バリの晴天は続く。三日目である。
朝食後に浜辺にある卓球台で遊ぶ。途中からホテルで働いている現地人が割り込んできた。彼がやたら上手い。友人たちと大声でしゃべりながらどんな球でも返してくる。球が樹木の枝に挟まったところで卓球は終了した。
遠出をしよう、ということに話が決まった。「ロッキンロッキン」の運転手に電話して、五千円でタクシーの一日貸切を依頼する。現地通貨のルピアで言えば五十万ルピア。これくらいの桁になると、金銭感覚が混乱してしまう。チップの基本は一万ルピア。しっかりしたディナーをみんなで食べると百万ルピア。「ワンミリオン」などと清算の時言われてしまうと、それだけで破産しそうな気になる。タクシー一日で五十万ルピア。五十万? つまり五千円。五千円か、それなら、高くない。
連日の猛暑に肌を晒し続けていたので、エアコンの効いたダイハツのミニバンの中は快適であった。ただしやはり問題は運転手の「ロッキンロッキン」であり、英語が一向に通じない。goやeatなど基本的な動詞だけで会話をするとなんとか通じる。手振り身振りを交えて必死に意思を伝えようとしているうちに、そうかこれが国際語としての英語なのか、と思い至った。文法など要らない。ひょっとすれば、whenやifなどの接続詞すら要らない。表情や、手振り、重要単語の極端な強調、そして何より伝えようとする意思さえあれば、言葉は何とか伝わるものである。どこかの学者が言っていたが、日本の英語教育もそこを重視すべきではないか。まずは何が何でも伝えようとさせることが第一歩である。「はい、じゃあ今日の天気について教えてください」「はーい。ええと、(空を指差して)サン、サン、(親指を突き出し、笑顔で)グッド!」────最初はこれで十分ではないのか。もっと複雑なことを正確に伝えたくなった時に、文法は自然と身についてくる。車窓から外を眺めながら、そんなことをつらつらと考えた。
我々はデンパザールという市場を目指した。
市場と言えば、青空の下、いろんな果物が山積みに並べてある広場を、たくさんの人々が行き交うイメージがある。しかし我々がたどり着いた時にはすでに青空市場は終わっており、建物の中だけで売り買いがなされていた。
それは三段も四段も重ねたハンバーガーのような建物で、物と人で溢れていた。香辛料から食べ物から人いきれまで、あらゆるものをごったまぜにした空気がこもっている。妻はハンカチで鼻を押さえた。それでもわれわれ探検隊は進まなければならない。幸い、若い娘さんがどこからともなく現れ、自らすすんで道案内をしてくれた。一階の果物を見て、二階の乾物、さらに三階へと上がっていく。あにはからんや、娘さんは自分の店に我々を誘導したのであった。私ノ店モ見テクダサイ。コノ上。私ノ店、見ルダケ。はいはい。ついて行ってみると、畳三畳ほどのスペースに重なり合うようにして服が吊ってある。「安ク、デキル」と電卓を出してくるので、交渉して薄手のシャツを数枚買った。車に戻ったらすぐに着かえたが、薄手なだけあってとても涼しく心地よかった。ただし、帰国後洗濯するともう着られなくなったというのは後日談。
建物の外に出たら直射日光が背中を突き刺した。屋台でジュースを買う。こちらが出した紙幣に対し、店の側に釣りが足りなかった。お婆さんが大声で怒鳴りつける。怒鳴られた若者が慌てて釣りを手に入れに走って出ていった。何だか総じて、アジアを実感する場所であった。
車に乗り込み、運転手に「次、寺、寺」と告げる。運転手はしばらく首を傾げていたが、大きくうなずいて「OK」と返す。我々の意思疎通もだいぶと楽になった。
ヒンズー教の大きな寺院に到着した。腰布を渡され、身につけて入る。デンパザールとは打って変わって爽やかな風が境内を吹き抜ける。水辺には蓮の花が咲き、花の上を蝶が舞う。その羽音すら聞こえてきそうなほど静かである。石段に三人腰かけ、しばし憩った。バリの人は信仰深いと聞く。こういう場所が、バリ人の思い描く極楽なのかなあと、夢想した。
水田に囲まれたレストランで昼食をとったあと、棚田を見ることに話がまとまった。旅行冊子には美しい棚田の写真があったから、どこかにあるに違いない。ところが棚田、というのが運転手に伝わらない。そもそもこちらも、棚田という英語を知らない。手の平を段々にして見せながら「ライス、ライス、ライス」と言ったが無駄であった。「田がたくさんあって、眺めのいいところ」と伝えたら、さほど眺めのよくないところに連れて行かされた。いいや違うんだよ、そうかパンフレットに写真がある、写真を見せよう。こんな風景の見えるところだ。ああ、これか。わかる。わかる。大丈夫。
