た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

帰省の意味

2017年10月31日 | essay

 

 帰省。帰りて省みる、と書く。語源を調べると、省みるとは、親の安否を確かめることらしい。何も親に限ったことではあるまい。自分の過ごしてきた土地のにおい。湿度。幼少期の痕跡。自分の歩んできた道の意味。現在の自分に失われた過去の自分。何かしらを省みようとして、人は帰省する。

 新幹線とローカル線を乗りついで、二年ぶりの帰省を果たした。一人旅である。台風の影響で、曇天にときおり雨が混じる。

 昔、全世界のように思われた故郷の集落が、今は箱庭のように小さく見える。人口も減り、自分が小学生の頃は十人くらいで集団登校していた区域に、今は小学生が一人らしい。誰誰が亡くなった、誰誰はこんなことがあって、結局ここを出て行った、などと老いた親から聞かされる。朽ちかけた柿の木を見る。掃く人もなく堆積した落ち葉を見る。土手を流れる水はかつて幼い自分が日がな一日魚釣りをしていたころの輝きを失い、秋を通り越してはや冬の到来を告げるかのように冷たく鈍い色を湛えている。故郷が変わってしまった部分もあろう。自分が変わってしまった部分もあろう。

 帰る場所は、自分を待って昔のままに留まってくれているわけではない。そういう意味では、一度旅に出た人間に、元通りに戻る場所など残されていない。それだからこそ人は歩き続けることができるのかも知れない。重荷を背負っても、時につまづいてびっこを曳いても。

 翌日、改札口まで見送りに来たふた親に別れを告げて、再び電車に乗りこんだ。持たされたお握りは昔の味がした。車窓を眺めると、ようやく雲が割れ、辺りに日が差していた。

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総選挙とBBQ

2017年10月23日 | essay

衆議院総選挙が終わった。投票率の伸び悩みは、台風のせいだけか、それとも政治に対するこの国の民の慢性病的諦念なのか。

自分は雨の中を押して投票には行ったが、なんとなく体に残る虚しさがある。

しょせん一平民にできることと言えば、酒をあおりニュースを観ながら悟ったような愚痴をこぼすことくらいか。

 

先日、牛伏川河川敷で毎年恒例のバーベキューをした。火を焚いている間にもどんぐりがバラバラ落ちて蜂がおすそ分けを狙いに来るような、実に野趣豊かな場所である。政治もなければ国家もない。せせらぎが絶え間なく川床を洗い流している。

 

   生き足りて 晩夏を喰らう バーベキュー

 

何の関連もない話をしてしまった。

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北陸旅情(3)

2017年10月16日 | 紀行文

 山中温泉。石川県加賀温泉郷の山間部に湯煙を上げ、千三百年の歴史と伝統を誇る。古くはあの松尾芭蕉が九日間も逗留したと伝えられる。古九谷焼発祥の地であり、山中漆器で全国に名を馳せる。今なお文化の薫り高い温泉街である。

 そんなことを図書館から借りた『まっぷる』から学び取った我々が目指したのは、しかしながら、温泉にゆっくり浸かって体を休めることでもなければ、陶器や漆器の鑑賞でもなかった。悟りを断念した私と、もともと悟りに興味のなかった同伴者は、すみやかに旅情のシフトを飲食へと切り替え、夜の街を「はしご」することを決意したのである。そのためわざわざ夕食を出さないホテルを選んで宿をとった。

 ちなみにそこは一風も二風も変わったホテルであった。まず各部屋に呼び鈴がある。

 呼び鈴?

 ドアを開けると意外と広い。不必要だと思われる部屋まである。洗濯物が干せそうなベランダ、浴室にダイニングキッチンまで備え付けられている。

 ダイニングキッチン?                                                                

 さすがに気になったので、フロントに問い合わせてみると、もともとリゾートマンションで売り出したものを、ホテル用に改築したとのこと。どおりで、誰かが住んでいそうな気配までしたのだ。不景気になって部屋が全部埋まらなかったのだろう。バブルの遺産、というところか。

 広々とした部屋で、掃除は行き届いており、通路はあちこちで間接照明が雰囲気を作り出している。価格はリーゾナブルだが、ちゃんと温泉もあり、露天風呂まである。売り方と説明次第ではもっと需要が増えそうな気がしてならない。

