。わずかに壁時計の針と炊飯器の予約表示が、仄かな光を放っていた。生きているものは何一つ存在しないかのように、しん、と静まり返っていた。

 

 私は暗闇で独り、震え続けた。

 

 (おわり)

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『林の向こうに』

2019年04月15日 | 短編

 

 

 田代玲子は安心した。窓際のいつもの席に案内されたからである。それはまるで、あなたは今まで通り生きてよいのですよ、と言われたような感覚があった。

 大きな窓に接した、四角いテーブル。そこは、夫雄一郎の生前、いつも二人で予約した席であった。窓ガラスには、八ヶ岳の自然林がすぐ傍まで迫る。じっと眺めていると、まるで枯葉を踏みしめながら森の中を歩いているような錯覚に襲われる。一年中、その森は涼しげな色を見せた。そして涼しげな木立を眺めながら口にする窯出しピザは格別であった。どこか違う国の、神聖な儀式に参列しているようであった。二人はよく、オリーブの効いたピザと、生ハムのサラダと、赤ワインを注文した。

 

 

 玲子はファー付きの黒手袋を脱いだ。像の足のように皺の刻まれた自分の左手を、像の足のように皺の刻まれた自分の右手で擦る。歳月に傷つけられた結婚指輪に手が当たる。無意識にそれを回す。この店に来るのは一年振りだ。もっとかも知れない。予約も入れず、たった一人で訪れたのに、同じテーブルに通してくれた。自分も深い考えもなしに、あの頃と同じ席に腰かけた。でも今、向かいの席に座る人はいない。

 彼女の視線は窓の外の冬木立に注がれた。

 自分の息子ほども若いウェイターが、笑みを浮かべてメニューを差し出す。玲子は貫禄を漂わせて微笑み返す。

 夫は自殺した。

 玲子は今でもそう思っている。独立系IT企業の創業者として財を成した夫は、五十代半ばで突然、第一線を退くことを宣言した。妻である玲子に対しては、今後は老後の生活を充実させようと提案した。実質の会社経営は若い後継者に任せ、自分たちは八ヶ岳に家を建てて移住しよう、と。八ヶ岳は以前から避暑地として二人とも気に入っていた土地である。夫婦には子供がなかった。ためらう要素は何もなかった。

 子供がいない生活というのは、はじけるような喜びもなければ、ぐったりするほどの悲しみもない。ただ、美味しい、とか、あまり美味しくないね、とか、素敵だ、とか、あなたはいつもそうね、とか、そういった互いを傷つけない言葉の遣り取りで日々が成り立っていた。

 それはこの山あいに移り住んでからも同じであった。陶器作りの夢を実現したいと言い出したのは、玲子の方であった。雄一郎も一も二もなく賛同し、新築の家には小さな窯を備え付けた。しかし実際に移り住んでみると、二人とも家に閉じこもるよりは、周辺を散策する方を好んだ。ブナの木の枝にリスを見つけて大はしゃぎしたこともあった。わざと小径を離れ、危うく遭難しかけたこともあった。コートを借りてテニスもした。夫の趣味につき合って一緒に渓流釣りもした。もっともこれは半日かけて一匹も釣れず、一度限りで終わったが。どこかのレストランでコンサートが催されるときには、ほぼ欠かさず足を運んだ。自分たちが隠居するには、まだまだエネルギーを持て余しているのを、二人とも感じていた。

 

 

 「お飲み物はいかがなされますか」

 「そうね・・・赤ワインをお願い。グラスでいいわ。飲める人が、今日は、いないから」

 ウェイターはほんの一瞬、夫人の横顔を見つめた。が、何も言わず、お辞儀をして退きさがった。

 

 

 移住して二年目が終わるころ、夫の会社が大きく傾いている事実を、彼女は本人から打ち明けられた。心配しなくていい、と言い聞かされた。週二度ほどしか東京に顔を出していなかった雄一郎が、債務整理に追われてほぼ毎日上京するようになった。会社に泊まり込む日もあった。後任が「とんでもない奴」だったと、夫は拳を固めて悔しがった。と思うと気弱な声で、「つけが回ったんだ」とこぼした。横領があったらしいという情報を、家族ぐるみのつき合いのある同業者から玲子は聞き出した。会社の抱えた借金は億にのぼるかも知れない、という憶測は、税理士である彼女の父親から電話口で聞かされた。

 

 