運転手席と助手席で四苦八苦の会話しながら、車は何とか目的地の村にたどり着いた。
村の名をテガラランという。
それは、私がこの旅で最も求めていた風景であった。
険しい谷間に、どうやって造ったのだろうと不思議に思えるほどに、小さな田が幾重にも重なっていた。南国の木が畔から天を目指して伸びる。日光と水田の色と微かな霧のせいで、谷全体が薄青く輝いて見える。絵に描いたような風景である。しかしながらどんな絵でも見たことのない風景である。我々三人は息をのんだ。
上半身裸のいかにも農夫らしい老人が、老犬と畔に座り込んでバナナの葉で編んだ帽子を売っていた。「息子」が一つ買い求める。
我々三人は改めて、谷間を見渡した。
私は居ても立ってもいられない気分になった。元来が農家育ちである。妻子を茶店に憩わせておいて、一人で猿のようにどんどんと畔を下って行った。下るといっても、勾配が急で足場に迷い、なかなかに危険である。それでも私はひたすら下った。下りながら童心に戻っていた。私の田舎に棚田はない。だがこの足もとの感触は、鼻につんとくる草いきれは、ひどく懐かしいものであった。
十五分はかかったろうか。妻子も茶店も見えなるまで下りきってから、さてどうやって戻るかが心配になった。階段も坂道もないから、どこをどう登ればいいか皆目わからない。しまった、私は童ではなく今は一家の主であった、私が上にたどり着けなかったら妻子は露頭に迷ってしまう、あるいはこんな私に愛想を尽かして先に日本へ帰ってしまうのではなかろうか。いずれにせよ大変困る。
息を切らせながら何とか元の場所まで登ってきたら、妻子はヤングココナツのジュースを飲んでいた。もらってみると水のような味である。「息子」は私の話を聞くと、「僕も行ってみる」と叫んで畔を一段飛び降りた。その拍子にバナナの帽子が畔に落ちて汚れてしまった。買ってさっそく汚すところは実に彼らしい。真っ赤な顔で呆然と彼がたたずんでいたら、先ほど帽子を売りつけた老人が現れた。帽子を手に取り、流水で洗ってくれた。笑顔で「息子」に帽子を返す。「息子」も満面の笑みになった。
時刻が迫っていた。ジェゴグ鑑賞というのが旅行のセットに入っていて、午後六時までに会場のプラザバリに到着しないといけない。タクシーは街中を信じられないスピードで戻った。路上にはとにかくバイクが多く、大方のバイクが積載過多であり、子供二人と夫婦の計四人で乗っているバイクまでいる。彼らがまた車に負けじと飛ばす。我がタクシーは車とバイクの間隙をぬって、まるで映画のカーチェイスのような軽快さで走り抜ける。後部座席がやたら静かになった。あまりのスピードに声が出なくなったらしい。バリ人の運転技術は大したものがあるが、事故は多いのか? と訊いたら、とてもとても多い、と首を横に振りながら即答した。私も黙り込んだ。
ジェゴグ開演にはぎりぎり間に合った。まあ、総じて親切な運転手だったと言える。
ジェゴグ演奏は、HISが主催したものであり、観客はみな日本人であった。ほお、これほどの同国人がこの小さな島に集結していたのかと感心した。みなブランド物の服に身を包んでいる。現地製のいかにも安物のシャツを着た親子はそういない。バナナの葉の帽子を被った子どもに至っては、一名を除いて皆無である。
ジェゴクとは、太い竹を楽器とする音楽である。長さを微妙に変えながら切ったものを木琴のように並べ、力任せに叩く。ゲンコツが二つ余裕で入るような巨大なものもあり、それらが何台も連なって一斉に叩かれると、パイプオルガンのような荘厳な響きを持つ音を出す。初めこそその新奇さに感動していたが、次々と演奏される曲はどれも似たりよったりであり、添え物のダンスもいま一つ洗練されてない。司会進行役の座長が片言の日本語で説明をしてくれるのだが、やたら冗長で、しかも意味が通じない。日中動いた疲れも災いしてか次第に疲れてしまった。
途中で切り上げ、食事を済ませると、ホテルに戻った。子供が寝付いたあと、妻と二人でもう一杯、とホテルのバーに繰り出す。柱と屋根があるだけ、あとは吹き抜けの夜風が心地よい洒落たバーで、我々はカクテルグラスを重ねた。
テーブルの上のキャンドルライトの揺らめきを眺める。その日最後の数十分を、私と妻は言葉少なに過ごした。
バリ滞在も、あと一日。
