はじめた人だけ、おえることができる。
おえた人だけ、またはじめることができる。
※写真は鍬ノ峰の山麓にて
祭りが地上から次々と姿を消している。
安全と無駄と予防効果の名において。
「だって祭りがなくても人間は生きていけるさ!」───
───それは本当か?
人間は太古
祈り、祭ることを始めたとき
まさに人間らしく進歩を遂げたのではないのか?
人間は将来
AIにすべての活動を奪われたとき
祝祭だけが自分たちの手元に残るのではないのか?
人間は今現在も
悲しみと苦しみの渦中にあって
ハレやかな日を夢見、それでようやく暮らしていけるのではないのか?
※写真は仏岩
信州最北端秋山郷には、天明の大飢饉の折全滅した村の跡があるという。入植最初期の村であり、秋山郷の地名の由来ともなっている。そこに辿り着くには、ずいぶん道に迷い、人に尋ねた。ほとんど標識というものがない。訪れる人も稀なのだろう。狭い林道を下り、舗装が無くなり、いよいよ枯れ枝の積み重なる悪路となったので、車を乗り捨て、歩いた。
小雨が肩を濡らす中、四半時ほど歩き、ようやく跡地らしき場所に出た。神社も立たないほどの狭い空き地に、全滅した八軒の村人たちの霊を弔う石碑が並んでいた。
食が尽き、万策尽き、孤立無援の中、ただただ死を迎えざるを得なくなったとき。彼らは何を思い、この地に留まったのだろうか。
何を思い、終日、この奥深き谷間を眺め下ろしたろうか。
そして、今は。
今の世の 終はり見んとて 無縁塚
何度か手を合わせ、本降りになる前に、そこを去った。