 「ごめんなさい。あの、グラスをもう一ついただけるかしら・・・中身はなくていいから。ごめんなさいね。変なこと言って」

 なぜこんな大それたことを口走ったのか、我ながら驚き呆れた。ついに自分は気がふれたのではないか。そのように店の人に見られることを、彼女は恐れた。しかし若いウェイターは、ごく普通の注文を受けたかのように会釈し、退きさがった。森の静けさも、店内の落ち着いた雰囲気も、何一つ掻き乱されていない。彼女は嘆息した。

 受け取った空のグラスを向かいのテーブルに置き、自分は赤い液体の入ったグラスを持ち上げ、彼女は誰にも聞こえないほどの微かな声でつぶやいた。

 「乾杯。私だけ、ごめんね」

 

 

 全てがどうしようもなかった。ひどく化膿したうみが、あと一突きではじけて、血を迸り出す、そんな緊迫感に包まれた十二月の冷え込んだ朝、東京へ出社途上の夫が中央自動車道で衝突事故を起こしたという知らせを、警察から受け取った。

 スピード超過とスリップによる側壁への激突で、即死であった。誰も他人を巻き込まなかった。そもそも、夫は運転が上手だった。(あの人らしいわ)と、知らせを受けたとき、彼女は真っ先に心に思った。

 自殺の可能性は警察も疑ってみたようだが、前日に舞った雪が凍りついた路面でスリップした自損事故、という見解は覆らなかった。多額の生命保険が下り、会社の破産手続きを滞りなく終え、未亡人となった玲子が老後を十分に食べていけるだけの資産が残った。

 

 

 自分は何て残酷な仕打ちを死者にしているのだろうと、ワインを半分飲み干した時点で、ようやく玲子は思い至った。ねえ、グラスだけって何? グラスだけあげて中身はなしなんて────これであの人を弔っているつもり?────彼女は慌てて、自分のグラスの残りを空のグラスに注ごうとした。────そうだ。冷たい人間だった、昔から、自分は。雄一郎にそう指摘されたこともある。「計算高い」と言われた。「君は上手だ」とも言われた。「何が上手なの?」何をしているの私は? こんなことして、もしこぼしたりしたら────。

 震える彼女の手が止まったのは、脇からウェイターがワインボトルを差し出したからである。

 「お客様、よろしければ、こちらから」

 玲子はひどく顔を火照らせた。酔いが回っていることを自覚した。

 「ああ、ありがとう。ごめんなさい。あの、ほんの少しでいいのよ。気持ちだけ」

 空のグラスを四分の一杯分だけ満たした後も、若いウェイターは何一つ事情を聞こうとせず、大丈夫、わかってますよ、と言わんばかりににっこりと微笑んでみせた。その洗練された優しさが、赤面した今の玲子にはむしろ憎らしかった。

 日が陰ってきた。

 ほとんど手を付けていないサラダが、乾燥して強ばっている。

 玲子はテーブルの上に腕組みをして、誰も口をつけないグラスを睨む。

 

 

 あなた、本当に私が好きなの、と、結婚したての頃、何度か雄一郎に尋ねた。その度に、君こそ本当に俺のことを好きで結婚したのかい、と訊き返された。当たり前じゃない、と言うと、彼はにやりと笑って何も言い返さないのだった。笑っていても、目だけは、玲子をしっかりと捉えていた。あの視線は、嫌だった。自分の何を見られていたのか────。

 

 

 夫婦喧嘩は、ほとんど無いに等しかった。たまに声高に言い合うことがあっても、すぐに終息した。限られた言葉しか使ってはいけないディベート・ゲームのようであった。子供がいないことは、どんな時でも、二人とも決して触れなかった。そのことだけは、決して開けてはいけない扉のように、そっとしたまま、互いに家庭生活という名の廊下を行き来しているのであった。

 

 

 二時は回ったろうか。

 葉の一枚もない木立ちは、よくよく見ると、間隔を置き過ぎていた。日が雲に隠れたせいで、森の奥は陰鬱な色に沈んだ。あそこを歩くのはひどく寒そうであった。死者があの世へ行く道は、ひょっとして、こんなのじゃないかしら。

 そう思うと、今にも誰かが森の奥から現れてきそうな気がした。玲子は吸い寄せられるようにじっと森を見つめた。彼女のワイングラスは、とうに空だった。

 

 