(つづく)
朝食後に浜辺にある卓球台で遊ぶ。途中からホテルで働いている現地人が割り込んできた。彼がやたら上手い。友人たちと大声でしゃべりながらどんな球でも返してくる。球が樹木の枝に挟まったところで卓球は終了した。
遠出をしよう、ということに話が決まった。「ロッキンロッキン」の運転手に電話して、五千円でタクシーの一日貸切を依頼する。現地通貨のルピアで言えば五十万ルピア。これくらいの桁になると、金銭感覚が混乱してしまう。チップの基本は一万ルピア。しっかりしたディナーをみんなで食べると百万ルピア。「ワンミリオン」などと清算の時言われてしまうと、それだけで破産しそうな気になる。タクシー一日で五十万ルピア。五十万? つまり五千円。五千円か、それなら、高くない。
連日の猛暑に肌を晒し続けていたので、エアコンの効いたダイハツのミニバンの中は快適であった。ただしやはり問題は運転手の「ロッキンロッキン」であり、英語が一向に通じない。goやeatなど基本的な動詞だけで会話をするとなんとか通じる。手振り身振りを交えて必死に意思を伝えようとしているうちに、そうかこれが国際語としての英語なのか、と思い至った。文法など要らない。ひょっとすれば、whenやifなどの接続詞すら要らない。表情や、手振り、重要単語の極端な強調、そして何より伝えようとする意思さえあれば、言葉は何とか伝わるものである。どこかの学者が言っていたが、日本の英語教育もそこを重視すべきではないか。まずは何が何でも伝えようとさせることが第一歩である。「はい、じゃあ今日の天気について教えてください」「はーい。ええと、(空を指差して)サン、サン、(親指を突き出し、笑顔で)グッド!」────最初はこれで十分ではないのか。もっと複雑なことを正確に伝えたくなった時に、文法は自然と身についてくる。車窓から外を眺めながら、そんなことをつらつらと考えた。
我々はデンパザールという市場を目指した。
市場と言えば、青空の下、いろんな果物が山積みに並べてある広場を、たくさんの人々が行き交うイメージがある。しかし我々がたどり着いた時にはすでに青空市場は終わっており、建物の中だけで売り買いがなされていた。
それは三段も四段も重ねたハンバーガーのような建物で、物と人で溢れていた。香辛料から食べ物から人いきれまで、あらゆるものをごったまぜにした空気がこもっている。妻はハンカチで鼻を押さえた。それでもわれわれ探検隊は進まなければならない。幸い、若い娘さんがどこからともなく現れ、自らすすんで道案内をしてくれた。一階の果物を見て、二階の乾物、さらに三階へと上がっていく。あにはからんや、娘さんは自分の店に我々を誘導したのであった。私ノ店モ見テクダサイ。コノ上。私ノ店、見ルダケ。はいはい。ついて行ってみると、畳三畳ほどのスペースに重なり合うようにして服が吊ってある。「安ク、デキル」と電卓を出してくるので、交渉して薄手のシャツを数枚買った。車に戻ったらすぐに着かえたが、薄手なだけあってとても涼しく心地よかった。ただし、帰国後洗濯するともう着られなくなったというのは後日談。
建物の外に出たら直射日光が背中を突き刺した。屋台でジュースを買う。こちらが出した紙幣に対し、店の側に釣りが足りなかった。お婆さんが大声で怒鳴りつける。怒鳴られた若者が慌てて釣りを手に入れに走って出ていった。何だか総じて、アジアを実感する場所であった。
車に乗り込み、運転手に「次、寺、寺」と告げる。運転手はしばらく首を傾げていたが、大きくうなずいて「OK」と返す。我々の意思疎通もだいぶと楽になった。
ヒンズー教の大きな寺院に到着した。腰布を渡され、身につけて入る。デンパザールとは打って変わって爽やかな風が境内を吹き抜ける。水辺には蓮の花が咲き、花の上を蝶が舞う。その羽音すら聞こえてきそうなほど静かである。石段に三人腰かけ、しばし憩った。バリの人は信仰深いと聞く。こういう場所が、バリ人の思い描く極楽なのかなあと、夢想した。
水田に囲まれたレストランで昼食をとったあと、棚田を見ることに話がまとまった。旅行冊子には美しい棚田の写真があったから、どこかにあるに違いない。ところが棚田、というのが運転手に伝わらない。そもそもこちらも、棚田という英語を知らない。手の平を段々にして見せながら「ライス、ライス、ライス」と言ったが無駄であった。「田がたくさんあって、眺めのいいところ」と伝えたら、さほど眺めのよくないところに連れて行かされた。いいや違うんだよ、そうかパンフレットに写真がある、写真を見せよう。こんな風景の見えるところだ。ああ、これか。わかる。わかる。大丈夫。
運転手席と助手席で四苦八苦の会話しながら、車は何とか目的地の村にたどり着いた。
村の名をテガラランという。
それは、私がこの旅で最も求めていた風景であった。
険しい谷間に、どうやって造ったのだろうと不思議に思えるほどに、小さな田が幾重にも重なっていた。南国の木が畔から天を目指して伸びる。日光と水田の色と微かな霧のせいで、谷全体が薄青く輝いて見える。絵に描いたような風景である。しかしながらどんな絵でも見たことのない風景である。我々三人は息をのんだ。
上半身裸のいかにも農夫らしい老人が、老犬と畔に座り込んでバナナの葉で編んだ帽子を売っていた。「息子」が一つ買い求める。
我々三人は改めて、谷間を見渡した。
私は居ても立ってもいられない気分になった。元来が農家育ちである。妻子を茶店に憩わせておいて、一人で猿のようにどんどんと畔を下って行った。下るといっても、勾配が急で足場に迷い、なかなかに危険である。それでも私はひたすら下った。下りながら童心に戻っていた。私の田舎に棚田はない。だがこの足もとの感触は、鼻につんとくる草いきれは、ひどく懐かしいものであった。
十五分はかかったろうか。妻子も茶店も見えなるまで下りきってから、さてどうやって戻るかが心配になった。階段も坂道もないから、どこをどう登ればいいか皆目わからない。しまった、私は童ではなく今は一家の主であった、私が上にたどり着けなかったら妻子は露頭に迷ってしまう、あるいはこんな私に愛想を尽かして先に日本へ帰ってしまうのではなかろうか。いずれにせよ大変困る。
息を切らせながら何とか元の場所まで登ってきたら、妻子はヤングココナツのジュースを飲んでいた。もらってみると水のような味である。「息子」は私の話を聞くと、「僕も行ってみる」と叫んで畔を一段飛び降りた。その拍子にバナナの帽子が畔に落ちて汚れてしまった。買ってさっそく汚すところは実に彼らしい。真っ赤な顔で呆然と彼がたたずんでいたら、先ほど帽子を売りつけた老人が現れた。帽子を手に取り、流水で洗ってくれた。笑顔で「息子」に帽子を返す。「息子」も満面の笑みになった。
時刻が迫っていた。ジェゴグ鑑賞というのが旅行のセットに入っていて、午後六時までに会場のプラザバリに到着しないといけない。タクシーは街中を信じられないスピードで戻った。路上にはとにかくバイクが多く、大方のバイクが積載過多であり、子供二人と夫婦の計四人で乗っているバイクまでいる。彼らがまた車に負けじと飛ばす。我がタクシーは車とバイクの間隙をぬって、まるで映画のカーチェイスのような軽快さで走り抜ける。後部座席がやたら静かになった。あまりのスピードに声が出なくなったらしい。バリ人の運転技術は大したものがあるが、事故は多いのか? と訊いたら、とてもとても多い、と首を横に振りながら即答した。私も黙り込んだ。
ジェゴグ開演にはぎりぎり間に合った。まあ、総じて親切な運転手だったと言える。
ジェゴグ演奏は、HISが主催したものであり、観客はみな日本人であった。ほお、これほどの同国人がこの小さな島に集結していたのかと感心した。みなブランド物の服に身を包んでいる。現地製のいかにも安物のシャツを着た親子はそういない。バナナの葉の帽子を被った子どもに至っては、一名を除いて皆無である。
ジェゴクとは、太い竹を楽器とする音楽である。長さを微妙に変えながら切ったものを木琴のように並べ、力任せに叩く。ゲンコツが二つ余裕で入るような巨大なものもあり、それらが何台も連なって一斉に叩かれると、パイプオルガンのような荘厳な響きを持つ音を出す。初めこそその新奇さに感動していたが、次々と演奏される曲はどれも似たりよったりであり、添え物のダンスもいま一つ洗練されてない。司会進行役の座長が片言の日本語で説明をしてくれるのだが、やたら冗長で、しかも意味が通じない。日中動いた疲れも災いしてか次第に疲れてしまった。
途中で切り上げ、食事を済ませると、ホテルに戻った。子供が寝付いたあと、妻と二人でもう一杯、とホテルのバーに繰り出す。柱と屋根があるだけ、あとは吹き抜けの夜風が心地よい洒落たバーで、我々はカクテルグラスを重ねた。
テーブルの上のキャンドルライトの揺らめきを眺める。その日最後の数十分を、私と妻は言葉少なに過ごした。
バリ滞在も、あと一日。
(つづく)