『シャイフ・アブドゥル=ラフマーン様がお越しです』
若い通訳は慌てて身を退いた。アラビア語のわからないヒロコも、名前だけは聞き取ることができる。彼女は火照った頬に手を当て、ひどくうろたえながら姿勢を正した。
香の煙が乱れる。
幕が開き、族長が姿を現した。
白い長衣に何重にも巻いた首飾りを下げ、その上に族長だけが身に着けることを許された彩り豊かな外套を羽織っている。ここ数か月のアル・イルハムの軍事的躍進が、彼の威信をかつてないほど高めていた。腰には宝石を散りばめた金色の短剣。威風堂々とした立ち姿に似つかわしい、長く黒々としたあごひげ。
族長はじろりと室内を見渡し、部屋の隅に小さくなっているサリムを見やった。
『なぜお前がここにいる』
『ヒロコ様のご命令で、戦況について説明していました』
『ふむ。まあ、お前がいると都合がよい。わしの話すことを英語で伝えろ』
『かしこまりました』
族長は正面を向き、超人的な力を持つ女を見据えた。ヒロコは動揺を悟られないよう努めて彼を見返した。
族長は片膝を立てて腰を沈めた。
『同志ヒロコに神のご加護を。時が来た。多国籍軍がこちらに向かっている』
サリムは目を見開いたが、すぐに英語に訳した。
族長は続ける。
『あなたの一層の活躍を、我々は期待している』
ヒロコは身じろぎもせず、族長のアラビア語とサリムの英語に耳を傾ける。
『今度の戦いは、今までのように簡単にはいかない』
族長は自らを落ち着かせるために言葉を切った。貫くような視線でヒロコを捉える。
胸を膨らませ、深呼吸を一つ。それからヒロコににじり寄った。
『同志ヒロコ。時は来たのだ。我々は本当の意味で団結して、一つになって外敵に当たらなければいけない。一つにならなければいけないのだ。ヒロコ。あなたは砂漠にかかる月のように美しい。あなたは私の妻として相応しい。私もあなたの夫として相応しい男である。一つになろう。これは、あなたがムスリムに改宗する絶好の機会でもある。どうか、私と結婚してほしい』
ヒロコは青ざめた。語られたのが求愛の言葉であることを、雰囲気で察知した。しかし、確かなことが知りたい。肝心の英語が聞こえてこない。若き通訳は、あまりに愕然として声が出なかったのだ。
族長の鋭い視線が通訳を捉えた。
『どうした。サリム。なぜ訳さない』
『いえ、はい。ただいま』
『なぜ汗を掻いている。なぜ顔が赤い』
シャリフ・アブドゥル=ラフマーンは、怒りに満ちた形相で、若い通訳と東洋の女を見比べた。明敏な彼は直観ですべてを悟った。
『おのれ、サリム。身の程を知れ!』
黄金の短剣が抜かれ、鋭いうなりを立てて弧を描いた。青年の首が血しぶきを上げて胴体から離れた。あっという間の出来事であった。首は、絶叫を上げることもできず天幕にぶつかり、床に転がった。
ヒロコは癲癇を起こしたように全身を痙攣させた。あまりの恐怖に腰が砕け、逃げ出したくても後ずさりすらできなかった。ヒロコは恐れおののいた。数多の人を焼き殺しながら、今初めて、彼女は死の恐怖というものを味わった。大量の鮮血。血痕が彼女の衣服にかかっている。アブドゥル=ラフマーンも、首のない胴体が倒れるときの返り血で真っ赤である。足元には血の池。
天幕の裾から、ジャミラががたがたと震えながら中を見つめていた。
顔までも血に染めた族長が、凄まじい形相でヒロコを睨みつけた。
もちろん、彼自身も命の危険と隣り合わせであった。火炎少女に燃やされる恐れがある。だが、彼の気迫ははるかにヒロコの能力を上回った。ヒロコは怒りを覚える余裕すら与えられなかった。彼女は子犬のように怯えた。
アブドゥル=ラフマーンは短剣を鞘に納めた。荒い息で肩が上下する。
『敵の襲来に備えろ』
彼は広い背中を向けた。
『血の付いた物はすべて替えさせる。通訳も新しいのを見つける』
そう言い捨てると、彼は天幕の外に立ち去った。もちろん全てアラビア語だったが、ヒロコは不思議とその内容を正確に理解できた。彼のオーラから読み取ったのだ。剣を抜いた後の族長からは、今までになく強力なオーラが発散されていた。彼は、ほとんど特殊能力者に近い力を持っていた。
あとに、凄惨な胴体と首と、大量の血と、ヒロコが残された。ランプの灯りがそれらを無情にもくっきりと照らした。
ヒロコは嗚咽した。
夜風で天幕がばた、ばた、とはためいた。
(つづく)