以前書いたものを少し手直しして載せました。一度読んだことがあると思われたらそのせいです。
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(吉田こういち君の独り言) 保科さんが来た。まずいな。さっき会議でぼろかすに言ったばかりなのに。エレベーター、まだ来ないかな。怒ってるだろうな、俺のこと。会議中泣きそうだったもんな。それとも泣いたのかな? でもこの子が悪いんだよ。どんくさ過ぎるんだよ、やることすべてが。まだ来ないのかエレベーター。このエレベーターもどんくさいんだよな。うちの市役所はどんくさいもので満ちているな。どうしてこの子、いつも抱えきれないほどの書類を抱きしめているんだろう。そこから間違ってるんだけど。今どき両手に山盛りの書類なんて、能率の悪い仕事をしてますって白状してるようなもんじゃないか。でもまあ、ちょっと赤い顔して、一生懸命書類を抱えている姿がとっても似合うって言えば似合うんだけどな。そういうのが似合う子だ。おいおい、エレベーターのやつ、一階で寝込んでるんじゃないのか。あ、付箋紙が落ちた。拾ってやるか。
「あ、あの、あの、すみません。ありがとうございます」
「いいえ。先ほどはどうも」
「あ、こちらこそいろいろ、あの、ご指導ありがとうございます」
「ご指導ね。ご指導か。ご指導ついでだけど、ちょっと荷物多すぎない?」
「あ、これですか、すみません。でもこれ全部必要な書類なんです」
「へえ。付箋紙も一束必要なんだ」
(保科かおりさんの独り言) やな人。ほんとやな人。まだ私を攻撃し足らないのね。イヤミばっかり言って、にやにや笑って。いつもイヤミ言ってにやけてるんだから。私にばっかり。私に気があるのかしら。多分そうね。自分が格好いいと思ってるから、いじめてやったらむしろ自分に惚れるだろうくらいに思ってるのよ。おあいにく様。確かにちょっとは格好いいかもしれないけど、心が醜いんです。心が醜い人は駄目なんです。ほんと悔しい。そりゃ私がいけないんだけど、でもあんなに言うことないじゃない。そりゃ私はまだ仕事ができませんよ。無駄な動きが多いですよ。勘違いばっかりですよ、確かに。じゃあどうすりゃいいの? 脳ミソ取り出して洗浄すりゃいいの? エレベーター遅いなあ。あ、やっと来た。
砂の噛む音を立ててエレベーターの厚い扉が開き、中からどやどやと四人の男が降りた。三人はスーツ姿で、一人はくたびれたジャンパーを着た浅黒い男である。みな、つまらぬ場所からつまらぬ場所へ移動するような表情をして去って行った。彼らをやり過ごしてから吉田君と保科さんがエレベーターに乗りこむと、他に乗る者は誰もいなかった。エレベーターの扉は再び砂の噛む音を立てて閉じた。
(吉田こういち君の独り言) おいおい、保科ちゃんと二人っきりかい。まいったな。気まずいでしょ、いくらなんでもこれは。なんだかこっちまで緊張してくるな。さっきの言い過ぎのお詫びにお茶にでも誘ってみるか。案外喜んだりして。でもお茶に誘っても絶対断るタイプだよな。
「また付箋紙落ちそうだよ」
「あ、大丈夫です。すみません」
「ほらほら、ペンが落ちたよ」
「あ、すみません、すみません。大丈夫です。自分で拾えます」
「いいよ。かがまない方がいい。ほらまた付箋紙が落ちた」
(保科かおりさんの独り言) 笑われてる! 笑われてるわ! 悔しい。私が間抜けなのよ。私っていつでも間抜けなんだから。コアラみたいに荷物抱えこんで。でもそんなに笑うことないじゃん。吉田さん最低。人がうろたえるのを見て喜ぶなんて、人間として最低。四階まだ? このエレベーターも最低! あれ?
鉄骨を二三本折るような音を立てて、エレベーターは急停止した。溜息のような音を漏らし、電灯もすべて消え、機械音が止んだ。扉が開くわけでもない。まるではるか昔から外界と隔たった空気を密かに保管してきた隔離倉庫のようであった。自分の指先も見えないほどの真っ暗闇に戸惑う若い男女を納め、エレベーターは固く沈黙した。
「どう・・・どうしちゃったんでしょうか」
「真っ暗だね」
「壊れたんですか」
「停電かな」
「やだ、どうしましょう」
「さすが市役所のエレベーターだ。人を閉じ込めておいて、アナウンスの一つもない」
「怖い」
「大丈夫だよ。知らないけど」
沈黙。心なしか蒸し暑い。
「保科さん」
「あ、はい」
「大丈夫だね」
「はい。あ、やだ、いろいろ落としちゃった」
「書類も落ちたね」
「はい。大丈夫です。拾います」
「今無理して拾わない方がいい。止めなさい。どうせ見えないよ。待っていれば、すぐ明かりが戻る」
「あ、はい。でも」
「保科さん」
「はい」
「ここって、監視カメラがついてるのかな」
「え? ええっと…何にも光ってないし、ついてないんじゃないでしょうか」
「ついてないんだ。さすが、我らが市役所のエレベーターだ」
「はい、市役所のエレベーターですから」
二人は暗闇の中でくすくすと笑い合った。
(吉田こういち君の独り言) おい、今がチャンスだろ? 今しかないだろ! 完璧なシチュエーションじゃないか。抱きしめてキスしてしまえ! 保科さん怒るかなあ。怒るだろうなあ。でも完璧にどさくさに紛れてってわけでもないんだけどな。監視カメラ、本当についてないのかなあ。
(保科かおりさんの独り言) どうしよう。危険すぎないこの状況? 吉田さんと暗い密室に二人きりなんて・・・。京子ちゃんに話したら羨ましがるかも知れないけど、私は・・・私は、どうしよう? もし不意に抱きしめられたりしたら! ばっかじゃない、私。私、どうかしてる。あ、もうやだ、全部落としちゃった。ここ、監視カメラないって本当?
「保科さん」
「はい」
「君は、君のやり方でやればいい」
「え?」
(吉田こういち君の独り言) 何言ってんだ俺?
「保科さん」
「は・・・はい」
「全部落としたね」
「あ、はい。見えましたか」
「見えてないけどね。拾おう」
「え、でも、見えません」
「慎重に手で探れば、わかるよ」
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「これで書類は全部かな。ええと、手を出してごらん。そう。受け取ったね」
「あ、あ、はい。ありがとうございます」
「それからペンと、ペンは・・・もう一つ向こうに転がったような・・・あった、ペンは全部で三本だね?」
「あ、はい」
「書類を抱えたまま、丸めて突き出して。そう。ここに滑らせて入れるからね。落ちないようによろしく。まだ動かないで。それと・・・あった、付箋紙だ。これで全部だろう。これもここに入れておくからね」
「あ、あの、ほんとに、ほんとにありがとうございます」
「うん」
(吉田こういち君の独り言) さあ、どうする俺?
(保科かおりさんの独り言) やだ・・・私・・・どうしよう?
「保科さん」
「はい」
唐突に電気がついた。がくん、と揺れたかと思うと、エレベーターが再び昇り始めた。中にいた二人はよろめいたが、保科さんも今度は何一つ落とさなかった。一階分上昇したのち、ちん、とまるで何事もなかったかのように停車し、扉が開いた。扉の向こうでは、心配というよりは好奇の目を光らせたスーツ姿の男女たちが十人ほど、寄り集まって二人を迎え入れた。「おお、大丈夫だったか?」「君たち二人だけが閉じ込められたのか」「二人だけ?」「定員オーバーってわけじゃなかったんだ」「そんなわけないでしょう課長、そんなんだったら途中で止まりませんよ」「いやまあとにかくお疲れさん!」
「助かったね」
「・・・助かりました」
「お疲れさま」
「お疲れさまです」
この話はここで終わる。こんなところで終わるのかと言われても、終わるのだから仕方ない。エレベーターを出た二人にその後も長く同僚たちから浴びせられた質問や野次や冷やかしの数々は、ここに記すほどのものではない。