た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

草むしり男

2016年06月30日 | essay

   草むしりする男に出会った。

   車を走らせていたら、シャッターの降りている小さな土建関係の会社の前の駐車場で、スーツ姿に小さなリュックを背負った五十代くらいの痩せた男性が、アスファルトの割れ目に生えた草を懸命にむしっていた。土建会社の社長かな、と私は想像した。こんな暑い日に、しかもおそらく会社の休日に草むしりなんて感心である。よっぽど会社を愛しているのだろう、などと思いながら通り過ぎたが、小さな背中のリュックが妙に気になった。社長ならリュックを背負う必要はないし、第一実用的なものは何も入りそうにないほど小さなリュックだったのだ。

   用事を済ませて帰路、同じ道を反対方向に走らせていると、また彼に出会った。しかし今度は場所が違う。三軒くらい離れた、ピアノスクールの前の大きな駐車場の、やっぱりアスファルトの隙間から顔を出した草をむしっているのだ。

   ここに至り、私は彼が、土建会社の社長でもなんでもなく、単に草むしりが好きな男だということに気づいた。いや好きかどうかはわからない。格別楽しそうな表情もしていない。とにかく、憑かれたようにどこに行ってもむしりたくなるのだ。それも、アスファルトからわずかに顔を出している、非常にむしりにくい草ばかりを。

   きちんとしたスーツを着て、小さなリュックを背中に背負って。

   私は愕然となって、思わずハンドルを切り損ねそうになった。私が用事を済ませるのに半時以上かかったから、あの男は小一時間草をむしり続けていることになる。彼は毎日あんなことをやっているのだろうか。思い付きで今日だけやっているのだろうか。何かとても辛いことがあって、いやそれとも常人には計り知れないほどの崇高な思想があって、ああいうことをやっているのだろうか。

   いずれにせよ、非難されるべきことではない。もちろん、非難されるべきではない。草むしりは人間社会にとって有益な仕事なのだ。彼は尊敬に値するではないか。いやいや、それとも。彼は長年、地球環境問題に頭を悩まし、これ以上人類が緑を伐採することに憤りを覚え、怒りのあまり気がふれて、いっそのこと人類に緑はいらない、こうなったらすべての緑を根絶やしにしてやろう、などと決意したのだろうか。

   いろいろ想像を膨らませる出会いであった。もう一度どこかで会いたいと思う。

 

 

 

 

 

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災厄日

2016年06月27日 | essay

 悪いことは重なるもので、まず自宅の排水管が詰まった。休日の朝早々にその対応に追われた。排水栓を調べるためにしゃがんでいた体勢から起き上がった時、開き窓の窓枠で頭を打った。

 実は、その窓枠には五分ほど前にすでに軽く頭をぶつけていたのだ。自分は本当に間抜けな男だな、生まれてこの方頭をぶつけてばかりいるじゃないか、窓を閉めておいた方がいいのかな、だがさすがに自分も今度は注意するだろう、云々、云々とひとしきり反省して用心していたのに、排水栓を覗き込んでいるうちにすっかりそのことを忘れ、よいしょと起き上がり、再び頭を打ったのである。しかも今回は勢いがあったのか、大した痛みがなかった割に血が出た。その時通りがかりの人が見たらキャーッと叫び声を上げたであろうほどに血が出た。幸い通行人はいなかった。両手を排水栓の清掃で汚し、顔面に血を垂れ流している私は、さぞゾンビのようであったろう。

 排水管のつまりは、「ピーピースルー」という、ちょっと下痢的貫通を連想させる薬品を撒いて水を流した。しばらく変化がなかったが、数時間のちにボコボコ言ったあと、劇的貫通を果たした。

 頭の血も水で洗い流せば止まった。

 懸案だった排水管のつまりが取れたので、鼻歌気分で近所の温泉に歩いていった(つまりが取れたとは言え、すぐに自宅の風呂を使うのは気が引けたからである)。星がきれいであった。平和な休日だと思った。自分も平和な人間だと思った。 

  

  

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日曜哲学

2016年06月19日 | essay

   「神、ねえ・・・」

   語りにくいものについて語ることが、重要なのではないかと最近思うようになった。ヴィトゲンシュタインという哲学者は語りえないものについては沈黙しなければならない、と語ったとか聞くが、ここはあえてヴィトゲンシュタイン先生に逆らうわけである。

   「・・・存在か・・・」

   とはいえ立派に語れる頭も口も備えているわけではない。聞き手に過不足なく伝わったと確信できた瞬間があるわけでもない。いつも言葉足らずであり、しかも言葉にするほどの思考も足らない。明晰に脳中に確立した考えを語るのではなく、語りながらようよう拙いなりに考えを構築していく。語られたものは、正解ではないにしても、作品である。真実ではないにしても、経験である。言葉にして体の外に放出し、それを少なくとも一人の他人が受け取ったという点において、最小限の客観性を帯びた具象である。

   語ることは一種の建設的行為である。語りえないものについて語ることは、挑戦である。

   「・・・存在しなくても、ある、とかね」

   いかんいかん、酒のせいで、ちょっと語り過ぎたか。

   「語り過ぎたね。早く風呂に入りなよ」

   「はーい」

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山・人・自分

2016年06月16日 | essay

   山を動かすのは難しいが、人を動かすのはもっと難しい。ようやっと動かしたと思っても、ふらりとまた元に戻ってきたりする。こちらの思惑とは違う方向に行かれたりもする。動いた動いたと本人が言い張るが、実は一向に動いていないこともある。

