た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

ある食堂の終わり

2018年04月30日 | essay

 その食堂は目立たなかった。看板は歳月を経て字が薄れ、判読できなかった。普通の民家に小さな暖簾を掛けただけの入口である。前知識なしにふらりと立ち寄るにはそれなりの勇気が要った。事実私も、とある人から勧められるまでは、そこに食堂があることすら気づいていなかった。一方通行で車の多い通りに面しており、車窓から人が行き交うのを見ることは稀だった。

 私にその店を勧めたとある人というのは、居酒屋の店主である。美味しいものを心地よく食べてもらうことに心を砕く、こういう業界では珍しいほど柔らかい物腰の人物である。坊主頭も接客も実に気持ちがよい。そんな人に勧められたので、私も行ってみる気になった。新しい店を訪れるのは、冒険めいて嫌いではない。ことに人から勧められた店となれば、勧めた人の勧めた理由を納得する楽しみまでそこに加わる。平日、仕事の合間を縫って、用事もないのに車を走らせ、初めてその食堂のカラカラと鳴る引き戸を開いたのは、もう何年も昔のことになる。

 外見に違わず、内側も質素な造りであった。質素というよりも風変わりであった。普通の民家の土間をそのまま利用しているのだから、初めは驚く。両壁に長机をつけ、丸椅子を幾つか並べてある。正面の上がり框にも、昭和初期のどの家庭にもあったような低いちゃぶ台を置き、左右に胡坐をかいて食べられるようになっていた。合わせて十数名は入れるだろうか。全体として、およそ食堂らしからぬ空間であった。いや四、五十年前までは、こういう飾り気のないテーブルと椅子こそ食堂そのものだったのかも知れない。珍しいような、懐かしいような、アンバランスなような、バランスがとても取れているような、何とも不思議な感覚があった。数人がすでに腰かけて麺を啜っていなかったら、ここで本当に食べさせてもらえるのですか、と尋ねたかもしれない。

 掃除は隅々まで行き届いていた。

 天ぷらラーメンというのを食べてみてください、と私に勧めた坊主頭の店主に前もって言われていた。天ぷらとラーメン。聞いたことのない組み合わせである。しかし決して奇をてらったものでないことは、勧めた店主の人柄からわかっていた。「じんわりと美味しい」のだとか。

 丸椅子を跨いで腰かけ、天ぷらラーメンを注文する。おかみさんが、「はいよ」と威勢よく答える。

 しばらくして供されたラーメンは、麺といいシナチクといいチャーシューといい、ごく普通の体裁をしたラーメンであった。変わっているのは、青い菜の入った天ぷらが、すでに汁を吸って浮いていることくらいである。

 これが美味しかった。驚くほどに味わい深かった。

 鳥ガラだろうか、スープはあっさりとした味付けだが天ぷらの油が程よいコクを付け加えている。体にとてもいいものを取っているような、心地よい余韻が舌と胃に残る。スープの絡んだ麺も、シナチクも、チャーシューも、こうあって欲しいという味をしっかり守っていた。私は夢中で食べた。なんだか気分まで明るくなり、思わず笑い出しそうな衝動まで覚えた。食べた人を元気にさせてくれる料理であった。

 それで五百円を切る値段である。

 高級な具材は使っていないかも知れない(値段から勝手に憶測する限り)。しかし普通のものを、普通にきちんと作れば、こんなに美味しくなるのだ。「普通にきちんと」というところには、作り手の愛情や優しさといった、人柄から滲み出るものも含まれる。この店は夫婦で切り盛りしているらしい。おかみさんの明るい受け答えと、亭主の実直な仕事ぶりを見れば、こういう味が醸し出されるのかと少しは納得できた。

 普通のものを、きちんと作る───これがいかに難しいことか。

 気づくと、次から次へと客が来店する。あっという間に狭い店内はいっぱいになり、外で待つ人まで出始めた。よほど評判の店らしい。昨今ブームのラーメン専門店でもなければ、特別な宣伝をしている店でもない。外観はいたって地味である。ついでに言えば内装も地味である。それでも、この店の味を知る人たちが集まってくるのだ。

 

 その後数年にわたり、私は機会があるたびに暖簾のかかったあの引き戸をからからと引いた。いろんな人を連れて行きもした。高齢になる義理の母親は「ああ美味しい」と言いながら全部平らげた。寺育ちで大食漢の知人を連れて行ったときは、天ぷらラーメンに加えてカレーも注文した。彼はカレーの味が、子供の頃、寺で祖母が作ってくれたカレーとそっくりだと言って感動していた。ソースを加えて食べる「しゃびしゃび」のカレー。言われて食べてみると、なるほど素朴ながらしっとりと心に残るカレーである。昔はどこの家庭のカレーもこんな味だったのかも知れない。スパイス全盛の現代から見るとパンチに物足らなさが残るが、子どもでも大人でも安心して食べられる、我が家のカレー。

