た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

亡き友に捧ぐ

2004年11月30日 | 写真とことば
冗談じゃないよ、弥生、冗談じゃない。
  君は今も私の目の前に
     ここに
    こうしているというのに。
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五反田の麻婆豆腐

2004年11月27日 | 食べ物
 麻婆豆腐の本当に辛いのを食べさせる店がある。五反田の駅前に堂々とある。一口食べると唐辛子の味噌か何か得体の知れない黒くざりざりしたものが舌を強烈に刺激する。もう耐えられない、と思う。水を一杯口に含み、また麻婆豆腐を一匙掬う。この辛さは冗談か、レシピで何かとんでもない間違いを犯したのではないかと疑う。水を口に含み、額の汗を拭き、また麻婆豆腐に匙を入れる。さすがに体に悪いのではないか、口から火を噴くのではないか、もう既に体のどこか背中の方から棘が生えてきてはいないか、済みません水のお変わりをお願いします。こうしていろんな内心の葛藤を覚えながら、結局全部食べてしまう。
 店を出て電車に乗り、吊革広告にうつろな目を向ける頃、ひょっとしてあの辛さには奥深いものがあったのではないかと思うようになる。そうして一週間後、また五反田の駅に降りて、かの店の自動ドアの前に、やや戸惑い気味に立つ自分を発見するのである。
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貴女へ

2004年11月21日 | 写真とことば
もし 赤い夜に

  黒い涙を流したならば

 貴女よ 明日は 白い雨が降る  
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三崎港の金目鯛

2004年11月21日 | 食べ物
 神奈川県は三崎港に、金目鯛を大変美味く食わせてくれるところがある。ついうっかりしたことに店の名前は忘れた。繁華な通りを外れたところに、人の度胸を試すようにして狭い階段を昇った二階の狭い間口でやっている。しかし金目鯛の丼は抜群に美味い。濃厚な甘ダレが活きのいい金目鯛のこりこりした歯ごたえと絡まって、もう何でもいいからどんどん掻き込みなさい、と空腹の旅人の興奮を煽る。
 魚の臭みも包丁の金臭さも一切無く、客よりは水戸黄門の名場面に気を取られてしまうものぐさ店主の腕にかかったものにしては、やけに見事である。まああの一見ものぐさな風が元漁師らしい朴訥な職人気質を表しているのだろう。店は昼間に行けば、口やかましいパートのおばちゃんにやれこの店がテレビに出たのだの今度も出るのだの聞かされて少々閉口するが、夕方ならどうやら主人一人であり随分落ち着く。
 しかし返す返すも口惜しいことに店の名前を覚えていない。三崎港は夕日がまぶしく、その店は中心地から少し夕日に向かって歩いたところにある。
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この街では

2004年11月12日 | Weblog
 この街ではつねに人々に自分が試されている気がする。誰もが誰もを試したがっている。全幅の信頼や安心はそこには介在しない。今日手を取り合った友に、明日には奥歯を剥き出しにされて唾を吐きかけられてもおかしくないのだ。友の態度は私の能力いかんである。能力のない者は決して認められない。人間を歯車にまで貶めると必然的に導かれるであろうこの帰結が、この街のあらゆる建物の中に柱の芯まで染み渡っている。
 あいつはどれだけ使えるやつか。人々は眼を細めて私を始終観察する。私もまた、この街に来て一年有余、そういう眼で周囲を観察し、そういう眼でしか人と接することのできなくなった自分に気づかされる。試されたら、試し返せ。
 この街では、存在それ自体は、烏のつついたごみ袋ほどにも価値のあるものではない。能力なのだ。能力という当たり前のような捉えどころのないような評価基準がすべてなのだ。
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休日も働いてしまった

2004年11月07日 | Weblog
 休日も働いてしまったその夕べ、まだ働きつづけている板前さんにお疲れ様ですと微笑まれるのはなんとも複雑な気分である。神もお上もないと、なんと幸せは相対的になってしまうのだろうと思う。資本主義というのはともかくも、どれだけ働いたら加減がいいのか誰も教えてくれない世界である。
 私は今日頑張ったと思う。疲れたと思う。しかしそんなことは、一時代前は誰も自分には言い聞かせたりしなかったのかも知れない。そうしないと不安に襲われるなんてこともなかったのかも知れない。
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女人。サンプルC

2004年11月05日 | 習作:市民
 霧のような雨の降る日に公園のベンチに猫がうずくまっていた。もう五年も前のことである。多くの友人に恵まれながらも、一人の美しい異性に恵まれなかった当時の私は、ひどい寂寥感を抱えて傘を差し、その公園を通りがかった。黄土色の毛を汚く濡らした猫と眼が合った瞬間の、えも言えぬ胸騒ぎを私は忘れない。猫ごとき獣(と私は従来から動物を低く見る癖があった)が、故意に雨に全身を濡らすという、ある意味で極めて人間的な叙情を見せたこと、加えてかの猫の私を見つめる眼が、とても、───なんとも表現しがたいが───とても、「人間的」だったこと。今思っても、あの猫はあのとき、あまりにも獣離れした雰囲気を漂わせていた。私を待っていたとしか思えなかった。五年もの間、あの刹那的な光景を、私はその極めて凡庸な内容にも関わらず、完全に頭から消し去ることができなかった。

 この夏、小劇場の薄暗い客席で空席一つ隔てて隣り合わせに座った女性は、私にあの霧雨の日の猫を思い出させた。そうだ、あのときの仔猫のようだ、と私は心につぶやいたものだ。劇場は狭い階段を降りた地下にあった。微調整の効かないクーラーがまばらな客席をさらに寒いものにしていた。舞台は犯罪と言えるほど面白くなかった。若い男の役者は面白いことを言おうとするたびにとちった。女の役者は声が甲高くて聞き取りにくかった。そしてクーラーは殺人的に私の背中を冷やした。一つ向こうの席に彼女が座っていなかったら、私は本当に立ち上がって帰っていたかもしれない。
 私はちらちらと彼女を観察した。やや不健康な長い鬢が、痩せた頬に絡み付いていた。前髪も少し乱れていた。濡れそぼちた感が、その横顔にはあった。だからあの猫と連想が結びついたのであろう。白い肩と鎖骨の覗く薄緑色のスリーブレス一枚では、彼女はひょっとして凍えているんじゃないだろうか、と私は訝った。あれだけ両腕をきつく組んでいるのだから、しかし体を硬くして舞台を見つめる彼女は、実際には、ただ単に演劇に集中していたのであろう。それにしても詰まらない舞台であった。他愛もない日常の他愛もない虚無感が演じられていた。彼女の落ち窪んだ目がじっと見つめる先は、もっとドラマチックな現実があるはずだ。あるいは涙も乾くほど、遠い昔の追憶か。
 彼女はゆっくりと目を閉じた。スポットライトを浴びた舞台では、赤いネクタイを斜めに締めた三枚目の役者が、大きく膨らんだごみ袋に寄りかかりながら叫んでいた。

 「明日がもしその先で昨日につながっていたとしたら。希望がすでに絶望を終着点としていたとしたら。ごみ収集日前のごみ袋のように瀬戸際まで膨らんだぼくのこの孤独は、いったい誰が引き取ってくれるんだろう?・・・・・」

 
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