た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

彦根城!

2017年05月29日 | essay

 所用で大阪へ。松本から往復十時間、車の日帰りはなかなか体にこたえる。行けども行けども防音壁に覆われた変わり映えのない風景を走っていると、タイムマシンに乗せられたような、時間と空間の感覚を失ったような、妙な気分になる。こういうときに油断が生じて事故を起こすのだと慌ててハンドルを握り締める。しばらくするとまた意識が遠のく。その繰り返しだが、さすがにただ行って帰るだけでは詰まらないし、同乗者も詰まらないと不平を言うので、仕方なく、帰路、彦根に立ち寄る。

 彦根についてあらかじめ下調べをしていたわけではなかった。彦根インターチェンジを降りれば、そこには彦根城があるだろうくらいの場当たり的な寄り道であった。すでに夕刻。日は低い。仮に城に辿り着けたとしても、果たして中に入れるかどうかすら怪しかった。

 だが観光客の消えた彦根城は、雄大かつ荘厳な遺跡となって、我々を迎え入れてくれた。大名一行が通れそうなほど幅広の石畳。徳川幕府に歯向かおうとする者の心を挫くに余りある幾重もの頑丈な城壁。夕日を浴びて燦然と輝く白壁。そして、城の背後に広大なスケールで横たわる、靄の立ちこめた幽玄なる琵琶湖。

 それは言葉を失う美しさであった。我々は圧倒された。ひこにゃんには会えなかったが、そんなことはどうでもよかった。

 時を告げる鐘の音が、城中から眼下に広がる街並みへ、低く、長く、鳴り響く。

 我々は城を後にし、現実に戻るために車に乗りこんだ。

 深夜に松本着。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不定期連載 『街よ、踊れ!』 ~3~

2017年05月20日 | 連続物語

 

♦    ♦    ♦

 

 ハンチング帽と私は、その日三軒の飲み屋をはしごした。彼曰く、街のことを知るには飲み屋を回るのが一番だそうだ。

 一軒目は『オールド・ロック』という名の、洋風居酒屋であった。酒樽に板を張った、やたら背の高い丸テーブルでビールを飲んだ。ハンチングは自分の名前を本田博と名乗った。私は古屋和彦だと自分の名を告げた。

 「島根っていやあどんな所だ」

 店内でもハンチングを被ったままの本田博は、ときどき通りかかる女性店員の尻をちらちら見ながらも私に話を振ってきた。

 「何もない。何もないのがいい所だ」

 そう言って私はギネスを舐めた。ギネスは舐めるようにしか飲めない黒ビールである。こんなに飲みにくいビールが世の中にあるとは知らなかった。

 「そうか。松本も城以外には何もないけどな」

 「山があるじゃないか」

 「城と山か。ふん、十分だな」

 店の扉が開き、四人連れが入ってきた。一人は背の高い白人である。取り巻きの日本人が必死に何か説明している。白人はいちいち頷き返しているが、パブのことなら自分の方がよく知っているとでも内心思っているかも知れない。

 よそ者とはっきりわかる顔をしていれば、街はつねに温かい。

 私は本田博の方に向き直った。

 「君は何をしてるんだ、ふだんは」

 「俺か?」彼はハンチングに親指を当て、まるで褒められたかのように得意げにふんぞり返った。「俺はこの街で、小粋でお洒落なフレンチレストラン、を、これから開店しようと準備しているところだ」

 「これから?」

 「ああこれから。松本の人間は田舎者だからな、古くて大きな構えの店ほど美味しい料理が食べられると勘違いしている。新しくて小さな店でも、手ごろな値段でびっくりするほど旨いものが食えるってことをわからせてやるんだ。今は上高地のレストランで修行の身だ。だがいい人材が見つかり次第、独立するつもりだ」

 「ふうん。夢があるな。いい人材は見つかりそうか」

 「今見つけた」

 私はギネスの泡にむせた。「意味がよくわからんが」

 「俺の持論だが」本田博はテーブルを指でコツコツと叩き、たった一人しかいない聴衆である私の注意を促した。「給仕をする人間ってのは、世の中で一番難しい仕事をする連中だ。押しが強くちゃ駄目だ。俺みたいなのは、だから駄目だ。自己主張が強いと、客はうんざりする。下手したら喧嘩になる。高い金払って食べに来てるんだから、あくまでも主役は彼らだ。そうだろ? 舞台はテーブル上の、客たちの笑顔であり会話だ。まかり間違っても厨房やフロアにはない。ここんとこを勘違いしている店が多すぎる」

 彼はハンチングを脱いだ。天井の照明が反射するほどの見事な禿げ頭だった。

 「松本って街は城下町のせいか、昔っから殿様商売が多いんだ。食べさせてやるからありがたく思え、くらいの高飛車な店がごろごろしている。その癖グラス一つ満足に磨いてないような、ろくでもねえ店が多いんだ。田舎なんだよ、結局」

 彼は再びハンチングを深く被り、にやりと笑った。

 「ウェイターってのは、客のそばに立ってても存在感を消せるくらいの人間じゃなくちゃ務まらない。かと言って、突っ立ってるだけじゃもちろん駄目だ。常に細心の注意で、すべてのことに気を配ってなくちゃいけない。客が何を欲しているか、グラスにワインは適量入っているか、テーブルクロスに染みはないか、客はそもそもこの滞在時間を楽しんでいるか。アンテナを四方八方に張り巡らせながら、しかもそれを客側に気付かれないようにしなきゃいけない。ハイレベルのさりげなさが必要なんだ。一見馬鹿みたいに単純素朴に見えながら、頭ン中はフル回転していろんなことを同時に考えてなきゃいけない。ところでお前さんは」

 彼は太い指で私を指さした。「頭ン中の方はまだわからんが、少なくともスジはある。俺にはわかる。俺は料理人だ。言っとくが、かなりの腕前の料理人だよ。自分で言うのも何だが。どうした、どんどん飲め。旅してりゃどうせ金がなかろう。俺のおごりだ、遠慮するな・・・おい、あの娘・・・見えるか、あの娘だよ・・・いい体つきしてるなあ。ああいう娘に給仕してもらうのもいいな・・・いやいや。俺のレストランはキャバクラとは違うんだ。俺はフレンチレストランを開きたいんだ。キャバクラじゃねえんだ。なあ、俺は自分のことをよおくわかっているつもりだ。俺は料理が得意だ。だが我が強いから、接客は正直苦手だ。けどな。俺の料理をきちんと出してくれるウェイターを見つける目は、持っている。お前さんは、俺が探していた男だ。今は薄汚い恰好だが、いったん小奇麗な制服を着せてみろ。ツボにはまるのが、俺にはちゃあんとわかるんだ」

 私は深々と嘆息してから、ギネスに口をつけた。彼の言葉の端々に散りばめられた率直なまでの暴言に、辟易するというより唖然としたが、何しろ彼がどこまで本気でどこまで冗談なのか、その真意がわからない。よって一言だけ返すにとどめた。

 「俺は旅人だよ」

 彼は大口を開けて笑いながら私の肩を叩いた。

 「そんなこたあ百も承知だ! 馬鹿だなあお前は。だからお前が気にいったんだ。おい、飲みが足らんぞ! 島根県人はそんなにちびちび飲むのか? 早く飲め、次に行くぞ次に!」

 

(つづく) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不定期連載 『街よ、踊れ!』 ~2~

2017年05月12日 | 連続物語

 

♦     ♦     ♦

 

 人間はいろいろな切り口で二種類に分けられる。男と女。大人と子供。都会が好きな人と、田舎が好きな人。酒をたしなむ人とたしなまない人。読売ジャイアンツに好意的な人と、そうでない人。数え挙げればきりがない。その中で意外と重要だと私が思っているのは、次の類別である。

