た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

失われた慣習  2  『やぎのちち』

2021年01月19日 | 失われた慣習

 前回牛の乳の話をしたついでに、やぎの乳の話を。『失われた慣習』というテーマから、二話目にしてすでに逸脱しそうな予感がする。

 

 私が幼い頃、我が家では牛のみならずヤギも飼っていた。何のために飼っていたのか今もって定かでない。幼い頃質問しても、適当にはぐらかされた覚えがある。ヤギの乳を採るためであったのなら、たった一頭、しかもまだ子どものようなヤギである。大して採算が合わなかったろう。年度の変わり目くらいになるとヤギがいつの間にかいなくなり、数日後、新しいヤギが来ていることが何度かあった。だとすると食肉として出荷されていたのだろうか。ヤギの肉なんて食べる人がいるのだろうか。いまだにわからない。わからないままでいいと思う。思い出というのは、ぼんやりと謎めいていた方が、思い出し甲斐があるというものだ。

 

 いずれにせよ、私と兄の二人兄弟にとっては、ヤギはなかなかの愛玩動物であった。まったくのペットというわけではないが、実用的な家畜になり切れていないところが良かった。ただメーメー鳴いているだけなので、からかいやすかった。兄が一度、小さなヤギの背中に乗ろうとしたことがある。乗馬の要領で、大股を広げて背中に尻を落ち着けようとするが、ヤギは相手が子供とは言えそんな重量のものを背負ったことがないので、メーメー鳴きながら逃げようとした。ひどい兄である。

 ヤギの乳というものがお茶の時間によく出たが、臭くて、とても飲めたものじゃなかった。ところがそれをアイスクリームにすると、驚くほど濃厚な旨さに変じた。

 当時、「どんびえ」という、家庭用のアイスクリーム製造機が大流行していた。あらかじめ容器を冷凍庫で冷やしておいて、そこに材料を投入し、レバーを回しながら攪拌(かくはん)する。それだけで手軽なアイスを楽しむことができた。あの時代ほとんどの家庭に常備してあったはずである。便利と知れば何でも大流行する時代であった。

 我が家では祖母が主にどんびえの担当であった。たこ焼きもそうだが、主婦の座を嫁に明け渡した老女の仕事として、簡単で孫たちに受けるアイスクリーム作りは極めて都合よいものだったのだろう。どんびえよりさらに原始的だが、プラスチック容器にオレンジジュースを充満させ、割り箸を差しこんで冷凍庫で冷やすという、オレンジシャーベットもよく作っていた。そう言えば、バナナの皮を剥いてラップで包み、ただ凍らせるだけという奴もあった。あれはさすがに、幼い私にもあまり上等なアイスだとは思えなかった。

 どんびえの時だけ、にわかに脚光を浴びたヤギの乳も、普段はさほど求められることもなく、いつも冷蔵庫に眠っていた。私が小学校に上がり、しばらくして、我が家はヤギを飼うのを止めた。家畜の世話を担っていた祖父が、高齢を理由に「もうやらん」と宣言したからである。

 ヤギがいなくなっても、家庭での日常生活は格別何も困らなかった。とすると、ヤギの存在意義は初めから大してなかったのかも知れない。ただ、子どもである私は多少なりとも、心にさみしさを感じていた。

 ヤギをまだ飼っていた頃、一度だけ出産に立ち会ったことがある。ぬめぬめとした膜に包まれた子ヤギが藁の上に横たわっていた。血もところどころについていた。衝撃的な光景であった。あの出来事から学んだことは多かったろう。命について。そのはかなさと、執念と。個々の力ではどうすることもできない宿命について。

 それだけでも、私はヤギに感謝しなければいけない。

 

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失われた慣習  1  『うしのちち』

2021年01月12日 | 失われた慣習

 新年になったが、相変わらず息の詰まりそうな世情である。丁寧に時間をかけて文章を載せる暇がない個人的状況も相変わらずである。仕方ないので、昔存在したが今の社会からほとんど姿を消したと思われる慣習を年寄りから聞いたり自分で思いついたりするまま、ここに断片的にでも書き留めていこうと思う。専用のカテゴリーまで作ったが、一作目で終わるかも知れない。たとえ続いたとしても、当然取材の機会がないので、私個人の記憶が大半を占めるであろう。

 色んなことが出来なくなっている今現在の世の中だから、案外、読む人に懐かしんでもらえればと、わずかな期待を寄せている。

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 一回目は、ミルク。牛の乳である。

 私は幼少期、隣の家まで歩いて五分かかるようなひどい田舎に暮らしていた。その隣家が牛を飼っていたので、牛の乳をもらいによく使いに行かされた。我が家でも牛を飼っていたが、おそらくそれは肉牛で、隣の家は乳牛だったのだろう。よく覚えていない。何で我が家で飼っている牛のミルクじゃダメなのか母親に抗議して、何度説明を聞いてもよくわからなかった記憶が薄っすらと残っている。だいたいがぼんやりした頭の子だったのだ。物わかりの悪い上に我が儘な性分だったから、お使いも面倒くさく、よく駄々をこねた。それでもしばらくの抵抗ののち、結局は空の一升瓶を抱えて隣の家へのあぜ道を歩いたものだ。

 私が行くと、向こうではよく来たと喜んでくれ、決まったようにロールケーキを一切れくれた。これが私のお駄賃であった。私の母ではなく隣家がお駄賃を払う理由が今となると多少疑問だが、当時はそれが何よりのご褒美に思え、嬉しかった。うきうきしながら、白いミルクで重くなった一升瓶とロールケーキを両手にあぜ道を戻った。だが後日、また使いに行かされる段になると面倒な気分が再燃するのであった。その度にぶつぶつ文句を垂れ、それでもまた終いには使いに行った。その繰り返しであった。

 金銭のやり取りはどこでなされていたか知らない。我が家の稲刈り後の藁を牛の飼料として隣家に提供していたようだから、その見返りかも知れない。いや、その見返りは牛の堆肥だった気もする。いずれにせよ、物々交換がまだ田舎では残っていた時代であった。

 ちなみにお使いに行かされたのは、男二人兄弟の中で決まって次男の私であった。兄はうまく立ち回って面倒な使いから逃げていた気がする。あるいは私がぼんやりした子だったから、将来独り立ちできるよう、親がなるべく簡単な使いを私に振り分けていたのかも知れない。

 何しろぼんやりしていたから、あぜ道を歩いているうちに、お使いで行かされていることすら忘れる始末であった。空はいつも青く、雲が流れ、あぜの雑草からはいろんな虫が飛び交っていた。

 少年時代の思い出である。

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