 事故の知らせを受けて大学病院の霊安室に駆けつけたとき、玲子が見せられたものは、もはや人間の塊ではなかった。運転席からぶつかっていったせいだと説明された。絵の具をチューブごと、幾つもまとめて圧し潰したような、そんな物体だった。生きている間に溜め込んだ情念や、怒りや、憎しみや、決して言葉にしてこなかった言葉を、血潮に塗り込んで一遍に吐き尽くしていた。玲子は悲鳴を上げ、すぐに係員によって部屋の外に連れ出された。

 彼女は怖かった。捉えようもなく苦しくて悲しく、どうしていいかわからなかった。しかしそれと同時に、心の片隅に、何重にも覆いを被せられた安心感が潜むのを、無視することができなかった。自分は雄一郎を愛していた。雄一郎を喪った悲しみに心が引き裂かれるほどだった。なのになぜ安心なのか何に対する安心なのか、玲子自身さっぱりわからなかった。もちろん誰にも口外できない感情であった。玲子は自分を責めた。虚脱して力が抜けたのを、安心と感じただけだと説明をつけてみた。だが、葬儀を終え、親族に挨拶し、遺品を整理した後も、どうしても自分を許せない感情が残った。

 

 

    ○      ○      ○

 

 

 ウェイターが歩み寄り、グラスワインのお代わりを尋ねようとしたが、婦人の肩が小刻みに震えているのに彼は気づいた。窓の外に顔を向け、ハンカチを口に当てているので、表情まで確かめることはできない。彼女の向かいの席には、四分の一ほど注がれたワインがそのまま残っていた。ウェイターは音を立てないように、そっと窓際のテーブルを離れた。

                                                      

                                              (終わり)

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『海』

2018年07月27日 | 短編

 日本海さま

 

 久しぶりにあなたにお会いしたくてやってきました。どうしても海が見たくなることがあるんです。

 あなたは相変わらずですね。何て言うか、広々というか、静かというか、勝手気ままというか、まるでうちの会社の上司が二日酔いしたときみたいに、憮然としておいでですね。私、あなたのそういう傍若無人なところが好きです。うちの上司は大っ嫌いですけど。器の大きさが違います。

 海に向かって手紙を書くのは、私初めてですわ。だって私、海に一人で来て、退屈ですもの。座るところがないから浜茶屋に入ったんですけど、女の一人客って珍しいらしく、随分変な目で見られてます。この人、入水自殺するんじゃないかくらいに思われているんでしょう。ま、そう思われても仕方ないし、実際しても構わないくらいの気持ちはあるんですけど。でも、こんな馬鹿みたいに明るい海岸では死ねませんわ。周りを見渡しても馬鹿面ばっかりですもの。

 私の隣にいる若者たちなんて、入れ墨を入れた腕をこんがり焼いて、まるで焼け出された仏像みたいな恰好でにやにやしてるんだから、あのままもっとこんがり焼いて炭にでもした方が誰かの役に立ちますわ。

 お昼時のせいでしょうけど、子どもたちはまた、どうしてラーメンばっかり啜ってるんでしょう。こういう浜茶屋のラーメンが美味しいわけないじゃないですか。自分の顔の倍ほどもある碗に顔を埋めて、ずるずる啜ってるけど、結局最後は残して親に叱られてるんだから、馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。

 そんな中で私一人、黙々とあなたに手紙を書いてたりするもんだから、ちょくちょく茶屋のおばさんたちが遠巻きに覗きに来たりします。ワンピースなんか着てるし、到底海で泳ぎそうにないし、これで手紙を書き終えてから波打ち際にでも歩いていけば、いよいよ警察に連絡されそうですわ。そんな風に想像するとちょっと愉快です。ほんとに入水してやろうかしら。みんな大騒ぎになるわよね。すぐ助けられそうだから、そこが難しいところだけど。

 もしここでうまく死ねたら、あの人、泣いてくれるかしら。泣かないでしょうね。今幸せなんだから。ちょっと暗い顔をしてみせて、「聡子らしい死に方だな」なんてうそぶいて、勝手に納得するんでしょうね。男なんてそんなもんよ。会社にも知らされるかしら。深田課長が聞いたら、「真面目すぎるのも困ったもんだ」って言うわね、絶対。あの人の口癖なんだから。「君は真面目すぎるからだよ。たまには飲みに付き合いなさい」って。死んだら飲みにも付き合えませんよ。私が独り身になったからって、独り身になったからって、何よ。寂しさを紛らすために飲んで好きでもない男に抱かれたりなんか、私はしませんよ。失礼よ。やだ私、風で砂が目に入ったのかしら。

