た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

10月21日

2009年10月22日 | essay
 深夜ランニングのその後。
 一念発起して始めた夜更けのランニングは、三日続いて満足してその後途切れていたが、何でも流星群が来るというので久しぶりにまた走ることにする。妻が自分も走ると言い出す。おいおい、そんなか細い体で走れるのかね、と内心冷笑を浮かべながら一緒に外に出た。
 雲もなく、星のよく見える晩である。満天の、とは言い難いが、自分たちのアパート近辺は結構星がよく見えることがわかった。天の川らしき筋までぼんやり見える。星空はこんなに美しかったんだと感心する。肝心の流星群は見えない。流れ星一つ見つからない。
 Tシャツにトレーナー一枚の私は身震いするほど寒い。一方で、カーディガンを二枚着こんだ妻は走りまで軽快である。四百メートルほど走ったところで、もうそろそろ引き返そうかと提案したら、もう?と馬鹿にされた。これだからランニングは一人に限る。
 アパートの前に戻ってからも、しばらく未練がましくオリオン座の方向を見つめた。流れ星は見つからない。妻が、あ、とつぶやく。彼女は一つ見つけたらしい。まあそういう夜もある。
 次回の深夜ランニングはまたしばらく未定である。
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10月16日

2009年10月19日 | essay
 犯罪で一番むごいのは、その手段でも結果でもなく、それが内に含む悪意である。法は犯罪を裁けても、悪意を裁ききることはできない。その部分に関しては、どうしても人が人を裁かざるをえなくなる。

 秋晴れで時間が空いたので、自転車をこいで映画を観にいった。愛娘の命を奪われた男が犯人に求める刑罰、というものがテーマで、なかなか鑑賞後の気分を重くさせる映画であった。女鳥羽川に沿った陽の当たる道を自転車で戻りながら、上述のようなことをつらつらと考えた。たぶんこの考えはどこか間違っている。

 裁く、という言葉の使い方とか。裁くということが何なのか、普段ほとんど考えたこともないのだ。


(写真は上高地で、本文とは何の関係もありません。映画は『さまよう刃』。)
 
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10月12日

2009年10月13日 | essay
 昨日と今日で二日間、夜のランニングを続けている。タニシのような動きのない日々だから、さすがに何かしないといけないと考えたわけである。ランニングと言っても往復一キロもない。仕事が終わって帰宅してから、玄関を出て小道をまっすぐ走って陸橋の柱にタッチして引き返すだけのランニングである。汗を出す間もない。トレーニングウェアに着かえるが、本当は着かえる必要もない。それでも強力な磁力で大地に引きつけられてでもいるかのような必死の走りをしているのが、自分でわかる。体がほとんど動くことを忘れているのだ。腕を振ることすら、足の動きと連動させるにはこれでいいのかしらと疑ってしまう有様なのだ。今日は走っていたら、心配になったのか、十分距離があるにも関わらず、対向車が最徐行して通り過ぎた。倒れでもしたらすぐ拾ってくれそうであった。
 明日も走るかは、予断を許さない。
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10月12日

2009年10月12日 | 俳句
腹立ちて くさめが一つ 秋の暮
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老夫婦

2009年10月05日 | 写真とことば
 原因のない悲しみはめったにないが、原因のない喜びはときとしてある。たとえば、ただ、じっとして一日を過ごした夕暮れ時。

 喜びか悲しみかはっきりしない感慨というものもしばしばある。たとえば、あくせくと続けていた何かを、ふとやめ、立ち止まったその瞬間。
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小説

2009年10月01日 | essay
 思い出というのも不思議なもので、思い出ですらない思い出────失われた時間とでも言うべきものが、案外忘れがたく脳裏に去来する。失われているのだから、もちろんそんな時間は実際には存在しなかった。存在し得た(けど失ってしまった)時間である。もしあのときあのまま去らずにいたら、とか、もしあのときあのまま行っていたら、などなど。人は失われた時間の入口に、何度も足を運ぶ。それ以上進めないことがわかっていながら。底なしの沼の淵まで何度も近づいて眺めたくなる衝動があるとすれば、おそらくそれと同じである。
 花を一輪手にしていれば、それを沼に投げ入れる。花はしばし水面に波紋を描いて留まる。

 花を投げ入れるだけで気が済まない人は、沼の事を文字に起こす。それが世に出れば小説となる。
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