た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

飯田日帰り一人旅

2022年05月28日 | 紀行文

 一年に一度、旅をしなければ───それも必ず一人旅だ───自分の精神のどこかが異常を来してしまいそうな気がする。気がするだけかも知れない。そういう風な自分でありたい、という願望に過ぎないかも知れない。人生において旅をし続けざるをえない男、といったような。

 いずれにせよ、世間は相変わらずコロナコロナで旅どころではない。それでも終息の見えてきたこの春、電車に乗って一人旅をした。

 ただし日帰りである。一泊すれば感染のリスクが高まる、と考えている辺りがすでに旅人らしからぬ。地元信州を出なければリスクを極力抑えることができる、となると、さらにさもしい。この場合のリスクとは、どちらかと言うと、感染よりも、感染した時浴びる世間の批判の方である。こうなると、もはや旅人ではない。そんなに安全志向なら、旅などしなければいいのだ。

 それでも旅人のフリをしたいらしい。旅人であることを否定したら、自分の心に着せた鎧の大きな一部分が欠落するような不安を覚えるのだろう。

 自意識のために、旅をするのだ。

 今回選んだ場所は、信州の最南端、飯田。鈍行電車で片道三時間。一日で往復するなら六時間。四十後半にはなかなかきついが、それくらいが達成感を味わえていい。

 飯田駅に降り立ったのは、昼前。平日のせいか、人はほとんど歩いていない。車さえあまり見かけない。

 だだっ広い道路を自分専用の歩行者天国みたいに我が物顔で歩いていたら、だんだん気分が良くなった。

 日差しが暑い。上着を脱いで手に持つ。

 交差点で小さな饅頭屋を見つけた。真面目そうな商売である。帰りに土産をここで買おうと算段する。去年暮れまで同居していた亡き義母は、甘い物が大好物で、よく買って帰ってあげたものだ。もう、持って帰っても、食べる人がいなくなった。それでも構わない。買おう。

 細い路地を抜ける。猫に見つめられる。また大通りに出る。

 市街地を歩き続けること半時、動物園にぶつかった。

 動物園か。何年ぶりだろう。入場無料の看板を見て中に入る。

 園と言うよりは、牛舎のような手狭なスペースに、イノシシやアライグマやムササビが入っている。観ている人は小さな子を連れた母親が二組くらいである。

 ぐるっと回ったら、鹿に出会った。

 遠い目をしている。当たり前だが、表情がない。感情も、あるとすれば、ずっと昔に失っている気がする。私を見ているのか、私の背後を見ているのか。とにかくじっと見つめて動かない。剥製と変わらない。だが生きている。

 猟銃に狙われているのを知りながら、村を見つめて佇む鹿の詩を思い出した。いい詩だった。誰が書いたのかは覚えていない。

 覚悟、というものについてひとしきり考えた。あるいは、諦念、というものについて。

 動物園を出て、さらに歩いた。駅でもらった観光地図にミュージアムがあったので、立ち寄る。菱田春草の絵を見る。ロビーの向こうで、巨大な恐竜の骨が来訪者を見下ろしている。もし目玉があったなら、あの鹿と変わらない色をしていたろう。

 そろそろ歩きくたびれたので、温泉場に向かった。飯田城温泉という。天空の城、とまで歌っている。大層なことである。とにかく展望がいいらしい。

 大浴場に入ると、確かに市街地を見下ろせた。だがガラスが湯気で曇る。露天風呂は小さかったが、そちらの方がよく見下ろせた。

 知らない街なので、どこをどう見ればいいかはよくわからない。山がある。家がある。道路がある。車が走っている。ぼうっと眺めていたら、いつしか、自分の目があの鹿の目と同じになっているのではないか、ということに思い至った。

 

 湯上りに、併設された飲み屋に入り、生ビールを注文した。店員が大阪出身らしく、ノリがいい。旅先でしたい会話は、そこですべて済ませた。調子に乗って何杯か飲んだ。

 今回の旅はこんなものだろう。日帰りだから、致し方ない。

 酔っぱらって駅に向かう途上、饅頭を買い求めることだけは忘れなかった。

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喫茶『三番地』でコーヒーを飲みながら考えたこと

2022年05月13日 | 写真とことば

 