 ねえ海さん、あなたって、いろんな汚いものを全部引き受けてるでしょう。川から、船から、海岸から。工場の排水とか、ゴミとか、変な死体とか、あそこでラーメン啜っている子たちが海の中でしたおしっことか。あの子たち絶対おしっこしてるわよ。そんな風にね、汚いものを毎日毎日どしどしと受け入れてるのに、どうしてあなたは、いつも平気なの。平気かどうか知らないけど、平気に見えるのはどうしてなの。

 そよ風が心地いいわ。

 さ、手もくたびれてきたし、そろそろペンを置いて、波打ち際に歩いていこうかしら。怪しまれるかな。こんな泣き腫らした目で女一人波打ち際に向かっていったら、どう考えても怪しまれるかな。でも、海さん、安心して。私ここじゃ死なない。私の穢れた体であなたを汚したりしない。ただ、ちょっとあなたに触ってみたくなったの。あんまりあなたが平然として美しいから、そういうあなたに素足を浸したくなったの。

 ねえ。海さん。

 お願いだから、私を洗って。

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ウダライ

2018年04月10日 | 短編

 

 

 太古の話である。

 ウダライは、頬骨の張った、面長の大男であった。怪力比類なく、性情醜悪にして、こと色欲に関しては見境がなかった。月の満ちた女と見れば、誰かれ構わず押し倒し、子をはらませた。彼の妻は両の指で数えきれないほどいた。

 落ち葉の敷き積もる林間で、葦の生い茂る湖畔で、満月の冷ややかに照らす断崖で、ウダライは快楽におぼれた。相手はまだ胸の膨らみ足らない少女のこともあれば、既婚の女のこともあった。ウダライに妻を寝取られた男たちは、唇を噛んで悔しがったが、力ではかなわないのでどうすることもできなかった。声なき憎しみと妬みを背に浴びながら、ウダライは女を凌辱し続けた。

 しかし彼の命運も尽きるときが来た。彼の最初の妻イメの宿した子、つまり彼の長男に当たるユクベが成長し、父に比肩するほどの大男になったのだ。ユクベがめとったネシカは、高原に咲く百合のように美しい女性であった。ウダライは、自分の息子の妻であるこの女にまで手を出した。それは春雷のとどろく真昼のことであった。ネシカの悲痛な叫び声は集落の隅々まで響き渡った。彼女は必死に抵抗し、逆上したウダライに首を絞められ、絶叫して息絶えたのであった。

 夫であるユクベは怒り狂った。それから十七日目の新月の晩、湧き水のほとりで顔を洗っていた父親は、背後から忍び寄った我が子に、樫のこん棒で百回叩きのめされて死んだ。

 歳月は過ぎた。

 ユクベは髭も伸び、亡きウダライと寸分違わぬ男になっていた。周りには何人もの妻たちがはべっていた。彼はしっかりと父親の血を受け継いだ男であったのだ。

 そんなユクベの栄華は、彼の二人の息子によって撲殺されるまで続いた。

 理由は、ユクベが部族の女を独占し、息子たちにさえ分け前を与えようとしなかったことにあった。

 大雨でできた水溜りに、誰かも判別できないほど打ち砕かれた彼の死体が転がった。

 手を下した二人の息子も、やがてまた、同じ道を歩んだ。

 こうして一族は、父親殺しを、まるでそれが習わしであるかのように繰り返した。忌まわしい歴史は、五世代続いた。

 しかしそれも途絶えるときがきた。

 五世代目のバルカは、少し知恵があった。抑えがたい憤怒に駆られ、目もくらむ日差しを浴びながら父親殺しに手を赤く染めた後で、彼は一人洞穴に引き籠り、三日三晩思い悩んだ。自分がいつの日か同じように息子に殺されることを予見し、恐れた。そして彼は一大決心をした。自分の息子たちをすべて殺してしまうことにしたのだ。自分が殺される前に先手を打つのだ。すでに狩りに参加できるほど成長していた少年も、生まれたばかりの赤子も、みなこの父親の手にかかって殺された。深い淵に投げ入れられた者もいれば、顔を分厚い手で覆われ息絶えた者もいた。狩りの最中に矢じりで突き刺された者もいれば、夕餉の準備に焚かれた火の上で焼かれた者もいた。集落にいるほとんどすべての男の子が彼の血を引いていたので、バルカは狂人のような強い意志でもって自らの決断をやり遂げなければならなかった。

