青空、それも絵の具を延ばしたように鮮やかな青空を見上げると、私はいつも、小学四年の夏の運動会のことを思い出す。
もう二十年も前のことになる。
障害物・借り物競走という種目が当時はあった。今はあるのか知らない。
まず網の張ったマットに飛び込み、網とマットの間をくぐって抜け出す。それからピンポン玉を卓球のラケットに載せて運ぶ。もう一つ、フラフープで縄跳びをするようなことがあった気もするが、はっきりとは覚えていない。そこまでが「障害」である。それら一連の課題をクリアすることは、私にとっていとも易しいことであった。特にピンポン玉が私のお気に入りであった。スピードとバランス感覚を求められるところがいい。玉を落とさないことなど何の問題でもない。玉を安定させたままいかに身体を傾けてコーナーを回り、観客の歓声を受けるか、ということが私の主要な関心事だった。私は一番手の組に出場した。後続の見本となる組である。小器用で走りも得意であった私は、予定通り、誰よりも真っ先にマットを抜け、玉をラケットに載せて最初のコーナーに差し掛かった。私はスケート選手のように身体を傾けてコーナーを回った。余裕があったのであろう。私は走りながらも、ちらりと観客席に目をやった。母の座る位置から、そのコーナーが一番見えやすいことを知っていたのだ。母に私の勇姿を見せたかった。母が見てくれていることを確かめたかった。母は、泣いていた。
あまりの意外さに、私は呆然としてしまった。母は私を見つめながら大粒の涙を流していたのだ。やせた肩を震わせ嗚咽までしていた。予想だにしないことであった。手足の筋肉から一気に力が抜けた。一瞬の油断であった。私は脚を滑らし、横転した。派手な横転であった。肘も体操服も砂だらけになり、あまつさえピンポン玉を砂煙の中に見失ってしまった。それでも私の目は、一度視界から失った母の姿を探した。母は同じ場所にいた。やっぱり泣いていた。薄桃色のハンカチを口に当て、晴天の運動会とはどこまでも不釣合いに泣いていた。
それで私は忽然と思い出したのだ。父が一ヶ月前、若い女を作って家を出て行ったことを。花瓶が割られ、怒号が響き、母が玄関で泣き崩れたことを。やがて写真立ての写真が外され、母は夕食を作る気力も失い、それでもようやくここ数日で外出できるようになったことを。
無論それは十歳の私にも相当ショッキングな出来事であった。私は父の酒癖や遊び癖は好まなかったが、それでも母と同じように愛していた。父親が母を押し倒して出て行ったことは許せなかった。おそらく一生許せないだろう。しかし許すことと愛することは別だということを、私は父に対する思いを通じて知った。父の出奔ののちも、休日になるとときどき父に会いに行った。父も私には会いたがった。母は二度と会おうとしなかった。止むを得ないことである。二人が別れるのはもっともであり、二度と家族が元に戻ることはないのだと子どもながらに理解していた。家の中で悲鳴や罵り声を聞き続けるよりはマシだ、たぶんマシなんだ、とくらいに思っていた。
だが今日は運動会であり、抜けるような青空であり、私は活躍していた。まさか母が泣いているとは思わなかった。なぜ泣いているのかしばらくは想像もつかなかった。おそらく母は懸命に走っている私を見ているうちに、様々な思いが去来して気持ちが一杯になったのであろう。
母が何度も手を横に振った。何の合図か初めのうちはわからなかったが、「行け」という指示であることに思い至った。実際、すぐさま態勢を立て直し、ピンポン玉を拾って走り出さなければビリの座から到底逃れられない状況にあった。他の組の生徒はとっくに私を抜かしていた。何より、私が母をじっと見詰め続けることが母には耐え難かったのであろう。彼女の周りにいる少なからぬ父兄が、私の視線に気づいて母の方を伺っていた。
野良猫を追い払うような手振りに内心傷つきながらも、私は砂まみれの身体を起こし、ピンポン玉を探した。ピンポン玉は後から走って通り過ぎた生徒に踏まれ、半分めり込んでいた。その潰れた玉をラケットに載せ、砂だらけの痛々しい姿で、それでも私は白線まで走った。
障害物・借り物競走に対する私の情熱は急速に失われていった。私は一刻も早くこの競技から逃れたかった。だが、まだメインの「借り物」が残っていた。
テーブルに駆け寄り、最後に一つだけ残っていたメモ用紙を拾い上げた。
「あなたのお父さんかお母さん」。それが私に課された借り物であった。
私はすぐさま母のいた場所に目をやった。遠くでわからない。あんなに泣いていた母を連れ出して衆人の目に晒すのかと思うと億劫であったが、躊躇している間はない。もちろん父はいない。母しかいないのだ。私は駆け足で観客席の母のいた場所に向かった。
母はいなかった。彼女はいつの間にか会場を去っていた。泣いている姿をこれ以上人に見られることが忍び難かったのである。(実際、あとになって母親はそのように理由を言い、何度も私に謝った。)
私はトラックに立ち尽くし、再び動けなくなった。メモ用紙を汗ばむ手で握り締めたまま、どうしたらよいのか皆目わからなかった。歓声が遠くに聞こえた。そのほとんどは私に向けられた歓声であることが容易にわかった。太陽が急に温度を上げたような気がした。耳鳴りがし、立ちくらみを覚えた。地面にしゃがみこみたい衝動に駆られたが、砂だらけの両足を踏ん張り、私は必死に耐えた。
(終)