 ひと風呂浴びて、温泉地らしく浴衣に着替えたら、いざ、夜の繁華街に向け出発。

                                                                                                     

 興奮する我々を待ち構えていたのは、意外に閑散とした通りと、浴衣にはちょっと涼し過ぎる夜風であった。

 その上、あろうことか我々はフライングをした。夕方五時過ぎには、まだどの飲食店も開いていないのである。

 夕闇の迫るひと気のない街並みを、浴衣姿の我々二人は場違いな観光客の面持ちでしばしさまよい、どこかの店が開くのを待った。

 最終的に暖簾をくぐったのは、『魚心』という海鮮料理店であった。

 若い夫婦が切り盛りする小さな居酒屋である。小ざっぱりとした狭い店内の壁一面にメニューが貼られ、聞いたことのない名前の魚も多い。注文したどの魚料理も旨かった。なかでも、キジハタだったか、酔っていたので名前が定かでないが、亭主の機転でメニューにない酒蒸しにしてもらったのが、逸品であった。舌に乗せるとあっさりとした白身だが、噛み締めると深い味わいがある。喉の奥にしまい込み、ぬるめの燗酒をあおる。

 浴衣の袖を振らせながら異郷の地で飲む酒はまた格別である。

 旅情ここに極めり。

 

 店を出ると、二軒目をどこにするかという切実な問題が待っていた。期待していたほど選択肢は多くない。あまり迷っていると、夜風がせっかくの酔いを醒ましかねない。腹具合は先ほどの魚料理で充分である。

 そこで、滅多に採らない選択肢であるが、たまたま目に飛び込んだスナックのドアを押した。

 そこはピカピカに磨かれた重厚な造りの酒棚と、蝶ネクタイを締め背筋の伸びたマスターが迎える、老舗のスナックであった。

 『星』という名前の店であった。カウンターのスツールに腰掛けると、いきなりマスターから、この店は自分が十九の時に始め、五十二年続けてきたが、来月閉店すると聞かされた。五十年以上の歴史があることもすごいが、来月閉店というのもいきなりである。お客さんはたまたま縁あってこういう店を選んでこられたのだから、ゆっくりしていってください、と言われた。

 そう言われても複雑な気持ちである。とは言え、居心地が良いので、数杯飲んだ。マスターの話によると、この店を開いた昭和の時代は、通りは人波で溢れ返っていたらしい。店もバーテンダーを四人雇って満員の客に対応していた。山中温泉内にホテルが二十軒くらいあったが、現在は七、八軒である。高度経済成長、バブル、不景気と、時代の荒波に翻弄されてきたのだ。そんな中でも五十年、看板を降ろさずに夫婦二人三脚で店を続けてきた。さすがにこの歳になって体が言うことを聞かなくなり、閉店を決意したとのこと。

 しばらくするとママさんも現れ、昔話で盛り上がった。やがて常連も一組現れた。背の低い老女が筆頭である。しかし彼女がいったんマイクを握ると、若々しく張りのある声が出るので驚いた。しかも何曲歌っても喉が枯れない。『山中雨情』という地元が舞台の演歌まで歌ってくれた。旅の男と契りを結んだ宿の女の、切ない別れの歌である。我々旅行客にサービスで聴かせてくれたのかもしれない。

 気分が乗ったのでブランデーを一杯注文したら、グラスに火を点け、温めてから酒を注ぎ、供してくれた。昔はこのような技術を多くのバーテンが持ち、夜の賑わいを演出していたのだろう。それははかない夢のような時代であり、夢から醒めたのち、もう二度と夢には戻れない時代になってしまった。それでもこの夫婦は、背筋を伸ばし、毅然として、半世紀も店を切り盛りしてきた。そこにはひょっとして、一つの悟りに近いものがあったのかも知れない。

 「そりゃいろいろあったわよ」

 とママさんがつぶやく。

 「でも、自分がこの店を支えてるんだって自負があったからね」

 そうだ。続けることだ───と私はグラスを手にしながら心に思った───続けることこそが、一つの修行であり、悟りなのだ。どんなに俗世の塵芥にまみれようとも。

 『星』は、自分たちなりに立派に時代を生き抜き、今ようやく休息しようとしている。

 