 芸術は綺麗にすることではない。

 

    だが綺麗なものは美しい。そこから芸術の浸食が始まる。

 

 芸術は好きになることではない。

 

    だが好きなものは愛らしい。そこから芸術の腐食が始まる。

 

 芸術は心地よいことではない。

 

    だが心地よいものは所有したい。そこから芸術の堕落が始まる。

 

 芸術は高価なものではない。

 

    だが高価なものは妬まれる。そこから芸術の世俗化が始まる。

 

 確かに

 

    綺麗で、好きで、心地よくて、高価なものにも

 

 芸術は存在する。

 

 しかし決して!

 

    綺麗で、好きで、心地よくて、高価だから

 

       芸術であるわけではないのだ───────。

 

 ああ、まただ。    

 

    この辺りから

 

       芸術の際限なき押し問答が始まる。

 

※写真は、ええと、どこだっけ?

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残雪

2022年05月10日 | 短編

 

 五月の連休というのに白駒池にはまだ雪があった。それは泣き腫らした頬に残る涙のようであった。駐車場ではしっかり六百円取られた。自分はここに何しに来たんだろうと思いながら、靴紐を結び直し、遊歩道に足を踏み入れた。

 雪は柔らかく、滑りやすい。冬景色なんて想像もしていなかったのは私だけではないらしく、訪れた観光客はみんな脚を震わせながら歩いている。子どもたちはキャッキャと喜んでいる。登山の格好をした若者は、涼しい顔で颯爽と通り過ぎる。

 なんで自分はここに来たんだろうと、また思った。

 知人が死んだからだ。

 彼女は(仮にSさんとしておく)働き者で、老いた母親と二人の子どもを抱え、シングルマザーとして、つねに気を張って生きていた。子どもの一人は障害児だった。いくつもの仕事を掛け持ちし、言いたいことを言い、甘い物が大好きで、別れた夫を許さなかった。何の兆候もなく、春うららかな日に大動脈が破裂して死んだ。

 雪を踏みしめ、森をゆく。雪の下では、びっしりと生えた苔が、なかなか来ない春をじっと待っている。

 三叉路に出た。髙見石の方角に向かう。

 緩やかに続く登山道を、一歩一歩、自分の足跡を確かめるようにして慎重に歩く。行き交う人はいつの間にかいなくなった。

 数年前、Sさん手製のサンドイッチを、一度だけ食べさせてもらったことがある。施設で働く彼女が試作品として作ったので、感想を聞かせて欲しい、とのことだった。なぜ私が指名されたのか、その経緯は覚えていない。シンプルで、飾り気のない、しっかりとしたサンドイッチだった。誠実な味がした。母が脳こうそくで倒れたときは、私よりも早く駆けつけてくれた。そうやって周りの人々に惜しみなく親切を与え、自分だけ先に逝ってしまった。

 道の勾配がきつくなってきた。背に汗を感じる。足を滑らし、両手を突いた。

 自分はとても無謀な登山をしているのではないか。 

 木立の先に小屋の屋根が見えた。立ち上がり、先を急ぐ。

 歩きながら、今度はウクライナのことを思った。

 連日たくさんの民間人が死んでいる。ひどい話だ。誰一人こんなことでは死にたくなかったはずだ。人々の命が、野に咲く草花のように、あっけなく踏み潰されていく。独裁という名のキャタピラによって。誰もそれを止められない。

 人類は命について何を学んできたのだろうか?

 お前は?