 夏が過ぎ、雲が流れ、木々が幾万の葉を落とし終える頃、一帯には、悲しみに暮れる多数の女たちと、たった一人の大男がとり残された。

 こうして、遠からず、その部族は滅んだ。

 

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喉の話題

2018年01月12日 | 短編

  年明け早々喉を潰してしまった。例年にない過密スケジュールと年齢と、何より日頃の鍛練不足のせいであろう。声は多彩な表情を見せながら急速に掠れていき、ついには『ゴッド・ファーザー』のドン・コルリオーネ役のマーロン・ブランドのようになった。と、職場で子どもたちに話したが、彼らが『ゴット・ファーザー』を知るべくもなく、反応は薄かった。掠れ声はやがて果てしない咳に変わった。ことに夜、床に入ると激しい咳の一斉射撃に襲われ、『トムとジェリー』のようにぴょんぴょん飛び跳ねて眠るどころではなくなった。

 さすがに音を上げて病院に行き、抗生物質をもらって帰った。三日飲めば六日間効くという。三日飲まないと意味はなく、ということは三日経つまではそのままの状態で待っていろということなのか。ジェリーにいたずらされたトムのように毛布ごと跳びあがっている状態を三日間、我慢しなければならないのか。私はあたかも絶体絶命の窮地に追い込まれた戦国武将が三日後に到着するという援軍だけを頼みに満身創痍で前を向く、そんな悲壮感を漂わせながら残る日数をしのいだ。どうやってしのいだか、ほとんど記憶にないほどである。しかし現代の科学医療の進歩はめざましく、その抗生物質も、三回飲んだらちゃんと効力を発揮した。まさに武田軍の本隊が駆け付けたかのような勢いで悪い奴らを駆逐し、嘘のように咳が出なくなった。まったく出なくなったわけではない。

 武田軍は勢いあまり過ぎたのか、攻撃相手が案外貧弱で手持無沙汰になったのか、私の足の至る所に発疹を作った。副作用というやつであろう。大したことはないが、痒い。病院に問い合わせると、そういうときは薬を飲むのを見合わせるといいが、もう三日分飲んでしまったので仕方ないという。武田の本隊を呼ばなくても、真田軍くらいで事足りたのかも知れない。しかしせっかくならめちゃくちゃにやっつけて欲しかったので、戦勝後の多少の乱暴狼藉は大目に見たい。発疹も午後になったら退けてきた。

 さて今後の課題となる日々の鍛錬についてだが、ストレッチくらいなものでいいのではないかと、はや甘い考えを起こしている。喉元過ぎれば何とやら、である。喉元のことだけに。 

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読み切り短編 『縄文の男』

2017年12月30日 | 短編

 

 洞窟の中は、かび臭く、ひんやりして湿っぽかった。その方が土を捏ねるのには適しているのだ。入口から届く光はわずかだが、私にはそれで十分であった。腰と肩に力を入れ、何度も、何度も土を捏ね回す。キラキラと光る砂を一握り混ぜる。また捏ね回す。汗が滴り落ちる。腕が流木のように硬くなる。星の数だけ捏ね回すと、表面はモリアオガエルの卵のようにきめ細やかでつやつやとしてきた。一塊になった土を手のひらで柔らかく包む。女を愛撫するように、ゆっくりと指を動かす。そう。愛撫するようにして、女を造形するのだ。背中から、腰へ。腰が大事だ。土くれは少しずつ、あの女の形をとっていく。

 あの女。子供を十人も二十人も産めそうな、その上でなお、男からの愛の注入を喜びに悶えながら受け入れることのできそうな、豊饒な腰つき! あの悪魔のような腰つきに、今まで何人の男が狂わされてきたことか!

 親指を強く押し込んで背中を形作り、そこからふっくらと腰を仕上げていく。像を立たせたいから、脚は太く。ふくらはぎの途中で終わりだ。そこから先は必要ない。胸は? 胸は小さく。あの女はまだ若かった。赤い乳房が可愛かった。顔は・・・湖に落ちる夕焼けのように美しかった。無理だ。あの美しさを再現させることことなんてできやしない。だから顔はごく簡素に。竹ベラで細く目と口を描いて、それで終わりだ。涼しげな目元がちょっとだけあの女に似ていなくはないか。私は何をしようとしているのか。こんなものを作ることで何を叶えようとしているのか。あの女か。あの女を復活させたいのか。復活させてどうするのだ。あの女が生きている間に叶わなかった望み、つまりあの女を私の欲しいがままにしたいのか。こんな土くれの塊で?

