た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

怪しい病気

2017年06月30日 | essay

 朝起きて、まぶたの上が痒い。

 さては虫に刺されたかと、適当に掻きながら過ごしていたが、二、三日経っても腫れがひかない。それどころか広がりを見せている。家人に勧められ、皮膚科に行った。聞くと、市内でも有名な皮膚科らしい。確かに有名だけあって、待合室は人でごった返していた。老人もいれば、女子高校生もいる。子どもを抱えた奥さんもいれば、中年男性もいる。私である。おそらく市内中の皮膚に問題を抱えた人たちが集まってきているのだろう。

 二時間待ってようやく診察室に通された。綺麗な女医さんが一目見て、「あ、これは帯状疱疹ですね」と言う。脇に立っている看護師も、おお、帯状疱疹ですか、といったしたり顔で頷いている。私一人狐につままれた顔で、「帯状疱疹って何ですか」と訊き返した。恥ずかしながら、この歳になるまでその四字熟語を聞いたことがなかった。聞いても耳に残らなかったのかも知れない。女医さんは、あなたは帯状疱疹も知らないで今まで生きてきたのですか、といった微妙な間を置いたあと、丁寧に症状を説明してくれた。おまけに隣の看護師がさっとパンフレットを差し出してくれた。帯状疱疹とは何かを書いた漫画入りのパンフレットである。どうも、それなりに名の通った病気らしい。「痛かったでしょう」と言われたので、「いや、そんなに」と言い返したが、「相当痛いはずですけど」とまともに取り合ってもらえなかった。自分は本当にその帯状疱疹なのか? やっぱり虫刺されじゃないのか? という一抹の疑念が残る。

 感染の恐れがないと聞いて一安心する。疲労がいけないらしい。たしかに最近疲れていた。いや、いつでも疲労していると言っても過言でない。パンフレットには、しっかり休息するようにと書いてあるが、それができる身分であれば、帯状疱疹にはならないだろう。

 薬が高いんですよ、と脅されて、薬局に行ったら、確かに高かい。念のため、「ジェネリックはないんですか?」と聞くと、その老薬剤師は、「ジェネリックはあることはありますが、帯状疱疹だけはねえ」と言う。隣にいた奥さんも、「帯状疱疹だけはよした方がねえ」と同じことを繰り返す。よほど重い病気らしい。

 薬を買ってお金を払ったとき、老薬剤師が「いつから発症しているんです?」と訊いてきた。「先週の半ばくらいですか」と答えたら、「え、そんなに前!」と驚き、ドリフターズのコントのようにとほほ、と腰の砕ける仕草までした。よくよく人を脅すことの好きな老人である。先週だったら命にかかわるとでも言うのか。「帰ったらすぐお薬を飲んでくださいね。帰ったらすぐですよ」と彼は私の背中に向かって何度も念を押した。

 家に帰り、家人に報告すると、老薬剤師以上に驚かれた。知り合いに話してもみな、「帯状疱疹!」と嘆き、同情してくれる。なぜ周りがそんなに騒ぎ立てるのか、ちっともわからない。まぶたの上が痒いだけである。それでも同情されること自体はそんなに嫌いではない。帯状疱疹という名前が、まるで軍隊の号令のように仰々しくて、その上薬が高価なので、何となく威厳を得た様な誤解までしている。

 薬を飲んで数日になるが、効いてきたような、いま一つのような感覚である。痒みがおさまったと言えばおさまった。やっぱり虫刺されじゃなかったのか、あの綺麗な女医さんは綺麗なだけに誤診したんじゃないか、と再び勘繰り始めている。