 店の人と常連と、皆に温かい声をかけられながら店を後にした。自身相当酔っているのにもう一軒、と主張する調子ばかり良い同伴者に乗せられ、三軒目のお好み焼き屋に転がりこんだ頃には、私も同伴者も何が何だかわからなくなっていた。

 

 翌朝、山中温泉はすがすがしい一面を見せてくれた。渓流に沿った美しい遊歩道を歩くと、街の年寄り連中が無料サービスでお茶を振舞ってくれた。仲間内でおしゃべりが絶えず、とても楽しそうである。橋を渡って大通りに戻ってみると、陶器や漆器の店は観光客で賑わっていた。古い店と店の合間に、新しい店がいくつもオープンしているのが認められた。

 この街全体が休息するのはまだまだ先だろう。確かに昔のような好況は望むべくも無いかも知れない。だが年寄りが元気で、若い力も参入してきている。美しい自然と温泉と、伝統工芸もある。どんな時代が来ても、この街は何とか乗り越えていくであろう。

 昼前になってようやく、我々は山中温泉を後にした。計画外に買ったいっぱいの手土産と、いっぱいの思い出を車のトランクに詰め込んで。

 

 北陸二日間の旅は、こうして幕を閉じた。

 

(おわり)

※写真はどちらも山中温泉遊歩道にて。

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北陸旅情(2)

2017年10月09日 | 紀行文

 一路海岸へ。次に目指すは東尋坊。

 高さ二十メートルを超える断崖絶壁。打ち寄せる日本海の荒波。東洋随一の奇観。国定公園に指定されながら、同時に自殺の名所としてもその名をはせる。その壮絶壮大な景色を前にすれば、永平寺で得られなかった悟りの境地に、ひょっとすると近づけるやも知れない。

 あるいは死というものが見えるかも。

 越前平野は予想以上にだだっ広かった。果てしなく田畑と電信柱が続く。私はひたすら車を走らせた。

 四十を過ぎて旅をして、自分は果たして何を得ようとしているのか───ハンドルを握っていても、思考は自然とそこに行きつく。私は何を悟りたいのか。どう自分を変えたいのか。若いときも、よく旅をした。あの頃なら電車や徒歩で半日かけた距離を、今は車で数時間である。若い頃なら寝袋を担いでとぼとぼ歩きながら日暮れを迎えていたのに、今はしっかりと宿を予約し、車を走らせ、『まっぷる』まで携帯している。しかも『まっぷる』は図書館で借りたものだ。旅が終われば返却するという魂胆だ。こんなちゃっかりした旅で、いったいどんな神秘的体験が望めるというのだ。

 私の呻吟(しんぎん)を他所に、助手席に座る、やたら調子のいいこの旅の同伴者は、『まっぷる』を広げ、海の幸としてエビ天を食べるべきか、カニはまだ早いか、などとどうでもよい話題をふっかけてくる。どこに店があるんだと訊くと、東尋坊タワーにあるから大丈夫だと言う。

 東尋坊タワー?

 東尋坊にはタワーがあるのか。私はハンドルを握る手に汗を感じた。断崖絶壁に打ち寄せる日本海の荒波、その荘厳な景勝地には、タワーが建っているのか。

 急速に押し寄せる不安を振り払いながら、私はさらに車を走らせた。

 

 不安は的中した。東尋坊も、立派な一大観光地だった。

 考えてみれば当然のことである。風光明媚で名の知れた場所である。観光産業が目をつけないはずがないではないか。噂の東尋坊タワーに隣接したやたら高い有料駐車場に始まり、ここは京都か浅草か、と思わせる土産物屋が通りの左右に列を成す。店先では、長年の人ごみと砂ぼこりのせいか目の座った店員が、誰に向かってともなく呼び込みをしている。店頭に並ぶのはなぜか南国の貝殻や、『がけっぷち』などと書かれたTシャツ。ソフトクリームを手にし、買ったばかりの編み笠を被った観光客などが、群れとなって行き交う。ひと時代前はもっと賑わっていたのだろう。シャッターを降ろしたままの店もちらほら見かけた。

 高度経済成長の落とし子のようなその通りを抜けると、ようやく柱状節理でできた岸壁が現れる。

 評判に違わず壮観である。何者かの怨念のようにそそり立つ岩石のはるか下方で、海が白波を立てている。

 しっかりと抹茶ソフトを右手に握りしめた私は、崖の先端からこわごわ下を覗き込んだが、足がすくんで十秒と立っていられない。ともに高所恐怖症であることを思い出した私と同伴者は、速やかに数十メートル手前の安全な地点まで引き返し、そこに腰を下ろした。 