 他人にちょっかいを出したがる人と、他人からちょっかいを出されやすい人。

 本田ヒロシは、まさに他人にちょっかいを出すのを生きがいとするタイプの男であった。頬骨がふっくらと脂肪を乗せて小高く、顎もしゃくれているので、ハンチング帽がよく似合う。いかにもいたずら好きな顔つきである。背丈がありなかなか立派な体格をしているが、鍛え込んだ感はない。微笑みには茶目っ気があった。

 ちなみに私は、細長いばかりで取り立てて特徴のない顔立ちである。幼稚園児に人の顔を描かせたら、大体こうなるだろうという感じである。癖もなければ主張もない。どちらかというと、他人からちょっかいを出され易いタイプの人間なのかも知れない。

 晴天に城が映える。

 観光客が堀に浮かぶ白鳥に奇声を上げる。白鳥は人間どもに濁声を返す。水面下では、やかましい俗世を馬鹿にした大鯉が悠然と泳ぐ。

 ハンチング帽の男は、腕を組んでにやにやしながら私に話しかけてきた。

 「おい、大丈夫か」

 自分のことを言われていると気付くのに、時間がかかった。 

 「あ・・・大丈夫です」

 「お堀にでも飛び込んで自殺しそうな感じだが」

 私は脚を組んだ。相手をよく見ると、自分とそう年齢が違うようにも思えない。失礼な奴である。

 「馬鹿馬鹿しい」

 「どっから」

 「え?」

 「どっから来た」

 私は背中を掻いた。五日ばかり風呂に入ってないから、痒いのである。

 「島根」

 「島根? へえ。そりゃまた遠くから」

 「どうも」

 ハンチング帽は地面の砂を蹴ったり、私の傍らの薄汚いリュックを覗いたり、眩しそうに空を見上げたりしている。なかなかそこを立ち去ろうとしない。

 「旅行かい」

 私は頷いた。

 「目的地は? どこまで行くんだ」

 「陸が途切れたら、引き返す」

 とっておいたような笑みを、ハンチングが浮かべた。

 「本州なんてすぐ途切れるぞ」

 「青函トンネルを使えば、北海道まで行ける」

 「海にぶち当たって、引き返して、そういう旅かい」

 「旅の目的は、その間に決める」

 「おもしれえことを言うやつだな」

 彼は断りもなく私の隣に座った。

 峠越えを強行した後の疲労感と、久しぶりに人と話す高揚感と、中央高地特有のちくちくするような強い日差しとで、私はわけもなく自分が快活になって来るのを感じた。だいたいこのうるさいお節介野郎は何者なのだ。喧嘩を売っているのか。それとも相当な暇人か。信州人は閉鎖的だと話に聞いていたが、全然違うではないか。

 お節介野郎はしゃくれた顎をかき毟りながら、行き交う観光客の腰の辺りを呆然と眺めた。若い女性が通り過ぎたときには、その腰をしばらく目で追った。

 「松本には、また何で」

 思わず私は笑った。それから、首に巻いていた汗まみれのバンダナをむしり取った。

 「この街には、何があるんだ」

 

(つづく) 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不定期連載 『街よ、踊れ!』 ~1~

2017年05月07日 | 連続物語

 かつて私は、なるべく他人との接触を避けて生きたいと思った時期がある。もともと神経質な性分であったが、高校生のときにそのピークを迎えた。ヘッセの小説に出てくる少年のように賢いがゆえに傷つきやすく、尾崎豊の歌のように孤高であるがゆえに切なく、ニーチェや道元のように悟りを開く必要があるから、自分はさっさと山にでも籠って世捨て人として生涯を終えよう、と半ば本気で望んでいたふしがある。種田山頭火が青い山を独り分け入っていくテレビドラマを観て、妙に感動し、とりあえず行脚のための杖を手に入れようと家の裏庭を探してみたのを覚えている。

 一方で、寂しいのは人並みにいつでも寂しかった。人との交わりを避ければ避けるほど、胃袋をねじられるような喪失感に苦しんだ。友だちが欲しかった。恋人はもちろんそれ以上に欲しかった。とびきり素敵な女性と、腕を組んで、枯葉の敷き詰めたパリ郊外の公園とやらを散策したいと夢想した。これもテレビの影響であろう。ところが世の中には、とびきり素敵な女性も、本当に気の合う親友もなかなかいそうにないので、肩を落とし、再び隠者への道を模索するのである。