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読み切り短編『エレベーター・トラップ』 

2017年06月25日 | 短編

以前書いたものを少し手直しして載せました。一度読んだことがあると思われたらそのせいです。

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(吉田こういち君の独り言) 保科さんが来た。まずいな。さっき会議でぼろかすに言ったばかりなのに。エレベーター、まだ来ないかな。怒ってるだろうな、俺のこと。会議中泣きそうだったもんな。それとも泣いたのかな? でもこの子が悪いんだよ。どんくさ過ぎるんだよ、やることすべてが。まだ来ないのかエレベーター。このエレベーターもどんくさいんだよな。うちの市役所はどんくさいもので満ちているな。どうしてこの子、いつも抱えきれないほどの書類を抱きしめているんだろう。そこから間違ってるんだけど。今どき両手に山盛りの書類なんて、能率の悪い仕事をしてますって白状してるようなもんじゃないか。でもまあ、ちょっと赤い顔して、一生懸命書類を抱えている姿がとっても似合うって言えば似合うんだけどな。そういうのが似合う子だ。おいおい、エレベーターのやつ、一階で寝込んでるんじゃないのか。あ、付箋紙が落ちた。拾ってやるか。

 

 「あ、あの、あの、すみません。ありがとうございます」

 「いいえ。先ほどはどうも」

 「あ、こちらこそいろいろ、あの、ご指導ありがとうございます」

 「ご指導ね。ご指導か。ご指導ついでだけど、ちょっと荷物多すぎない?」

 「あ、これですか、すみません。でもこれ全部必要な書類なんです」

 「へえ。付箋紙も一束必要なんだ」

 

(保科かおりさんの独り言) やな人。ほんとやな人。まだ私を攻撃し足らないのね。イヤミばっかり言って、にやにや笑って。いつもイヤミ言ってにやけてるんだから。私にばっかり。私に気があるのかしら。多分そうね。自分が格好いいと思ってるから、いじめてやったらむしろ自分に惚れるだろうくらいに思ってるのよ。おあいにく様。確かにちょっとは格好いいかもしれないけど、心が醜いんです。心が醜い人は駄目なんです。ほんと悔しい。そりゃ私がいけないんだけど、でもあんなに言うことないじゃない。そりゃ私はまだ仕事ができませんよ。無駄な動きが多いですよ。勘違いばっかりですよ、確かに。じゃあどうすりゃいいの? 脳ミソ取り出して洗浄すりゃいいの? エレベーター遅いなあ。あ、やっと来た。

 

 砂の噛む音を立ててエレベーターの厚い扉が開き、中からどやどやと四人の男が降りた。三人はスーツ姿で、一人はくたびれたジャンパーを着た浅黒い男である。みな、つまらぬ場所からつまらぬ場所へ移動するような表情をして去って行った。彼らをやり過ごしてから吉田君と保科さんがエレベーターに乗りこむと、他に乗る者は誰もいなかった。エレベーターの扉は再び砂の噛む音を立てて閉じた。

 

(吉田こういち君の独り言) おいおい、保科ちゃんと二人っきりかい。まいったな。気まずいでしょ、いくらなんでもこれは。なんだかこっちまで緊張してくるな。さっきの言い過ぎのお詫びにお茶にでも誘ってみるか。案外喜んだりして。でもお茶に誘っても絶対断るタイプだよな。

 

 「また付箋紙落ちそうだよ」

 「あ、大丈夫です。すみません」

 「ほらほら、ペンが落ちたよ」

 「あ、すみません、すみません。大丈夫です。自分で拾えます」

 「いいよ。かがまない方がいい。ほらまた付箋紙が落ちた」

 

(保科かおりさんの独り言) 笑われてる! 笑われてるわ! 悔しい。私が間抜けなのよ。私っていつでも間抜けなんだから。コアラみたいに荷物抱えこんで。でもそんなに笑うことないじゃん。吉田さん最低。人がうろたえるのを見て喜ぶなんて、人間として最低。四階まだ? このエレベーターも最低! あれ?

