仕事をしながら、窓の外を眺めていた。
しばらくして雨が降りはじめた。本当によく雨の降る夏である。
じっくり雨脚を眺めていると、なかなか面白い。まず、一つ、出し抜けにぽつ、と来る。これが割合太い雨脚を持つ。もちろん、窓の外から見える風景は限られており、最初のぽつ、は、実際には別の場所で落ちたに相違ないが、まあそれでも最初の雨脚に近いものが窓から見える。太い。ちょっとびっくりするくらい太い。今まで湿気をため込みながら我慢していた大気が、我慢しきれなくなって最初に落とす雨垂れだとしたら納得もいく。
最初(と思われる)雨脚が過ぎてから、二番目はなかなか来ない。雨というのはそう簡単に本降りになるわけではないのである。あれ、この調子だと最初の一滴だけでこれ以上降らないのかな、ひょっとして、最初の一滴も鳥の糞だったかもしれないな、などと想像を逞しくしていると、次のぽつ、が少し離れた場所に来る。太さでいえば、一番目よりずっと細い。測ったわけではないが、そう思える。それからより間隔を短くして、三番目、四番目、五番目あたりがほつ、ほつ、ほつ、と来る。雨脚はほとんど気づかないくらいに細くなっている。
それからすぐに本降りになるわけでもない。またしばらく、不思議なような静寂がもたらされる。雲の切れ間が来たかなと想像させられる。しかしあんまり窓の外ばかり眺めてもいられない、そうだそうだ、何しろ仕事中なんだ、と、意識を仕事に戻してしばらくすると、いつの間にか、数えきれない雨脚たちが、本降りの誇りを帯びてしっかり太く窓の外を流れている。本降りの瞬間は結局見れずじまいである。雨というものは大抵そういうものだろうと思わされる。
ついでに言えば、雨の止む瞬間もなかなか見届けがたい。気づけば、すっかり止んでいる。まだ沈んだわけではなかった太陽が、濡れたアスファルトをやたら感傷的に磨き上げている。ああ、止んだのだ、あの雨は、と思う。日もまだ沈んでなかったのだ。雨のやつ、なかなか潔い去り際だったな、と、妙なことで感心したりもする。
それでようやく雑念を振り払って、仕事に専念する。結構専念できる。しかしそれも、実は、雨上がりの涼風のお蔭あってのことなのだ。
雨ならば、雨を楽しめ、と、どこかの俳人が歌っていた。
それを思い出した。