 人を避け、同時に人を欲した。

 別離と出会い。この相反する二つの願望を同時に満たすものがあるとすれば、それはおそらく旅である。それで私は、高校二年の夏くらいから、頻繁に旅に出かけた。

 しかし、ここで私の旅について事細かに書くつもりはない。むしろ旅が終わったあと、私が出会った人々のことを書くつもりである。ただ一言だけ書き添えておきたいのは、旅を重ねるうちに、私は、自分の面の皮が────おそらく心臓のそれも含めて────浅黒く、分厚く、いくぶんか無神経になったということである。旅は私の行き過ぎた繊細さを矯正した。同時に、私を少し薄汚くした。神経質だったはずの私は、いつの間にか、道端にじかに座り込み、服の端で拭いただけのリンゴを丸齧りできるようになったのである。

 最後の旅は、半年がかりの日本縦断を企図したものであった。まともな就職活動をしなかった私は、大学卒業と同時に得た自由と空白を、とりあえず何かで埋めなければならなかった。三月末に地元島根を出発し、まずは自転車で九州を巡り、それからフェリーで四国に上陸。自転車が壊れて使い物にならなくなったところで、バスと電車に切り替え、大阪、京都を通過し、高山に到着した。そこから何を思い立ったか、まだ雪の残る峠を命からがら徒歩で越え、最後はヒッチハイクまでして辿り着いたのが、松本であった。

 出発から三か月ばかり。日本縦断の全日程の半分ほどもまだ到達していなかった。しかし私は、心身ともに疲弊しきっていた。ありていに言えば、旅にうんざりしていた。将来の展望がまったく持てないでいたことも、その気分に拍車をかけたかも知れない。いったい、いつまでこんなことを続けるつもりなのか? 一生旅をし続けるつもりか?────いや、そんなことはできない。旅には終わりがある。人は一生、旅人でいるわけにはいかない。

 そんなことを考えながら、二〇〇五年初夏の晴れた昼下り、松本城の堀に面したベンチで、私は顔を手で覆って座っていた。旅程にこの松本の街を組み込んだ理由は、今となっては思い出せない。どこかで日本地図を広げたとき、ほどよく山の中にあり、ほどよく人口が多そうで、人嫌いだが人恋しいという厄介な性癖を持つ私にはなんとなく惹かれる場所に見えたのかも知れない。しかし到着直後の私は疲れ切っていた。国宝松本城も、その背後に遠く冠雪した北アルプスの雄大な尾根も、ほとんど目に入っていなかった。当然である。私はまるで観光バスで車酔いした観光客のように、体を屈め、両手に顔を埋めていたのだから。

 誰かが私の前に立ち止まったのが、砂地の音でわかった。

 私は顔を上げた。私の目の前には、ハンチング帽を斜めに被り、腕を組んだ一人の男が、何とも挑発的な表情で私を見下ろしていた。

 それが私と本田ヒロシとの出会いであった。

 

(つづくつもり)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読み切り短編  『老婆』

2017年05月02日 | 短編

 

 新聞をめくる音がかさかさと鳴る。柱時計が午後二時を指す。

 摺ガラスから差し込む五月の陽射しは老婆のいる炬燵まで届かない。老婆はまるでそれだけが自分に残された最後の仕事でもあるかのように、新聞をめくっては読み、読んではめくり続けている。

 皺は深い。シミと相まって、火星の裏側のような不気味な様相を呈している。老眼鏡の上の落ち窪んだ眼窩と、そこに光るけち臭いほどに小さな瞳が、彼女の意志の頑なさを物語っている。

 老いて縮んだ我が身を丸ごと包めそうなくらい大きな新聞を、彼女は鼻先で一枚、また一枚とめくる。

 炬燵の端で猫が、にやあと鳴いた。

 老婆に劣らず老けた猫である。使い古したタワシのような毛並みをしている。老婆は猫の鳴き声も聞こえなかったように新聞をめくり続ける。

 半世紀前に夫に先立たれ、女手一つで息子二人を育て上げた。八十を過ぎてなお執念のように新聞に目を走らせる姿は一種荘厳でさえあるが、どれだけ新聞をめくっても、彼女の知りえないことはもちろんたくさんある。

 一つは、長男夫婦が自分の死んだ後、この家を取り壊して賃貸アパートにしようと目論んでいることである。赤茶けたトタン屋根の建物で、十坪ほどしかない。二十年前に煙草屋を閉めてからは、通りを行く車の排気ガスにただただ晒され続けてきた。老婆は長男夫婦と仲が悪い。彼らが自分に早く死んで欲しがっているであろうことくらいは先刻承知である。が、まさかすでに不動産屋に話をつけて、アパートの設計図まで仕上がっているとは思っていない。

 長男夫婦は川を挟んだ隣町に住む。事務機器を取り扱う専門店を営んでいるが、最近羽振りが悪い。おまけに長男がフィリピンパブに入れ込んでいる。よって手っ取り早く、家賃収入で将来の不足分を補おうと画策しているのである。

 「何しろおふくろは頑固だからな」長男は苦虫を噛み潰した顔で言う。「老人ホームに移れって言っても絶対聞かねえ。そっちの方が安全だし、家族も安心だからって説得するんだけどよ」

 「あなたが優しいからよ」長男の奥さんは少し亭主を見下して言い返す。「そりゃお母さんは今のままがいいでしょうに。あなたはいいわよ。フィリピンで憂さ晴らししてさ。二日おきに掃除に行くのも、病院の送り迎えも、あたしだし。お母さん、嫁にはそうしてもらって当然だくらいに思ってらっしゃるのね」

 「俺らがこれだけ尽くしてんのにな」長男は、自分も責められたことはまったく無視して言葉を続けた。「感謝の一言もねえ。それが腹立つ。それでいざ死ぬときによ、正輝のやつに土地と家を譲る、何て言い出しかねんぞ。とんでもねえばばあだよ」

 「あなた」奥さんは真顔になった。「それだけは嫌よ。それだけは絶対嫌。どうしてこんなに面倒見てあげてさ、不機嫌な顔されても我慢して耐えてるのに、どうして肝心なとこだけ正輝さんに横取りされなきゃいけないの」

 正輝さんというのは次男である。ちなみに老婆は、この次男が目下大変な状況にあることを知らない。内向的で陰湿な長男と違い、どちらかというと自由奔放でからりとした性格の次男は、高校を中退後、ミュージシャンを目指すと言って上京した。一年目で結婚し、二年目で夢を諦め、シェフ見習いとして働き始めて今に至る。たまにしか帰省しないこともあり、老婆はどちらかというと長男より次男の方を気にかけてきた。

 しかし正輝さんは大都会の真ん中で、現在、これ以上はなかなかお目にかかれないほどの不幸のどん底にいる。スナックとキャバクラを梯子して、酔った勢いで調子に乗って口説き落とした相手がヤクザの女であることが露見した。結果ヤクザにつけ狙われる羽目になった。妻にも浮気がばれ、彼女には食器をほとんど割られた上で離縁された。職場にも二週間顔を出していない。おそらく順当に行けば遠からず職を失い、この世界に居場所も失い、最後は命まで失うだろうと、彼自身確信に近いものを感じている。

 追っ手から居場所を隠す必要に迫られた彼は、安ホテルと二十四時間営業のインターネットカフェを転々としている。げっそりと憔悴し、無精ひげに覆われ、目は泣き腫らして赤い。