 

 鉄骨を二三本折るような音を立てて、エレベーターは急停止した。溜息のような音を漏らし、電灯もすべて消え、機械音が止んだ。扉が開くわけでもない。まるではるか昔から外界と隔たった空気を密かに保管してきた隔離倉庫のようであった。自分の指先も見えないほどの真っ暗闇に戸惑う若い男女を納め、エレベーターは固く沈黙した。  

 

 「どう・・・どうしちゃったんでしょうか」

 「真っ暗だね」

 「壊れたんですか」

 「停電かな」

 「やだ、どうしましょう」

 「さすが市役所のエレベーターだ。人を閉じ込めておいて、アナウンスの一つもない」

 「怖い」

 「大丈夫だよ。知らないけど」

 

                  沈黙。心なしか蒸し暑い。

 

 「保科さん」

 「あ、はい」

 「大丈夫だね」

 「はい。あ、やだ、いろいろ落としちゃった」

 「書類も落ちたね」

 「はい。大丈夫です。拾います」

 「今無理して拾わない方がいい。止めなさい。どうせ見えないよ。待っていれば、すぐ明かりが戻る」

 「あ、はい。でも」

       「保科さん」

             「はい」

                 「ここって、監視カメラがついてるのかな」

 「え? ええっと…何にも光ってないし、ついてないんじゃないでしょうか」

 「ついてないんだ。さすが、我らが市役所のエレベーターだ」

 「はい、市役所のエレベーターですから」

 

                 二人は暗闇の中でくすくすと笑い合った。

 

(吉田こういち君の独り言) おい、今がチャンスだろ? 今しかないだろ! 完璧なシチュエーションじゃないか。抱きしめてキスしてしまえ! 保科さん怒るかなあ。怒るだろうなあ。でも完璧にどさくさに紛れてってわけでもないんだけどな。監視カメラ、本当についてないのかなあ。

 

(保科かおりさんの独り言) どうしよう。危険すぎないこの状況? 吉田さんと暗い密室に二人きりなんて・・・。京子ちゃんに話したら羨ましがるかも知れないけど、私は・・・私は、どうしよう? もし不意に抱きしめられたりしたら! ばっかじゃない、私。私、どうかしてる。あ、もうやだ、全部落としちゃった。ここ、監視カメラないって本当?

 

 「保科さん」

 「はい」

 「君は、君のやり方でやればいい」

 「え?」

 

(吉田こういち君の独り言) 何言ってんだ俺?

 

 「保科さん」

 「は・・・はい」

 「全部落としたね」

 「あ、はい。見えましたか」

 「見えてないけどね。拾おう」

 「え、でも、見えません」

 「慎重に手で探れば、わかるよ」

 

 ・・・・・・・・・・・ 

 

 「これで書類は全部かな。ええと、手を出してごらん。そう。受け取ったね」

 「あ、あ、はい。ありがとうございます」

 「それからペンと、ペンは・・・もう一つ向こうに転がったような・・・あった、ペンは全部で三本だね?」

 「あ、はい」

 「書類を抱えたまま、丸めて突き出して。そう。ここに滑らせて入れるからね。落ちないようによろしく。まだ動かないで。それと・・・あった、付箋紙だ。これで全部だろう。これもここに入れておくからね」

 「あ、あの、ほんとに、ほんとにありがとうございます」

 「うん」

 

(吉田こういち君の独り言) さあ、どうする俺?

 

(保科かおりさんの独り言) やだ・・・私・・・どうしよう? 

 

 「保科さん」

 「はい」

 

 唐突に電気がついた。がくん、と揺れたかと思うと、エレベーターが再び昇り始めた。中にいた二人はよろめいたが、保科さんも今度は何一つ落とさなかった。一階分上昇したのち、ちん、とまるで何事もなかったかのように停車し、扉が開いた。扉の向こうでは、心配というよりは好奇の目を光らせたスーツ姿の男女たちが十人ほど、寄り集まって二人を迎え入れた。「おお、大丈夫だったか?」「君たち二人だけが閉じ込められたのか」「二人だけ?」「定員オーバーってわけじゃなかったんだ」「そんなわけないでしょう課長、そんなんだったら途中で止まりませんよ」「いやまあとにかくお疲れさん!」

          

 「助かったね」

 「・・・助かりました」

 「お疲れさま」

 「お疲れさまです」

 