 それとも、もう一度この手で、あの女を殺したいのか。

 何度でも、何度でも。

 

 

 外界は朝になった。

 私は土壁に凭れたまま眠っていたらしい。熊の吠えるような濁声で起こされた。

 「いったいいつまで眠っているんだい! このでくの坊! みんな狩りにでかけちゃったじゃないか!」

 目を開けて見ると、洞窟の入り口に母親が立っている。ああ、と私は嘆息する。男を三人合わせても足らないような女。いやらしさと醜さとふてぶてしさと、その他ありとあらゆる俗悪なものを詰め込んで膨らんだような女。

 「一晩戻ってこないと思ったら、またこんなところで変なものを作ってたのかい! しょうがないね、あんたは! で何だいこりゃ?」

 私は必死で手を差し伸べた。

 「母さん、お願いだ、頼むからそれを触らないで。昨日作ったからまだ乾いてないんだ。頼むから、頼むからまだ触らないで」

 「しょうがない子だね、ほんとに、あんたは。え? こんなもの作って何になるってんだい。イノシシが一頭よけいに獲れるのかい? ドングリを籠一杯分よけいに拾えるのかい? 馬鹿だね、あんたは! あんたみたいな子を産んだ私がよっぽど馬鹿だったよ!」

 「母さん、お願いだ、すぐその手を離せ!」

 彼女は息子である私の制止も聞かず、その太い手に握りしめた女の像を思い切り洞窟の壁に叩きつけた。滑稽なほど小さな音を立てて、像は無残に変形し、壁にへばりついた。昨夜私がほとんど一睡もせずに仕上げた像だ。カッとなった私は立ち上がり、母親ののどもとを突き押した。よろけて驚いた表情の彼女は、渾身の張り手を私の頬に見舞い、私は堪らず倒れた。

 「いい加減におし! 産んだ母親に向かって暴力を振るうとはどういう魂胆だい! え? もう我慢できないよ。もう我慢できないよあたしは! みんなに言いつけてやる!」

 顔を真っ赤にしてまくし立てると、彼女は大地を踏み潰すように洞窟から去っていった。

 頬の痛さと、作りかけていた立像を壊された悔しさとで、涙が溢れ出た。私はよろよろと立ちがり、壁にへばりついた土の塊を剥がし取った。塊にめり込んだ小石や汚れを摘まみ取り、板の上に置く。

 林間で猩々たちが威嚇し合うのが遠く聞こえる。

 私は再び土を捏ね始めた。

 自分でもわからない。だがどうしても、あの女を作らなければならないのだ。

 

 

 耳障りな笑い声に振り返ったら、洞窟の入り口から双子の妹たちが覗き込んでいた。

 一人が腰に手を当て、意地悪い声を出して言った。

 「何してるの? 狩りも行かないで。みんな、とうとう気が触れたって噂してるよ」

 「うるさい」

 「あたしも聞いたわ。いろーんな、いろんな噂」もう一人が身をくねらせながら近寄ってくると、私の耳元に顔を近づけ、いっそう意地悪い声で囁いた。「マヤさんを殺したのは兄さんだってね」

 全身から汗が噴き出た。私は怒鳴り声を上げた。

 「馬鹿なことを言うな! 俺が殺すわけないだろう。誰がそんなこと言ったんだ。おい、誰がそんなこと言った!」

 「みんなよ」「みんなだもんね」「泉のほとりで見つかった血の付いた石斧、あれ兄さんのものだってウダイたちは言ってるわ」「兄さん、ほんとにマヤさんを殺したの?」「あんなに惚れてたのに!」

 「出ていけ!」

 双子の妹たちは、互いに腕を絡ませて佇み、にやにやと私を見つめた。

 「あたしたちが慰めてあげてもいいのよ」「そうよ、兄さん」

 足もとに転がる石を私は掴みとると、彼女たちに向かって投げつけた。

 「出ていけ!」

 彼女たちは甲高い笑い声を響かせ、跳ねるようにして洞窟を出て行った。

 

♦    ♦    ♦

 

