た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

カラス

2012年11月27日 | essay
 仕事場の隣にある狭い空き地を、冷たい雨がくすんだ色に染めていた。仕事をしながら、私はときどき二階の窓から空き地を眺め下ろす。夏のころは、近所の子供たちが玩具の拳銃で撃ちあっていたり、犬の散歩をする人が立ち止まったりする。しかし朝霜の降りる季節になると、さすがに人気はなくなる。ここ最近の生活の疲れに寂寥とした雨音も手伝って、私は漠然と侘しい気分で眺め下ろしていた。

 そこにカラスが飛来してきた。くちばしに何かしら餌をくわえている。

 こんな氷雨の中でも鳥は空を飛ぶのか、と少し感動しながら眺めていると、そのカラスは空き地に着陸し、周囲をしきりに伺いながら餌を地面に落した。なるほどここで食事にありつくわけだ。しかし、カラスは私の予想に反して、くちばしで枯れ草を引き抜いては餌の上に掛け始めた。二回、三回。人間の手のように誠に器用に枯れ草をかぶせる。明らかに餌を隠しているのである。

 作業が終わると、カラスは再び周囲を伺い、思い切って飛び立っていった。私は茫然として彼のいなくなった空き地を見下ろした。カラスが餌を隠すという行為は聞いたことがない。先程のカラスは、もう少し餌を集めてから、まとめて巣に持って帰るつもりであろうか。それにしても何と手なれた(いや、この場合は「くちばしなれた」と言うべきか)作業であったことか。本能ではできない。完全に意思と思慮を持った生き物のやる姿であった。カラスはそんなに賢いのか。しかし、特に目立ったもののない平坦な空き地の中で、果たしてきちんと餌を隠した場所を覚えておけるのだろうか。

 カラスが戻ってくるまで見張っていようと思ったが、仕事に再び心を奪われ、電話の一本を受け取ったころには、カラスのことなどすっかり失念してしまっていた。こういうことではいつまで経ってもシートンにはなれない。

 なんにせよ、あ奴らも立派に生きているのは確かである。丁寧に、懸命に。そう思うと、こちらも欠伸(あくび)ばかりしてはおられないようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不携罪

2012年11月22日 | essay
 夜の喫茶店に行くと、ジャズの流れる薄暗がりの店内で、どの席の客も手元の光る通信機を眺めていた。トレンチコートを羽織ったままの粋な男も、若いカップルでさえもそうであった。あれはみんな何を受信していたのだろう。おそらく地球外生命体から地球の侵略計画についての指示を受け取っていたのだろう。だからあいつらはみんなスパイである。そう考えると最近は街中がスパイだらけになった。あの謎めいた通信機を、世の人は「愛ぱっと」と呼んでいる。あまり愛くるしいものでもない。一昔前は、「連携」と「連帯」を略したのだろうが、「携帯」などと呼んでいた。スパイが連携するなら決して歓迎できない。大変な時代になった。

 ホットコーヒーを注文し、しばらくジャズに耳を傾ける。身も心も音楽に委ねたくても、周りに目を遣ると、誰の顔も通信機の照明で怪しく光っているので、怖くて集中できない。彼らは何しにここに集まったのだろうか。通信機で顔を照らすなら家で一人でもできそうなものだ。若いカップルに至っては、会話しないなら一緒に入る意味がないではないかとまで思ってしまう。いや、もちろん、彼らは私に会話の内容を聞かれたくないのだ。だって彼らはスパイなのだから。

 コーヒーを胃袋に入れたが、私の心は何だか空っぽであった。何も面白くない。せっかく夜の喫茶店にジャズを聴きに入ったのだが、何も面白くないことに気付いた。ジャズ喫茶独特の、濃密な、少し緊張感の漂う、ひょっとしたら誰か見知らぬ人と会話したり、場合によっては肩を叩き合うかも知れない、という一種混沌とした雰囲気を、あの通信機の放つ光線が見事に消し去っていた。世界はそれぞれ孤立していた。

 見事だ、と心に思った。地球外生命体の命令は見事に遂行されている。このままだと、地球人たちはお互いに会って直接会話することを止め、心はばらばらになり、孤独に追いやられ、遠からず絶滅してしまうだろう。

 そんなわけないではないか。私は自分の思考に馬鹿馬鹿しくなって立ち上がった。勘定を払って店を出る。夜風が頬に冷たい。

 やれやれ、こんなろくでもない妄想をするようになったところを見ると、私こそ精神異常の兆候があるらしい。現にほら、普段からそうだ。「連携連帯」も「愛ぱっと」も持たない私だが、そんな私を見遣る周りの奴らの目こそ、最近は、まるで異星人にでも遭ったような目つきではないか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十一月の雨

2012年11月17日 | 断片
冷却しきった雨がアスファルトに跳ね返る。
あまりに乱雑な日常に片時も集中できない。
目に飛び込むのはすべて簡略化された悦楽。
耳を騒がすのは思想を失った軽快な常套句。
冷却しきった雨がアスファルトに跳ね返る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