 この話はここで終わる。こんなところで終わるのかと言われても、終わるのだから仕方ない。エレベーターを出た二人にその後も長く同僚たちから浴びせられた質問や野次や冷やかしの数々は、ここに記すほどのものではない。

 

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鹿沢温泉

2017年06月19日 | essay

 朝からの曇り空の下、当初予定していた渓谷行きを断念し、漠然と軽井沢を目指して車を走らせる。白糸の滝を見物し、古物商を冷やかし、帰路に就く。ひと風呂浴びてさっぱりしたくなり、地図のみで知る群馬は鹿沢温泉を目指してハンドルを切り、北上する。

 時刻ははや夕暮れ時。奥座敷にスキー場まで抱える山道は、勾配がかなり急である。あとどれだけ走れば辿り着くかもわからない。不安に襲われる。それでも走り続ける。鹿沢温泉は、私にとってほぼ一年越しの宿願なのだから。

 一見、無味乾燥で中性的に描かれた地図も、じっと眺めていると、何かしら訴えてくる箇所がある。鹿沢温泉はそんな存在だった。一年ほど前から、地図を見るたびにそこが気になって仕方なかった。実は数か月前にも行くチャンスがあったが、遠いということと、他に温泉はいくらでもあるという理由などから、見送った経緯があった。今回を逃せば、次はいつかわからない。もう再び目指さないかも知れない。私はハンドルを強く握り、レーシングゲームのような難所をひたすらに登った。

 スキー場を越え、下り坂に変わったところで、その目的地に辿り着いた。新しい建物と納屋のように古く見える建物が併設してある。温泉はその納屋みたいな方らしい。

 五百円を払って中に入る。

 狭い簀の子板を踏み鳴らせば、男湯の紺の暖簾と女湯の薄紅の暖簾。全てが長い年月を耐えてきた、慎ましい風格を湛えている。何かとても懐かしい感覚を覚えながら浴室に降り立つ。

 湯気が高い天井までもうもうと立ち昇り、窓から差し込む光も淡い。ちょっと洞窟に迷い込んだような錯覚を覚える。半分朽ちたような外観の湯船。そこを溢れかえる白濁の湯。そうだ、昔の温泉はみんなこんな感じだった。余分な装飾は一切なし。露天もなければ、下手をすると洗い場すらない。だがそれでよかったのだ。なぜなら、温泉につかりに来たのだから。素敵な景色を眺めたり、リッチな気分に浸りに来たのではない。温泉を求めて来たのだ。いにしえから受け継がれた信頼に足る泉質の湯が溢れていれば、それで十分なのだ。

 湯は鉄分や塩分を含むらしく、じんじんと体に浸み込んできた。思わずうなり声をあげて四肢を伸ばす、そういう類の湯だった。最高だ。なんだ、やっぱり最高とはこんなところにあったんだ。そう思いながら、私は何度も湯で顔を洗った。

 

 

注:写真は白糸の滝。なお、帰宅後調べてみると、鹿沢は千年以上の歴史ある温泉と判明した。気になっていたのなら前もってこういうことを調べておかなければいけない。肝心の鹿沢温泉の写真がないのもいけない。

 

 

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不定期連載 『街よ、踊れ!』 ~4~

2017年06月17日 | 連続物語

♦    ♦    ♦

 

 二軒目は駅前まで歩いて、『華園』という中華料理屋に入った。松本らしさを教えると言う割には、案内する先がアイリッシュパブだったり中華料理屋だったりと、今一つ地域性に欠ける気がしないでもない。本田博に言わせると、これこそが今の松本なのだそうだ。おそらくただ、自分の行きつけの店というだけの理由だろう。

