た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

なぜ

2008年10月22日 | essay
なぜ、という問いかけには性質の違う複数の問いが混在している。

なぜ宇宙は存在を始めたのか。

この問いには原因のみならず目的に対する関心も含まれうる。

なぜ宇宙は存在を始めたのか。

この問いが目的を問うものであるとすれば、いかなる科学も答えられまい。

科学は分析する。

いつの日か現代科学が、宇宙の始まりをまるで再生ビデオを見せるように微に入り細を穿つまで詳細に描写できたとしても、ではなぜそうなったのか、という問いには答えられない。

──aが原因でbが起こったんです。──ではなぜaが原因でbが起こるのですか?

このような問いには、科学はおそらく答えようとすらしない。

では目的を問うことは無意味であるのか。世界に目的はないのか。

目的とは、「描写の仕方」にすぎないのか。(2+3=5という式は、5=2+3と、描写の仕方が違う。言い表したいと狙うものが違うのである。)

うーん。(なぜ朝っぱらからこんなことを考えたんだろう。)
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梓川

2008年10月17日 | essay
 人を訪ねて車を走らせる。なんだかあんまり広くて動揺した。

 五、六度道に迷う。

 言い訳がましいが、道を造るから道に迷うのだ。

 こんなに開けた平野なら、方角だけあればいい。



 まあ言い訳である。
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喪失の記憶

2008年10月07日 | essay
 私事である。

 一緒に酒を呑みに行く人から、君は呑んでも決して乱れないねと、しばしば言われる。感心と言うより皮肉であろう。付き合いが悪いんじゃないか? 
 振り返ってみると確かに、ここ何年も泥酔した記憶が無い。グラスを傾ける一方で、冷静な部分を頭の隅に保とうとしている自分がいる。つまらない話である。呑まない方がましである。なぜこんな呑み方をするようになったのであろう。大学生のころは、路上に寝るくらい酒を浴びたこともあった。トイレから動けなくなることもあった。そこまで本腰を入れないときでも、少なくとも今より酔っ払っていた。今は、思い切り酔うつもりでいても酔えない。私が酒に強くなったのか。違う。私は臆病になったのだ。臆病? そうだ、私は記憶を失くすことが怖いのだ。なぜ? なぜそんなに記憶の空白を怖がるのか────原因を考えていたら、一つの古い思い出に突き当たった。
 大学生のころ、私は記憶を失くしていた。
 いや、正確には、記憶力を失くしたというべきであろう。当時私は大阪にいた。選択した講座の関係で、数十キロ離れた二つのキャンパスを行き来していた。車で混み合う真直ぐに長い国道を走破するには、中古で購入したツーリング用自転車が実に適していた。自転車を漕ぐ私の姿を、友人が遠目に見て、脚の動きが見えないくらい速かった、とあとでからかった。実際、そのくらい全速力で漕がなければ授業に間に合わなかったのだ。
 ヘルメットなど、もちろん被っていなかった。
 
 晴れた、少し蒸し暑い日であった。国道全体が排気ガスに霞んでいた。
 道のりを八割方走りきった地点である。脇道から飛び出してきた原付に跳ねられた。地面でしたたか頭を打ったらしい。面白いことに、私はそれでもすぐに飛び起きた。
 原付に乗っていた少年や、集まってきた通行人たちが困惑した顔で私を見つめた。
 「今何があったんですか」
 私は彼らに尋ねた。
 「あんた原付に跳ねられたんや」
 「はあ。なるほど」
 私は目をしばたたかせながら倒れている原付と自転車を眺めた。「今何があったんですか」
 「だから、跳ねられたんやろ」
 「そうですか。────今、何があったんですか」
 何があったかどころではない。私は記憶が残らなくなっていたのだ。

 異変に気づいた人が、私の手帳から私の友人の電話番号を見つけ出し、呼び出してくれた。私は友人に介抱されながら自分の下宿に戻った。そのはずである。事故後しばらくの記憶は、今もって再生していない。

 それでも、断片的ながら強烈な印象を残した場面が幾つかある。事故直後のやりとり。それから、私はおそらく警察署に連れて行かされた。時間帯はわからない。警官に机上で質問を受けた記憶がある。何を聞かれてもすぐに聞かれたこと自体忘れる私に、警官は相当手を焼いたに違いない。
 「だからお前さんも不注意だったんやろ」
 なぜだかそんな風に話が進んだ。担当の警官は早く仕事を片付けたがっていた。
 「お前さんも不注意やったんや。加害者の高校生はな、母子家庭なんや。ちょっと賠償は難しいで。だからまあ、人身事故やなかったということでええか」
 ずいぶん理不尽な話に思えたが、こちらに非があると言われれば、非がある気もする。何が理不尽だったかすらすぐ忘れる始末なので、私は警官の言葉にただただうなずくしかなかった。私は一刻も早くそこを立ち去りたかった。

 下宿に戻れば、私に付き添ってくれた友人を悩ました。
 「すまんな、看病してくれて」
 「だからもうええて。じっと休んどき」
 「うん。腹減ったろ。ピザでも取ろうか」
 「いらんて。腹減ってないから」
 「そうか。なあ、ピザでも取ろうか」
 「だからいらんって。何べん言うたらわかるねん」
 彼に根気強く説明されて、私はようやく自分の陥った事態を把握した。不思議なことだが、古い記憶はちゃんとあった。彼が私の友人であることもしっかり理解している。事故以降の新しい記憶だけが残らないのだ。しかし例えば、ピザをおごりたいとか、今何があったか知りたいとか、そういう気持ちの部分は連続するのだ。
 私は呆然となった。

 私の言動にさすがに心配になり、友人は私を救急病院に連れて行った。そこで何万もするCTスキャンをとらされたが、脳に外傷は発見されなかった。医師の説明によると、衝突のような急激な脳の揺さぶりで、一時的に記憶が残らなくなることがあるらしい。まあ、時間が経てば、元に戻るでしょう。ご安静に。
 嘘だ。私の落ち込みようはひどかった。信じられない。あの医者、なんて言ったっけ? ああ、私は、もはや普通の人のようにものを覚えることができない。一生このままなのだ。これからどれだけ生きても、私はすべてを忘れていってしまうのだ。
 私は、こんなに馬鹿になったのだ!

 記憶というものが、人間のアイデンティティの中でいかに大事な部分を占めるか。それを痛感した。私は、私自身が壊れる恐怖に襲われた。

 私は肉親や親しい人たちに遺書を書いた。別に自殺する気などないが、記憶能力を失った自分は、過去の自分とはまったく異質の生き物になる気がしたのだ。何を書いているのか書く端から忘れながらも、私は必死にペンを握った。遺書を書きたい、お礼を言う理性が残っているうちに、今まで分のお礼だけは言っておきたい、という脅迫観念があった。
 私は泣いたろうか? 覚えていない。たぶん泣かなかったろう。記憶が続かなければ、泣くことすらできないのだ。

 結局、一晩経った翌朝には、記憶力はほぼ完全に回復していた。平生の生活にはすぐに戻ることができた。事故の印象は風化した。しかしあの時味わった、記憶を失くすことへの恐怖心だけは、どうやらいまだ、私の深層心理から拭い去れないらしい。

 自分、という存在感は、水割りグラスに浮く氷のようにはかない。あのとき書いた遺書は、どこに仕舞ったかわからない。 
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□ ◇ _ 

2008年10月03日 | 写真とことば
遠くに知人がいるのは幸いである。

彼らを想い、今日も心に音楽が鳴る。
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