 地元に帰り、母親に会いたい、と彼は思う。できれば人生をやり直したい、とも。だがそれを相談できる相手はいない。

 そんな次男の苦境を、老婆はつゆほども知らない。もっとも、このことは兄の直輝さん(長男の名前である)もあずかり知らないことであるが。

 猫がまた鳴いた。

 ついに老婆は、すべての紙面を読み尽くした。新聞を閉じる。冷めた茶を啜り、干からびたナスの粕漬を齧る。もう一口茶を啜ると、新聞を開き、再び活字を読み始めた。

 彼女は日に三回、新聞を読むのである。

 かさり、と一枚めくられる。摺ガラス越しの陽射しを浴びて埃が舞う。炬燵布団の上で、鳴くのを諦めた猫が身を丸める。

 

 さすがにここまで読み進めた読者諸氏からは、なぜかくも退屈な老人の話をわざわざ取り上げたのかと叱責の声が聞こえてきそうだが、こちらにも言い分がある。社会の片隅に生息するこの老婆が、筆者には現代の何かを象徴している気がしてならないのだ。確かに彼女は、現代人の現代的日常と言えるものから一番ほど遠い存在であろう。が同時に、我々と彼女はとても似通ったところがありはしないか? インターネットで絶えず最新情報を得ることばかり忙しくて、身内や隣人との心の交流すらままならない我々と、新聞を食い入るように見入るこの老婆は、いったいどこが違うのだろうか?──────もちろん大きく違う。老婆は汚い猫を飼っているが、我々はふつう飼わない。

 あるいは。あるいはこの老婆の正体が、ひょっとして神様だとすると、どうだろうか? まったくあり得ない話だろうか? 神様は結局、知るだけで何もしてくれないのである──────もちろん、神様は老婆ではない。神様は三度も同じ新聞を読まない。

 

 そのとき玄関のガラス戸がガタガタと鳴った。

 豪快に襖が開く。

 「ばっちゃ!」

 元気な声を張り上げて、孫娘が姿を現した。長男夫婦の次女のみよちゃんである。今年小学四年生になった。白と緑の横じまのセーターに海老茶のスカート。背中には彼女と同じくらいの体積があるのではと思われる大きな赤いランドセル。

 「何しに来た!」

 上目遣いに孫の姿を認めると、老婆はしわがれ声を上げた。

 みよちゃんはそれには答えず、老婆の向かいの炬燵布団に足を突っ込んだ。

 「また新聞ばっかり読んで!」

 「学校は終わったか?」

 「今日たいくの時間に、ドッチボールした。みよ、最後まで残ったよ」

 「ドッチボールって何だい」

 「ばっちゃ、ドッチボール知らんの?」

 「せんべえ食うか」

 「おまんじゅう食べたい!」

 「せんべえ食え」

 「五郎にえさあげた?」

 五郎と呼ばれるタワシ色の猫は、みよちゃんに撫でられて咽喉を鳴らした。

 老婆はよいこらしょ、と炬燵から腰を上げた。孫娘に茶を淹れるのに、保温ポットのお湯が足らなかったからである。立ち上がっても大して丈が変わらないほどに背が曲がっている。

 「ばっちゃ、座って! お湯は自分で入れる」

 「いいからせんべえ食え」

 そう言いながらも老婆は孫娘にポットを手渡すと、また炬燵に座り込んだ。

 隣の台所からみよちゃんの声が飛ぶ。

 「ねえ、五郎にえさあげた?」

 老婆は炬燵机の上を片付けるのに余念がない。

 

 さすがにいい加減にしたまえ。何ゆえ、かくも食い違ってばかりの年寄りと子供の会話など聞かされねばならんのか、と読者諸氏はほとんど憤慨しながら詰問されるであろう。筆者は冷や汗を拭いながら、恐る恐る弁明する──────もちろん、私はそう思わないからだ、と。

 

 台所で薬缶から湯気が噴き出す音に重ねて、再びみよちゃんの声。

 「ねえばっちゃ、五郎にえさ!」

 「五郎に? えさ? ああ、あげた!」

 「あげた? ほんとに?」

 「あげた!」

 「いつあげた?」

 「あげた! ここ来てせんべえ食え」

 「いつえさあげた?」

 「あげた!」

 「あげた?」

 「あげた!」 

 

 

 (おわり)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする