た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

GW余話

2011年05月25日 | essay
 冒険の好きな人、嫌いな人がいる。
 冒険のできる人、できない人というのもある。

 GWの初めに東京からN氏が来た。
 なかなか自由気ままな行動をする人で、長く懇意にしている。
 我が家で宴会をして一泊した翌朝、N氏は帰京しなければならず、私も夕方からの仕事がある。しかしあと半日分の時間が余ったので、温泉に行くことになった。
 前日の宴会では、酩酊した顔で、近くでお勧めの湯ならどこでも、などと言っていたN氏も、いざ車の助手席に乗ると、俄然目を輝かし始めた。しばらく地図に顔を突っ込んでいたと思ったら、「お互い今まで行ったことのない温泉に行こう」と言いだした。

 N氏は無類の冒険好きである。数年前に来た時は、未舗装の山道を奥まで行ってみようと主張して私を困らせた。今回も、私のお勧めの温泉ではお互いが詰まらないと言う。別に私は詰まらなくないのだが、と内心思いつつ、ハンドルを切り、彼の指定する道に進路を採った。
 ここを真っすぐ行けば葛温泉に辿りつくと言う。なるほど、葛温泉は私も話には聞いたことがある。名湯らしい。行くのはやぶさかではない。しかしもう少し北ではなかったろうか。山道は狭く、標識は無く、だんだん切り立った崖が姿を現してきた。この道で大丈夫? と念を押すと、間違いない、と自信に満ちた声が返ってくる。間違いないね。もうすぐ大きな湖が見えてくるはずだよ、と。しかし行けども行けども湖なんて見えてこない。それどころか道はますます細くなり、少しハンドルを切り間違えれば谷底に落ちそうな断崖絶壁になってきた。
 さすがに不安を感じ始めたN氏は再び地図に顔を埋めていたが、不意に顔を上げた。
 「わかった」
 「え? 何が分かったって?」
 「キツネだ」
 「は?」
 「この辺にはキツネが出るみたいだ」
 「いやいや、正直に言ってよ。何を間違えたの」
 「キツネにだまされたんだ」
 キツネキツネと連呼するN氏を、ハンドルを握ったままなおも問い詰めると、どうやら地図を見間違えたらしい。それも、右のページを見るべきところを左のページを見ていたという、およそあり得ない初歩的な間違えである。我々は全く違う場所を走っていたのだ。何がキツネだ。もしこのまま山中で行き止まりになったら、彼をどこかに埋めて帰るところだった。だが幸い、我々は中房温泉という小さな温泉場に辿りついた。
 そこは登山客が主に利用するような野趣あふれた露天風呂の温泉であった。泉質もすこぶる良い。我々はすぐに上機嫌になった。
 風呂上りに外のテーブルで涼しい風を浴びながら、カレーまで食べて帰ってきた。

 N氏は冒険好きな人である。だから付き合って面白いと思う。しかし冒険をしていい人かどうかは知らない。少なくとも、地図の見方くらいは学習すべきであろう。
 
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GW

2011年05月07日 | essay
 ゴールデンウィークに三世代家族で富士五湖に行く。富士山を眺め、白鳥を漕ぎ、浴衣で温泉卓球をしてビールを飲み、お土産を買って帰った。途中で遊園地に寄って歓声まで上げてしまった。私は生まれて初めてゴールデンウィークをしたような気分になった。

 振り返れば、幼少期におけるこの時期は常に農繁期だった。蛙の鳴き声の聞こえる水田の畦に突っ立って、機械で田植えをする父に苗を渡すのが、私の一日の仕事であった。世の人々がゴールデンゴールデンと騒ぐのが悔しくて仕方なかった。自分も死ぬ前に一度くらい渋滞に巻き込まれてやるぞと思っていた。死ぬ前に一度でいいから、潮干狩りで日焼けしたかった(ちなみにこれは去年実行したが、泥に素足を入れてひたすらスコップを動かすだけであり、これが果たしてゴールデンなのだろうかと首をかしげてしまった)。

 富士五湖こそは私の夢見た紋切り型のGWであった。富士山をただ眺める点においても、温泉も土産物屋もなんとなく一時代前の匂いを感じさせる点においても、少し渋滞して、少し自然を感じさせる点においても、なぜか予定にない富士急ハイランドに引き寄せられる点においても。そこには、高度経済成長期から安定成長期までをまかなった、日本の幸せの一つの鋳型があった。そういう場所では、何も考えずに財布のひもを緩め遊び疲れるのがよい。

 それでもやはり、車を運転していて水を湛えた田んぼを見かけると罪悪感に近い心の疼きを感じてしまうのは、少年時代の擦り込みによるものであろう。遠い故郷の実家の手伝いをしなくてよいのか、と、できもしないことを考えてしまう。恐ろしいことである。おそらく私は死ぬまで、ゴールデンウィークを心からゴールデンには楽しめないのだろうと、腹をくくっている。

 まあ、それもこれもひっくるめて、私の心の中における、GWという風物詩なのだろう。それはそれでよし。今回は、病気を抱えた義母を連れて一泊旅行ができただけでも、二重丸としようか。

  

 
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仮説:顔考

2011年05月03日 | essay
 この歳になると、二人寄れば、共通の知人なり片方の知人なりいろんな人物の人生を噂する。あの人はやっぱりああいう人だった、とか、彼はいかにもそんなことをしそうな感じだったよ、とか。その際、顔つき・容姿というのは重要な論拠の一つになる。力強く生きそうな顔、自ら不幸を招きそうな顔、真面目そうな顔、怠けそうな顔・・・。

 性格が顔に現れる、という言い方をする。人生が顔に刻まれる、とも表現する。してみると、顔と心は密接不可分の関係にあるわけだ。

 これをさらに敷衍(ふえん)して、性格が顔を形作るばかりでなく、顔が性格を形作るのではないだろうかと、最近の私はひそかに思っている。幼いころ、自分の姿を鏡で見る。見るからにかわいい女の子だったら、私はかわいい女の子なんだと自己認識して、そのような振る舞いや生き方をするようになる。あまり自分で満足のいかない顔立ち──たとえばちょっと吊り目のきつい表情であれば、私はきついことを言ったりしたりすることが似合う女なんだと思って、ぐれてみたり、毒舌を吐いてみたりする。真面目な顔立ちであれば、どうしても真面目な行動をとってしまう。周りもそう期待するからだ。ユーモラスな顔立ちであれば、まるで天性の芸人であるかのように面白おかしく振舞って、お座敷芸人のような生き方をする。

 顔立ちから判断する周囲の期待、というのも大事な要因である。鏡による自己認識、というのも確かにある。どちらがどの程度の比率かはともかく、人は、自分の顔(ひいては体つき全体)に応じた生き方を知らず知らずに採っているのではなかろうか。

 となると、顔はその持ち主にとって、人生の台本が書き込まれた運命の書物である。そこに書かれたこと以外の人生を歩もうと思っても、相当至難な業になる。

 それでも、生き方を変える人がときたま現れる。いままでは大人しい引っ込み思案な人だったのに、ある日を境に急に社交的で積極的な人に変わった、とか。そういう人は、顔つきまで変わったと言われる。自分で運命の書物を書きかえたのだ。それはものすごい努力を要することかもしれない。

 顔が先か、性格が先か。そういう議論は、ニワトリと卵の話のように不毛なものであろう。ただ、こんな悪戯な想像をしてみたくなる。バベルの塔を破壊した神は、人間に複数の言語を与え、お互いの意思疎通を難しくした。同様に、人間の顔つきを他の動物以上に複雑多様化させた神は、人間の団結力を奪い、個々の人生をバラエティに富んだ、ユニークで、孤独で、しかしそれだけに、面白いものにした、と。
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