 ついに出来た。

 十五体のマヤの塑像が、出来た。

 夕暮れ時で洞窟に入る光は弱い。森に棲む鳥や猩々たちの喧騒がひときわ高くなる。風が冷気を帯びる。

 滑らかな輪郭を誇る十五体が、何かの儀式を待つかのように厳かに沈黙している。あとは、日が十回巡るまでこれらを乾かし、それから、野辺で焼く。そうすれば、十五体のうち何体かは完全な形で焼き上がってくれるだろう。

 異様な気配がして振り返ると、洞窟の入り口に大きな人影があった。腰まで伸びた白いあごひげ。朱と紺と黄色の鮮やかな模様が描かれた貫頭衣。老いてもなお鋭い光を失わない鷹の目。

 長老のアシカバだ。

 アシカバがここに!────私は心臓の音が聞こえるほど緊張して縮こまった。

 サルスベリの杖を突きながら、彼はゆっくりと洞窟の中に踏み入った。

 十五体の像に近寄り、じっと見つめる。

 「お前が何か奇妙なものを作っていると聞いた」

 低く太く、威厳のある声。怖くて何も言い返せない。

 「これがそうか」

 「は・・・はい」

 彼は腰を屈め、顔をさらに土人形に近づけた。

 「うむ。なるほど。お前の手は不思議な力を持っているようだ。ただの土くれが、このように生命を宿すとは」

 額から滴る汗を拭うことも出来ず、私は黙ったままである。 

 「これは女だな」

 「はい」

 「死んだ女ではないか」

 短い悲鳴を上げ、私は後ずさった。

 「そんな! そんなことはございません」

 「マヤとか言った」

 「違います! 違います!」

 鋭い二つの眼光が、私を射すくめた。

 「お前がその女を殺したと言う者が、何人もおる。お前が殺したのか」

 動転した私は、洞窟の壁に背が当たるほど退いた。私は必死に否定した。

 「そんなことはございません。そんなことはございません、間違いです! 私は殺しておりません。何も知りません。あの女とは何の、何のかかわりもありません」

 「かかわりはなくとも、人は殺せる」

 アシカバは杖を音高く突き、私に迫った。

 「もしお前がその女を殺したなら、掟に従い、お前は串刺しの上、焼き殺されねばならん」

 涙で顔をぼろぼろにしながら、私は首を振った。

 「私は殺しておりません。信じてください長老アシカバ。私は、何と申し上げたらいいか、何とも不思議な気持ちに突き動かされてこれらの土人形を作りました。それだけでございます。ああ、私にはわかりません。何が何だか、これは決してマヤではありません!」

 「お前が殺したな」

 「どうか! アシカバ様、どうか、せめてこれらが焼き上がるまで、どうか、それまでお待ちください!」

 長老は私から目を外し、土人形を再び見やった。

 「あれらは、焼いて、仕上がるのか」

 「はい」

 長老は沈黙した。長い沈黙であった。それから、「うむ」と唸ると、杖を突き、私に背中を向けた。

 「仕上げよ」

 「は・・・」 

 「仕上がるまで、お前の処分は待つ」

 私は床に震える額を擦りつけ、杖の音が消えるまで顔を上げることができなかった。

 

♦    ♦    ♦

 

 炎が野辺に揺らめく。

 

 

 マヤは美しく、傲慢な女だった。

 清水の湧き出る森の奥で、私と彼女は口論になった。

 マヤは緋色の刺繍を施した貫頭衣を纏い、長い髪を後ろで束ね、美しく上気していた。

 大事な用があると言って山奥まで連れ込んだ私に、彼女は腹を立てていた。私に対する思いなど朝露一滴分もないことはわかっていたが、私は懸命に、彼女を愛していることを告げた。彼女は私を嘲笑った。私はかつて、彼女が自分の気を引くような真似をしたことを責めた。それに対する彼女の返事は、確かに私をからかってみたこともあったが、それは単なる気まぐれであり、そんな気まぐれを起こしたのも、ウダイがその頃自分に冷たかったからだと説明した。私はカッとなった。では私を心から愛したことは一度もないのかと尋ねると、あんたみたいな、干からびたイモリみたいな男を愛せるわけないでしょ、と彼女は吐き捨てるように答えた。私は力づくで彼女を抱き寄せ、そのふくよかな臀部を愛撫しようとした。彼女は私の頬を二、三度手のひらで叩いて、私を突き倒した。そして、二度とこんな真似をすると、ウダイに言いつけてやると脅した。

 私は泉に手を浸し、水の滴る石斧を取り出した。聖なる泉に三日三晩浸され続けた、人間の頭ほどもあるズシリと重い石斧だ。

 それを見つめるマヤの顔が初めて蒼白になった。

 

 

 炎は勢いを増す。積み上がった木切れがぱちぱちと音を立てる。

 煙のすえた臭い。

 炎の中には、十五体のあの女が眠っている。

 

 

 美しい体。あの美しい背中から臀部にかけた曲線を、この手で作りたい、と願った。あの女でなくてもよかったのかも知れない。あの女を超える、完全に美しい肉体を作り、慰められたいと思った。あるいは、復讐したいと。復讐? 何に対する。美しいものに対する────それが復讐だとすれば、この不可解な衝動は、何なのか。私だけが持つものなのか。こういう衝動を持つ人間は、私の他にもいて、今後も次々と生まれいずるものなのか。なんだか、そんな気がする。人間は、つくづく愚かなものだ。だがいつまでも愚かなままでいるわけでもあるまい。ずっと歳月を経た先、今の我々よりずっと賢くなった人間が、その答えを見出すかもしれない。その頃には、こういったものを、もっともっと美しく作り出せる人間が増えているのかも知れない。

 私は、だとすれば、早く生まれ過ぎたのだ。

 

 

 周囲の森に、遠巻きにして、今火を焚いている私をじっと盗み見る目がいくつもあるのを、私は知っていた。私をなぶり殺そうと待ち望んでいる目だ。だが、そんなことはもう、どうでもいい。私はただ、火にかかる十五体のうち一体でも美しく完成してくれれば、それでいいのだ。

 聞いているのか、マヤ。

 

 私はお前を殺した。お前があまりに美しく、自分があまりにみじめなために、私は我を忘れ、石斧を振り上げた。そしてそのあと、身が裂けるほどの後悔に襲われた。

 今私は、お前をもう一度この世に在らしめようとしている。いやそれとも、弄び、打ち殺そうとしているのか。私にはわからない。自分の衝動の行きつく先がわからない。未来の人間たちにとっては、そんなことはわかりきったことなのだろうか?

 マヤ。教えてくれ。 

 美しいものを求めるこの願望は、果たして美しいのか? 

 

 日は傾いた。

 土偶は焼き上がった。

 十五体のうち三体はひび割れた。ひびが入らなくても、醜く仕上がったものも多かった。ただ一つ、はっとするほど美しい仕上がりのものがあった。瑞々しい光沢。完璧な曲線。内臓も骨も美しさも醜さも何もかも納めてなおかつ命の輝きを放つ豊満な体つき。それはまさしくマヤであり、マヤではなかった。それを何と名付けてよいか、私にはわからなかった。

 草原の周囲に潜む大勢の人間たちも、息をひそめながら、興奮してこちらを見守っているのに、私は気づいていた。そこには長老アシカバも、狂った双子の妹たちも、ウダイも、母親もいる。ほとんどみんながこの野辺に集まっているのが気配でわかった。

 奴らは、すぐにでも、私が何を作ったのか確かめようとするだろう。それを自分たちの目で確かめてから、ようやく長老の許しを得て、マヤを殺した罪で私を縛り上げ、思う存分串刺しにし、焼き殺すだろう。私はもういい。作り上げたかったものは作り上げた。死を前にして、また何という満ち足りた気持ちかと、自分でも不思議に思うほどであった。

 奴らが私の作った土偶をどうするか、それが気になるといえば気になった。忌まわしいものとして、破壊するであろうか。あるいは、これだけよく出来たのだ。長老アシカバが神々の徴をそこに認め、似たものを作るよう他の者たちに指示するかもしれない。それを祭祀の道具として利用していくかもしれない。何しろ、自分でも背筋がぞっとするほどの出来なのだ。この手が自分が作ったものとは、到底思えない。偶然か、それとも、殺された女の仕業か。

 人間は今後、こういったものを作り続けていく運命にあるのかも知れない。

 草原が疾風にそよいだ。

 長槍を持った男が数名、立ちあがった。いよいよ私を捕えるつもりだ。私は最もよく出来たその土偶を慎重に両腕に抱いた。奴らが私に手をかける前に大地に叩きつけ、打ち砕くためだ。なんだか急に、そうしようという気になったのだ。

 猩々がひときわ高く啼いた。

 最初からそうするつもりだったのだと、ようやく私は悟った。

 

 

 

 

 

(おわり)

 

 

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