 天井の高いだだっ広い店で、客はほとんどいない。皿数が六つばかし、瓶ビールが一本テーブルに並んだ。我々二人は戦場から帰還してきた兵士のように、それぞれの椅子の背もたれに上体を深く沈めた。初めて出会った人と意気投合し、互いにはしゃいでしゃべり合うが、やがて話のネタが尽き、どっと来る疲労感と共に、信頼関係はそんなに簡単には築けないことを再確認することがある。そのときの我々はまさしくそれであった。酒臭い息を吐き、焦点の定まらない目をしばたたいて、今更ながら思う。だいたいこいつは何なんだ。

 私は深い吐息をついた。

 「ビールか。これ以上飲めるかな」

 本田博は据わった目つきで私を軽蔑したように睨み、しゃくれた顎をさらに突き出して舌打ちした。「なんだおい、もう酔っぱらったのか。日本中旅している割にゃ大したことねえな」

 「馬鹿にするな。そんなに酒が強くないんだ」

 「だから馬鹿にするんじゃねえか。おい、そんなことでほんとに日本一周できるのか?」

 私は失った力を取り戻したかのように上体を起こし、奴のグラスにビールを注ぎ返した。

 「日本一周が目的じゃない」

 「じゃあこの街に留まれ」

 「店を手伝えってことか」

 「共同経営だ。お前も身銭を切れ」

 「身銭なんてあるわけないだろ。俺は旅行者だぞ」

 「ちぇっ、貧乏旅行者か。それでもいい。俺の店を手伝え」

 私は片肘を突き、相手の顔をまじまじと眺めた。

 「どうしてなんだ? 今一つわからない。どうして、あんたは今日会ったばかりの人間をそんなに信用するんだ」

 は! と一つ、笑い声とも掛け声ともとれる叫びを上げると、彼は天井から落ちてくる何かを受け取るかのように両手を掲げてみせた。

 「信用してるんじゃない。利用してんだ」

 「何」

 「ここは料理が安くてうまい。が、女っ気がなくていかん。よし、おい、あとで女のいる店でも行くか」

 「利用してるってどういうことだ」

 「怒ったのか? お前は。短気だなあ。おい、お前がどこの馬の骨か、そんなの、今の今出会ったばかりの俺にわかるわけなかろうが。お前にとっても、俺がどこの馬の骨かなんてわからんだろう。当たり前のことじゃねえか。人間同士なんてしょせんそんなもんだ。出会って一日目だろうが、一年目だろうが、何十年一緒に暮らそうが、わからん部分はどれだけ日数を過ごしてもわからんまま。逆に言やあ、わかる部分は、ひとこと言葉を交わすだけでもわかる。そんなもんだろ、人間同士なんて。お前、思ったより呑み込みの悪い奴だな。よし、じゃあお前にわかるように教えてやろう」

 本田博は失礼極まる言葉を吐くと、ぐっと身を乗り出し、私に酔った顔を近づけた。

 「これはチャンスなんだ。いいか。これはチャンスなんだ。お互い。俺とお前、お互いにとってだ。確かに、チャンスは人生に一度きりじゃない。まだいくらでもある。だが、これも大事な一つのチャンスであることには間違いない。そう言ったものを一つ一つ、ぐずぐずしてるうちに逃してたら、いつの間にか爺さんになって、気付けばあと人生残すところ二日三日、なんてことになりかねないんだ。わかるか? 俺は店を開きたいと思ってる。人手が必要だ。しかし誰でも彼でもいいってわけじゃない。俺の見込みに合う人間じゃないといけない。その点、お前さんは俺の見込みに合う。と言うか、たぶん合いそうだ。しかも都合がいいことに、大学を出て、就職もせずにぷらぷら旅行している。つまり、時間と自由があるってことだ。これを利用しない手はなかろう? え? そうだろう。お前もせいぜい俺を利用すればいい。どうせあれだろ、自分探しか何かで旅行してるんだろう? だったら、ここで探してみなよ。この松本で。案外、面白いもんが見つかるかも知れんぞ。もちろん、そんなもん見つからんかも知れん。だったらそれまでのことだ。ああ、ここは合わんな、と思ったらさよならすりゃあ済む話じゃねえか。お前は再び旅に出ればいい。俺は別な奴を探す」