葬式

2012年11月12日 | essay
 遠い親戚の葬儀に参列する。

 早朝から車を飛ばして駆けつけたので、少々眠い。

 曹洞宗の祭式で、実家が浄土真宗の私には目新しいものであった。中央のやたら豪華な椅子にお坊さんの親方と言える人が座り、左右に二人づつ、子分と言える人たちが座る。お経を唱えたり鳴り物を鳴らしたりするのはもっぱら子分の仕事である。子分たちは絶えず何かの分担があって忙しい。一方親方は、じっと座っていて、時々巨大な習字の筆のようなものを肩に掛けたり左右に振ったりするだけだから、すこぶる楽な仕事である。あれで礼金は親方の総取りに近いのだろうから、曹洞宗のお坊さんになったら親方になるに限る。

 それはさておき、お経はなかなかわかりやすい言葉が多くてよかった。参列者全員に貸し本が配られ、みんなで唱和するのである。その中でも一文が強く私の目を引いた。覚えたくて、何度もごにょごにょと呟いてみたが、覚えられない。式後、一度回収された貸し本を借り直し、再度暗誦を試みた。が、それも食事会のビールで跡形もなく忘れてしまった。これではいかんと思い、式場の係員の人にもう一度貸し本を見せてくれるよう頼んだら、わざわざそのページをコピーして渡してくれた。丁寧な式場である。あるいは、しつこい客なのでコーピーで退散させようと思ったのであろう。
 その文句は以下の通りである。

     最勝の善身を徒(いたず)らにして露命を無常の風に任(まか)すること勿(なか)れ

 意味は想像するしかない。「最勝の善身」とはよほど素敵な身体のことであろう。「無常の風」とはどうせ変わりゆくはずの、その時々にその人を支配する風潮や考え方。流行(はやり)とか、金銭欲とか。性欲や憎しみなど瞬時的な感情も、あるいはその中に含まれるか。「最勝の善身」のごとき恵まれた五体を持ちながら、いい加減に時を過ごし、露のようにはかない命を「無常の風」に委ねていいのだろうか。いやよくないぞ。そんなことじゃ駄目だぞ。

 原義はひょっとしてまったく違っているのかも知れない。そこは読み人の解釈の自由である。「露命」という言葉も気に入った。露命なのだ、我々の命なんて、しょせん。火葬場でわずかな骨と化した故人を眺めた日なので、余計にその感を強くした。

 それは老女の死を弔う式であった。式の最後に孫たちがお別れの言葉を述べた。声を詰まらせながら亡き祖母への感情を吐露する彼らの後ろ姿を見ていると、こちらも胸に迫るものがあった。

 帰りの車は、冷たい雨の中だった。露命を無常の風に任すること勿れ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

危篤

2012年11月08日 | 俳句
人や人 見舞いを見舞う 霧の夜
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上京・秋

2012年11月06日 | essay
 仕事休みを利用して、東京に行く。

 今回は知人に会うための旅行である。しばしば信州の田舎まで会いに来てくれていたので、たまにはこちらが腰を上げる礼も取ろうと思った次第である。
 
 電車が東京に近づくにつれ、車窓を流れる景色からは緑が消え、灰色の壁や色とりどりの看板が押し合いへし合いし始める。ああ、都会に近づいているなと実感する。
 かつて、この光景にわくわくと胸ときめく頃があった。また、吐き気を催すほどの憂鬱さを覚えた時期もあった。しかし四十に手が届く年齢になって、都会の風景は特別何の感慨も催さなくなっていることに気付いた。ただ、都会である。そこには期待も偏見もない。いろんな店があるだろうし、それらを見て回ればなかなか楽しい暇つぶしにはなるであろう。空気や水はどうしてもある程度我慢しなければいけないが、耐えられないほどではあるまい。あっと驚くような出来事は、おそらく待っていないであろう。東京には東京の日常があり、それは結局、どう色付けされていようと、日常なのだ。

 上野公園で知人たち数名と落ち合い、屋台に入る。冬が近いせいか、観光客もまばらである。

 一杯機嫌で谷中を散策し、怪しげなギャラリーを見て回ったり、タイ焼きを食ったりして、疲れた所で銭湯に入り長湯する。

 日が傾く頃、再び杯を鳴らす。

 久しぶりに友と語り合うのは心地よいものである。初めは多少ぎこちなくても、すぐに昔の呼吸を思い出し、取り留めもなく過去と現在と未来を言葉に乗せて回し飲みし始める。終電を逃したので、最後はファミリーレストランで始発まで付き合ってもらった。もともとそういうつもりだったような座の雰囲気であった。

 時が流れればそれだけ、街は背景に退き、人がより前面に出る。金で買える物は矮小化し、語られた言葉が重みを増す。
 そういうものかも知れない。そこの所がはっきりわかるほどには、まだ歳を取っていない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする