た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

生活

2014年02月10日 | 断片
松本で二十年ぶりという大雪。雪をかいてポストに辿りつけば、入っているのは督促状のみ。やれやれ。
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2014スキーツアー

2014年02月07日 | essay
 スキーに行って来た。

 男三人のツアーで、今シーズンは二度目になる。昨年、メンバーの一人がゲレンデで大怪我をし、ツアーそのものの再開が危ぶまれたが、危ぶんだのは私だけだったらしく、後の二人は当然の顔をして参加している。怪我をした五十近くの男は「まだ怖い」と言いながら、酒をしこたま飲んでぶんぶん飛ばして滑っている。還暦をとっくに過ぎた大御所は、還暦を過ぎてから板を買い替え、三人の中で一番飛ばして滑っている。そもそも破天荒なツアーなのだ。四十代にして最年少の私が車を運転し、六十半ばと五十近くが行きの車中から缶ビールを空け、滑ってはまた空け、帰り道にも車中で空け、というスタイルは、ツアー開始当初から何ら変わっていない。天は昨年罰を与えたが、あまり効き目がなかったと見える。

 私一人けなげにアルコール抜きで行き帰りの足になっている。帰宅後仕事が待っているから仕方ないし、何よりこのツアーがとびきり楽しいから続けているのだが、帰りの車中で二人の高鼾を聞かされながら危険な雪道を走っていると、スキーの疲労も加わり、運転席だけ残してガードレールで削ってやろうかと、ふと思わないでもない。

 コンビニに停車すると、先ほどまで寝ていた二人ががばりと起き上がり、酒を買いに走る。両名とも疲れたから寝ていたのではなく、酒がないから寝ていたに過ぎないのだ。今日という日をとことんまで遊びつくそう、飲みつくそう、という精神は見上げたものである。こうなると呆れ果てて、ガードレール作戦もどこかに霧散してしまう。

 願わくは、天が今年は見逃してくれますように。大人になればなるほど、子供に戻れる機会は減るのだから。

 次回は二月末。
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デザインという名の暴力

2014年02月03日 | essay
 去年の暮れから、義理の母と同居している。彼女一人を家に残す時間も多く、何かあったときに固定電話では何かと不便と、老人用携帯というものを持たせた。これが、「老人用」を謳(うた)っていながら、実に使いづらい。ボタンの大きさは通常の携帯電話とほぼ同じ。押し込みの幅も無いに等しい。昔の扇風機のように、ぐっと押して、ポン、という手ごたえがないとボタンを押した気にならない老人にとっては、押したか押していないかはっきりしない。便利だか余分だかわからない機能もたくさんあり、操作をたびたび誤って、多少うんざり気味のようである。

 四十に足を入れた私にとっても、今の携帯電話は使いづらいと感じる。ましてや、タッチパネルなど!・・・確かに、面白いのもわかる。お洒落である。慣れれば相当便利かも知れない。だが何だか、自分の求めている利便性とは違うな、と感じてしまう。

 こういうことを近親の者にこぼせば、あなたが古いのよ、今はみんなこうよ、で片付けられる。攻めて老人携帯くらいはもっと大きなボタンにすれば、と提案すると、それじゃデザインが古過ぎるんじゃない、と返されてお終いである。

 そういう遣り取りを繰り返すうち、デザインって何だろうと思えてきた。

 現代の機器、商品、用具、すべては、<現代のデザイン>というものによって形作られている。ひと時代前のデザインは喜ばれない。喜ばれないって、誰が喜ばないのか知らないが、時代遅れのデザインですよ、と言われると、ああそうか、自分以外の人はみんなこういうデザインを好んでいるのか、じゃあ自分も追いつかなきゃ、と皆焦って新しいデザインに走っていく。

 しかしそのデザインを考案するのは、多くは、デザイナーと呼ばれる専門職の人たちである。デザイナー。知的で格好良く、芸術的な響きさえある呼称である。彼らがどうも、私には曲者(くせもの)に見えてくる。

 昔は、工具や小物や衣服などを製作する職人たちが、自らデザイナーも兼任していた。彼らは、もちろん流行を踏まえながらも、使いやすさ、耐久性、素材との相性、などを考慮しながら、製品を形作った。使う人の身に立って、彼らは物作りに励んだ。

 今のデザイナーたちが、そういう要素を考慮していないとは私も思わない。多くのデザイナーは、より便利に、より使いやすい商品にするため、様々な観点からデザインを作り上げているのだろう。だが一部のデザイナーか、主流のデザイナーたちがそうなのか、その辺は定かでないが、どうも昨今のデザインには、デザインのためのデザイン、あるいは、デザインの一人歩き、とでも言うべき独走状態が垣間見られる気がしてならない。

 流線形がより今風だ。凹凸はなるべく、無い方がいい。人間味よりも、もっと無機質な感じを。例えば、そのような視点で、電話やパソコンやあれやこれやをデザインする売れっ子のデザイナーがいるとする。売れっ子だから、彼らは一握りの人間である。ただしその影響力は計り知れない。彼らがそうデザインするなら、それが流行るに決まっているのだ。市場がそう判断すると、たとえ多少使いづらさやわかりにくさが生じるとしても、そんなこと、理解し、慣れていくのが現代人としての必須条件ですよ、とでも言われかねない風潮が出来てしまう。他社も次々とそのデザインに追随する。市場は、似たような最新デザインのモデルで溢れかえる。何より私が腹立たしく思うのは、ひと時代昔のデザインが自分は良いと思っても、そんなもの、商店の棚から早々に消えてしまい、大事に使っている製品の部品の交換すらままならなくなる事態である。それが恒常化し、売り手も買い手も、そんなものだと思い込んでいる。あるいは、思い込まされている。

 これはもはや、「デザインという名の暴力」とでも言うべき事態ではないか。

 新しいデザインが、商品の形態から、使い方から、買い替えの頻度、ひょっとしたら人々の美的感覚まで、支配し、規制をかけてしまう。われわれはデザインの革新、という名目の、デザインの大量生産、大量消費に付き合わされなければならない。ときたま、私の義母のような人が不平をこぼせば、時代遅れの人、あるいは時代に付いていけない人として、まるで不具者のような扱いをしてしまう。

 消費者は一律ではない。若者もいれば、老人もいる。好みも違えば、美的感覚も違うし、商品に求めるものも皆違う。

 商品に求めるのは、本当に、デザインか。それとも、もっと違う何かか。

 我々はもう少しその辺りを直視し、世のデザイナーたちに物申すくらいの積極性をもった消費者になっても良いのではなかろうか。

 そんなことを考えた。

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