 片手を振り上げながらそう言いきると、彼はグラスのビールを飲み干し、空瓶を振って、「にいちゃん、もう一本!」と厨房に向かって叫んだ。

 私は腕組みをし、うめき声を上げ、考え込んだ。

 

(つづく)

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ワイン巡り

2017年06月13日 | essay

 先日、美ケ原温泉旅館組合主催のワイン巡りとやらに顔を出した。千五百円で、旅館を六軒回り、それぞれにワイン一杯とつまみをいただくというものである。これに参加賞のつもりか箸までついてくるから、随分お得である。地元の温泉宿なんて普段利用する機会がないから、門の内側をあれこれ覗けるだけでも面白い。つまみもそれぞれの宿が趣向を凝らしていて、これまた面白い。旅館と旅館の間をけっこう歩くが、ほろ酔い加減だと路地を抜ける風も心地よく、これはまたこれで気持ちよい。そんなに楽しいものともつゆ知らず、夕方残り一時間くらいになってから参加したので、元を取ろうと慌てて歩いて汗を掻いたのだけは後悔した。

 カメラを忘れたので、写真はない。腕時計まで忘れたので、時間がわからなくて困った。気楽なものである。だが参加している面々を見ると、みんな似た様な気楽な人種であった。そのような人種を呼ぶ催しものであったと言える。

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菜園

2017年06月11日 | essay

 一大決心をして家庭菜園を始めた。ただし半畳ばかりの小さな畑である。猫の額と言ったら猫が怒りそうなほど狭い庭なので、とれる面積もそれがせいぜいである。それでも気分だけはいっぱしの農家気取りで、何を植えるかでさんざん悩んだ。選んだのは、ミニトマトときゅうりとピーマン。場所もないのに欲張ったものである。しかも苗を買い付ける段になって、ふとした気まぐれで種から育苗器で育てることになった。まったく素人の浅はかさである。経験をしていない者ほど、「どうせやるなら本格的に」などと意気込んでいきなり高難度に挑戦し、失敗するのである。兼業農業である実家の母に電話で報告したら、馬鹿にされた。そんなことをする農家はいないのだそうだ。

 それでも種は同居する義母の献身的な水やりのおかげでちゃんと発芽し、地植えも無事終え、現在、なかなかに立派な姿を見せている。きゅうりは花も咲いた。そのことを実家の母に報告したら、苗から育てたきゅうりはすでに収穫を始めているとのこと。「ま、せいぜいがんばってください」と冷やかされた。

 実がなるかどうかはまだわからない。実家の母の冷笑も気になるところである。それでも、はや充分に楽しませてもらっている。

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南木曽より妻籠まで

2017年06月02日 | essay

 JRの南木曽駅から妻籠宿までを歩く。妻籠から馬籠までのコースほど人気がないのか、単に平日のせいなのか、行けども行けども人とすれ違わない。風が心地よい。山肌に沿って石畳が連なる。街道脇の家々はつつましく庭木を剪定し、寂寞(じゃくまく)たる竹林が物思いを誘う。

 背に汗が滲み始める。だんだんと、忘れかけていた時間の流れを思い出す。

 

 一軒家の前で立ち止まった。

 妙な石膏像が窓からこちらを覗いている。思わず覗き返していたら、奥から人が出てきた。聞くと、芸術家の先生の実家とか。出てきたのは、先生のお母さんであった。なるほど、こういう場所で制作活動をしたら、せせこましい世の中を睥睨(へいげい)するような作品ができるかも知れない。

 家を辞して、さらに街道を行く。

 なだらかな坂をいくつか登り、沢を二つほど渡る。石段を下ったら、妻籠宿に辿り着いた。蕎麦屋がある。土産物屋がある。買い物袋を提げた観光客があちらこちらを指さしている。

 いつの間にか、いつもの時間に戻っていた。

 

 蕎麦屋で蕎麦を食い、朴葉(ほおば)巻きを買って、帰路に就いた。

 

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