 しばし呆然と日本海を眺める。

 悟りを開くのはまたにしようと思った。

 

 日没を待たずして、東尋坊を脱出。その日の最終予定地は山中温泉。

 いよいよ夜の部が幕を開ける。

 

(つづく)

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北陸旅情(1)

2017年10月03日 | 紀行文

 永平寺を目指そうと思い立った。

 禅宗曹洞宗の総本山。福井の雪深い林間にひっそりと佇み、開山以来七百六十年間、厳しい修行と戒律で俗世の塵芥を被らずに独自の世界観を守り続けてきた最後の聖域。その空気に接すれば、ひょっとして自分の中の何かが大きく変わるかも知れない。四十代も半ばに差し掛かり、人生後半がおぼろげながら見えてきた。だいたいこんなものかという思いもあり、こんなもので果たしていいのだろうかというためらいもある。生き方を見つめ直すのに、永平寺ほど適した場所はあるまい。

 体験で座禅を組むことも可能だと言う。心を無にし、何かを悟るきっかけになるかも知れない。幸い、万事につけてノリのいい連れ合いが、座禅にもやる気を示した。実は以前、地元松本でも座禅の一日体験を二人で申し込んだことがある。そのときは、連れ合いはどちらかというと精進料理やお茶菓子に興味があってついてきた。しかし今度は本場である。本家本元の座禅である。相当の覚悟が必要だが、それでもやってみたいと言う。精進料理も茶菓子もないよと念を押したが、それでもやってみると言う。

 となれば、もはやこれ以上迷うことはない。連休の確保できた九月末日、我々は一路、車を走らせて福井に向かった。

 

 旅情を重んじ、なるべく下道を採った。松本から安房峠を越えて岐阜へ。飛騨高山から高速に乗り、白鳥まで南下、再び下道を通って北上。渓谷を走り、福井県は永平寺町へ。所要時間、五時間。

 

 永平寺は、一大観光地だった。

 門前町には土産物屋が並び、ごま豆腐や「禅」と描かれたTシャツなどが所狭しと並べて売られていた。観光バスが何台も並び、ソフトクリームを舐める若者やみたらし団子を頬張る年寄り、自分たちの写真を撮るカップル、祖国の言葉で喋り合う外国人観光客などで溢れていた。私は愕然として、思わず参道に膝を突いた。求めていた静謐な空気はそこにはなかった。何事につけノリのいい同伴者は、意気消沈する私を写真に撮って笑っていた。

 いやしかしいったん門を潜りさえすれば。一歩境内に足を踏みさえすれば。と一縷の望みをかけて寺院の敷地内へ。さすがに伽藍はどれも大きい。建物の中はしっかりと観光ルートが確保されていて、修行中の僧侶たちの邪魔にならないように、修行のエリアと観光のエリアが区分されている。観光客は庭に出ることさえ許されない。参拝経路の案内表示に従って、ぞろぞろと人波が動く。ときどき用事で行き交う僧侶に遭うと、サファリパークでキリンやライオンに遭遇したように喜んでいる。

 私は中庭への出口となっている渡り廊下に腰掛け、日の降り注ぐ庭の樹木を眺めた。

 これでいいんだ、と私は心に呟いた。もちろん、こうなることはわかっていた。観光産業の発達した現代日本で、歴史と知名度を誇りながら、同時に静謐さを維持できている場所なんてそうあるもんじゃない。永平寺は悪くない。彼らは、観光客を適当にあしらいながら、自分たちの修行を邪魔されない場所で黙々と続けているのだろう。一泊二日の旅で、その一端に触れ、あわよくば悟りの一つもひらきたいなどと願う私みたいな観光客の方が、よっぽどおこがましいのだ。

 永平寺の山門には、扉がない。来る者拒まずの精神らしい。しかし、その神髄を覗き見ることは、容易ではない。

 座禅もなんとなく諦め、ごま豆腐と人生啓発の言葉の書かれた写真集を、家で留守番をする義母のために買い求めると、我々は日の傾きかけた永平寺を後にした。

 

 (つづく)

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