   人を動かすのは難しいが、自分を動かすのはもっと難しい。他人の背中は押せても、自分で自分の背中は押せないからである。それはとても面倒くさいことだからである。世の中を動かすのは大変だが、世の中を動かそうと自分をちょっとでも動かしてみることが実は一番難しい。

   雨降りの日に窓を眺めながらそんなことを考えた。

 

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火炎少女ヒロコ 第四話(草稿) ~4~

2016年06月09日 | 連続物語

   ときどき、思い出したように、彼らは静かな接吻を交わした。

 

 「トマトとオリーブ、だったね」

 「ありがとう」

 ヒロコは買い物袋を受け取った。

 「街の様子はどう?」

 「街? 別に」

   「そう」

   「そうだね。あまり・・・みんな、不景気だ、不景気だって言ってる。平和なだけじゃ物足りないらしい」

   「わあ、イチゴも買ってくれたんだ」

   「安かったから」

 キッチンはガスコンロ一台に小さなシンクだけという手狭さである。ヒロコは買ってもらった物を小さな冷蔵庫の中に入れ、上に置き、それでも収まりきらない物は床の上に丁寧に積み重ねた。

 彼女は玉ねぎをみじん切りしながら、ユウスケに背中を向けたままなるべくさり気ない口振りで訊いた。

 「私を探している人たちは?」

 「ええと、そうだね。まだうろうろしているよ」

 「あ、そう」

 「鍋に湯を沸かせばいいんだね」

 「塩を一つまみ入れて」

 「うん」

 五分ほど、彼らは自分の分担である仕事に集中した。沈黙を破ったのは、ヒロコのいらいらした声だった。

 「私を捕まえて、どうしようというのかしら」

 「え? あ・・・ああ、連中か。湯が沸きあがったよ」

 「中火にしておいて。ねえ、どうなの。私を捕まえて、殺す気かしら」

 ユウスケはコンロから顔を上げた。

 「そんなことはさせやしない」

 「殺す気よね」

 「わからない」

 「殺さなくちゃいけない存在だもの」

 「ヒロコさん」

 「あなたは───あなたは、私を殺したくならないの」

 ヒステリーの症状の表れ始めたヒロコの腕を、ユウスケは嘆息してつかんだ。

 「何言ってるんだ。ヒロコさん。そんなこと、考えてもいけない」

 「だって、だって私、あなたをこんな顔にして。こんな姿に・・・私、私、あなたを殺そうとした」

 ユウスケはヒロコの体を支えながらコンロのガスを切り、震えるヒロコをなだめる様に畳の上に座らせた。

   天井から下がる蛍光灯の紐が揺れる。

   ヒロコのこめかみには筋が浮き立っている。口元は引き攣り、目は病的に潤んでいる。

   「シリアでも何人も殺してきたわ。何人も・・・数えきれないくらいよ。日本でも殺した。人殺しよ私。どうして? どうしてそんな私が生きていられるの?」

   「ヒロコさん。そんなこと考えちゃいけない」

   「殺してよ!」                                                      

   「ヒロコさん」 

   「・・・ごめんなさい・・・私・・・でも、もう何だか、嫌なの。こんな風に、隠れながら一生過ごすのなんて」

   か細く悲痛な声である。

   ユウスケは荒い息をつき、掴んでいた手を緩めた。それから考え深そうに、ヒロコを見つめた。

  「実は、話そうと思っていたことがあるんだ」

(つづく)

 

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藍染

2016年06月06日 | essay

 初めての喫茶店に飛び込んでみたら、民芸調の棚に藍染(あいぞめ)の作品が幾つか並べられていた。決して派手ではない。しっとりと心を落ち着かせる色合いである。訊けば、この街に唯一残った藍染職人の腕によるもので、その人が亡くなれば途絶えてしまう技術だという。

 その技術がまた壮絶で、染料を一定の温度に保つため、染料の入った甕(かめ)の横で寝起きするとか。とにかく休めない仕事だという。後継者が育たないわけである。

 その上、合成顔料を使用したインディゴブルーの席巻が、藍染の衰退に拍車をかけた。両者は色合いとしては似通っているが、藍染は天然素材だから使ううちに色褪せてくる。一方合成インディゴブルーで染め抜いた生地は、いつまで経っても色落ちない。

 「この色落ちしてきた風合いが藍染の魅力なんですがね」と白髭の店長。「それを魅力と思わない人にとっては、藍染なんて、と思うでしょうね」

 話を聞くうちに興味を覚え、コースターを一つ買い求める。少々高めだったが、やがて無くなる技術と思うと相応の値段であろう。ちょうど、職場で茶を飲むときの敷物に困っていたところだった。私も吝嗇(りんしょく)だから、今までは反故紙などを適当に畳んで敷いて使っていた。

 翌日出勤して、早速茶を淹れ、湯呑みを置いてみる。何ともこれがしっくりくる。藍染の柄は決して主張しない。それが湯呑みの釉(うわぐすり)の艶を引き立てる。反故紙などよりはよっぽどいい。

 たかだかコースター一枚だが、おかげで随分豊かな心持ちになった。

 

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