昼下がりの街に出る。
風は冷たい。トレンチコートのポケットに両手を突っ込み、うつむき加減に歩く。
夜の街をそぞろ歩くことが絶えて無くなったので、仕事合間に出かける昼間の散歩が、最近ではほとんど唯一の自由時間である。寒くても歩く。何かないかと思いながら歩く。通りからは枯葉も姿を消し、空っ風だけが車のエンジン音と排気ガスを掬いあげながら駆け抜けてゆく。歩く人も少ない。
最近何人か死んだ。ずっと身近にいた人もいれば、一度会ったきりの人もいる。仕事は忙しい。年末でなおのこと忙しい。例年通りだ。毎日できること(それはつまり決まりきったことだが)をして、できないことがもう一方の見えない机の上に積み上がっていく。背後から死者にじっと見つめられている気がする。何か、おそらくもっと大事なことをしなければいけないはずだが、それが何なのかわからない。それを考える余裕すらない。
どうにも心が落ち着かない。喫茶店に入って珈琲でも飲もう。
太鼓橋を渡りながら、赤い欄干越しに女鳥羽川を眺め下ろしたら、自分の心と同じ色をしていた。
行く手におきな堂が見えた。そうだ、おきな堂に入ろう。
久しぶりに木製のドアを押した。ランチの時間の洋食屋だが、喫茶だけでも許されるだろうか。
店内は空いていた。高い天井、古びた革張りのソファー、角のすり減ったテーブル。昔と変わらない時間が流れている。
窓辺の席に座り、珈琲を注文する。三百円。こんなに安かったろうか?
運ばれてきた珈琲を口に含み、背もたれに身を沈める。
美味しい。これで十分だ。
窓辺から差しこむ弱い日差しをぼんやりと見つめながら、今日これからしなければいけない事務処理のことを考える。いや、仕事なんて考えるのをよそう。そのために来たんだから。じゃあ何を考える? できていないこと。旅がしたい。愉快に飲み歩きたい。いろんな人に会いたい────本当にそれがしたいのか?
毎日を、もう少し丁寧に過ごしたい。
仕事も。ほら、また仕事のことだ。何だか、心を解放するのが下手になった。若い頃よりずっと。
珈琲をもう一杯注文する。ついでにセットで甘いものでも食べてみようか。普段、滅多にしないことだ。デザートなんて頼むくらいだったら、もっと高価な食事をするか、もっと飲みに使いたい。そんなせせこましい根性になったのは、やはり懐の寒さによるものかも知れない。そういうところから変えてみなければ。値段も手ごろなことだし。
デザートは幾つかの候補から選ぶことができた。レアチーズケーキを、と口にしてから、別の文字が目に入った。
「すみません。パンナコッタって何でしたっけ」
店員はわずかに身を屈め、イタリアのプリンで、牛乳だけでできているものです、と説明した。「パイナップルのシロップが上にかかっています」
注文を終え、再び背もたれに身を沈めた。
二人連れの客が現れ、奥の席に通された。一人客が席を立った。
イタリアのプリンはあっさりして、シロップが利いていた。珈琲に合うかどうかはわからないが、誰かに優しく慰められた味がした。
二杯目の珈琲を、一杯目よりも時間をかけて飲んだ。
これを飲み終わっても、結局、心が完全に解放されることはないだろう。ぼんやりとした落ち着きどころの無さは依然として残るだろう。そういう予感がした。試みに眼鏡を外してみたが、同じことだ。ものがはっきり見え過ぎるせいかと思ったのだが。完全に日常から解き放たれるのは、今日も、明日も、これからもずっと、なし得ないことなのだろう。
無理なんだ。仕方がない。年齢もあるだろうし、いろんな出来事が積み重なり過ぎた。冬の景色もいけないのかも知れない。
でも、多分、人生とはそういうものなのだろう。
珈琲カップを空にし、外した眼鏡を掛けた。コートを羽織り、レシートを摘まみ上げた。
仕事に戻ろう。
席を立った。