 小屋に到着し、深い息をついた。小屋の脇道からさらに先にそびえる、無数の岩でできた山を見上げる。あれを登れば、頂上だ。十年ほど前、一度だけ上ったことがある。しかしあの時とは季節が違う。岩の日陰部分には雪が残っているではないか。これを登るのか。こんな軽装で。もし万が一足を踏み外し、滑り落ちでもすれば──────。

 私は岩に手をかけ、登り始めた。

 足を掛ける場所にいちいち迷う。体を変な風に曲げる。息が切れる。四十も終わりに差し掛かった自分の体をひどく重く感じる。十年前の夏は、ずっと楽に登ったはずだが。雪を踏み、バランスを崩しかけて岩に抱きついた。脚がすくむ。自分は何をしようとしているのか。ここで死にたいのか。不本意な死をこれだけたくさん目にしながら、なぜ自分は、どうしようもなく自分の生を揺さぶりたくなるのか。

 誰かが呼んでいる。

 はっと気づけば、無辺に広がる空の下にいた。呼び声がしたと思ったのは、先に登り詰めていた若い三人連れだった。皆しっかりした山行きの装備をしている。彼らにとっては何の苦労もない岩山なのだろう。爽やかな笑い声が飛び交う。中の一人がサングラス越しの視線を私に注いだ。その視線はしばらく私から離れなかった。

 彼らから身を隠すように岩を移動し、平たい場所を探して、恐る恐る腰を下した。眼下には、出発点となった白駒池が不透明な水を湛えて口を開けていた。

 夕刻の風が吹いた。

 誰かがくしゃみをした。

 そうだ。自分はあそこに戻らなければならない。戻るために、ここに来たのだ、と、このときようやく気がついた。

 

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三枚おろし

2022年05月02日 | essay

 

 料理人に万雷の拍手を!

 

 今年の大型連休は大したものになりそうにない。新型コロナウィルスの脅威はひところより落ち着いたとはいえ、全く払拭されたわけではないし、天気も晴れたり雨だったりで不安定だとテレビは言うし、諸々の出費がかさんで懐具合は実に頼りなく、大手を振ってバカンスを満喫する勇気もなくなっているからである。

 それでも気晴らしは心の健康に必要ということで、連休初日、ほぼ一年振りに海を見に行った。と言っても、本当にただ海を見た、というくらいのことである。今回は犬を連れて行った。日々飼い主につれなくされ、欲求不満の溜まっている我が家の番犬である。おかげで行動には大幅な制限がかかった。犬連れでは、食堂に入り日本海の幸に舌鼓を打つこともできない。誰もいない砂浜を選び、犬を走らせ、久々の自由に興奮した犬が日本海の荒波に脚を踏み入れようとしたところで、まさに潮時だと引き上げた。

 帰途、能生の道の駅に立ち寄った。そこは大型連休らしく活気にあふれていた。ハサミを手に蟹を食べている親子連れ、大きな発泡スチロールの箱を抱えて車に戻る夫婦、威勢のいい声で観光客を呼び込む鉢巻きをした兄さんたち────。

 いつしか我々夫婦も感化され、何か威勢よく買い物したい気分に駆られていた。せっかく海に来たのだ。このままでは帰れない。ふと見ると、氷を敷き詰めたケースに魚が様々並べられている。どれも一ケース千円。安い。訊くと、さばかずそのまま売るから安いのだそうだ。「新鮮だから、三枚に下ろして刺身でも食べられるよ」と言われ、夫婦ともども三枚下ろしなどしたこともないのに、さらに興奮してしまった。ユーチューブを見ながらやれば何とかなる、とお互いに言い聞かせ、結局、小さな鯛四尾、ホウボウ六尾、名も知らぬ魚二尾ほど入ったケースを買い求めてしまった。

 自宅に戻ってからが災難だった。

 ただでさえ素人な上に包丁が切れない。三枚に下ろすつもりがいつの間にか細切れ状態である。鱗や内臓が散乱し、手は生臭くなり、食卓に並ぶ頃にはこちらの食欲が減退してしまった。焼いてもみたし、アラ汁も作ったが、そんなに似たような魚ばかり食べられない。

 今後二度と分不相応なことに手を出さない、と二人で誓い合った。

 店に行き、料理を作って出してもらう、という当たり前のことが、いかにあり難いことか。今回の一件で身をもって知ることができた。だからこそ夜の暖簾をひょいとくぐりたいところだが、そこは懐の隙間風が待ったをかける。

 まだ連休は後半を残す。取り敢えず金のかからない山登りをするつもりである。庭の雑草も呼んでいる。

 魚たちにも謝っておこう。

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