 それからは、私一人で行くときも、天ぷらラーメンとカレーを併せて注文することが多くなった。当然お腹が張るのだが、せっかく来たのならどうしても両方味わいたくなるのである。

 とは言え仕事も忙しくなり、滅多に用事の出来ない方面にあったので、そう頻繁に行けたわけではない。半年くらい間隔を開けることもあった。

 

 桜の散ったある日の夜、帰宅すると妻から、悪いニュース、と前置きして、閉店の事実を知らされた。

 妻は私が一度連れて行って以来のファンである。その妻が教えた女友だちからのメールにより判明した。つい半月ほど前、わたしはそこで天ぷらラーメンとカレーを食べたばかりである。夫婦の元気に働く姿も見た。あまりにも唐突な知らせであった。そうか、と私は答えた。残念だ、とも付け加えた。どう感情表現していいかわからなかった。ひどく悲しむのは、親族が死んだのでもあるまいし大袈裟な気がした。自分が何を失ったかを理解するには、時間がかかるようにも思った。大したことはない話かもしれない。たかが数ある食堂の一つだ。だが、唯一無二の食堂だった、という声も心のどこかで聞こえていた。正直、どう捉えていいかわからないほどあっけない幕切れであった。 

 その食堂の名前は「しず本」である。

 

 私は世に言う「食レポ」を書いたつもりはないし、人にお勧めする意図もない。閉店しているのだから今更そんなことしようがない。閉店してしまったがゆえに、初めて具体的な店名を載せて書いても許されるだろうと思った次第である。どう書こうとも、もはやあの店の経営に関し迷惑をかける可能性はなくなったのだから。

 ではなぜ、今更書いたのか、と問われれば、それもうまく説明できない。どうしても書かざるを得なかったのだとしか言いようがない。

 そんな思いをするのも、私としては珍しいことなのだ。 

 

 

                                       ───あのお二人に、感謝をこめて。

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桜三景

2018年04月19日 | essay

 今年は桜をいろいろと見た。

 始まりがそもそも例年より早かった。三月上旬、伊豆を旅した際、河津桜の終わりかけに出くわしたのである。ぼんやりと生暖かい南国の空気の中に濃いピンクが揺らめいていた。花見が一足早くできたという喜びよりも、どちらかというと違和感を覚えたのが正直なところである。私の生きてきた歳時記の中で、三月上旬というのは、桜の時候としてはあまりに早すぎたのであろう。

 信州に戻って花を見直すには、それから一か月を待たなければいけなかった。

 それでもいつもより咲き始めが早いと知り、慌てて義母を連れ出したのは、兎川寺の枝垂れ桜を見せるためである。

 高齢の義母はなぜか兎川寺の桜を見たがる。他にも桜はいろいろあるだろうに、近所の小さな寺の一本ばかしの枝垂れ桜に執着するのである。若い頃から見続けた桜なのであろう。毎年毎年同じ桜を見続けることで、自分の中で何かを確認しているのかも知れない。枝垂れ桜はソメイヨシノより早い。うかうかしているとすぐに見頃を過ぎてしまう。

 妻は仕事。義母と私と二人だけの短いドライブである。こういうことをするのも、病院に連れていくか兎川寺の花見くらいである。

 枝垂れ桜は義母よりはるかに長い歳月を生きて、まるで這いつくばるように長い枝を四方に垂らし、淡い色の可憐な花をめいっぱい咲かせていた。

 改めて近くから見上げると、なるほど立派な桜である。大地へ向かって咲く桜が、青い空に不思議と似合う。綺麗ですね、と義母に言うと、ああ、今年も見れてよかった、ありがとうございます、と返ってきた。

 少し他人行儀でぎごちない分、花を見上げる時間は長い。これはこれでなかなか味わい深い花見である。

 松本城の桜も散り始めた休日、格別することもないので、妻と車でなんとなく南下をした。途中、辰野町で桜のアーケードに巡りあった。

 道路の両脇から空が見えないほど完全に覆い被さった桜並木で、それは息を呑むほどに美しかった。西洋の宮殿の回廊を進んでいるような絢爛豪華さがあった。とくに観光名所でもないのか、なんの標識も看板も見当たらない。あんまり不思議な思いがしたので、引き返して二度くぐった。

 なんとなくの南下は結局、高遠まで行き着いた。城址公園の桜は外からほどほどに見て済まし、高遠焼きを買って帰った。

 桜はやはり偶然の出会いがいい。

 最後に、遊び仲間三人の毎年恒例の花見。これはよほど日頃の行いの悪い三人が寄り集まっているらしく、当日は冷たい風が吹き、花見どころではなかった。急遽目的地を温泉に変更。

 三人中最高齢者の鶴の一声で、箕輪町の『ながたの湯』へ。車を運転するのは、仕事もあり酒の飲めない最年少の私である。箕輪町と言えば辰野町の次。なんだか同じ道を何度も通っている気がする。だったらついでにと、寄り道して辰野町の桜のアーケードをくぐった。これで三度目である。

 先輩二名は道中から酔っぱらって、花より団子、団子より酒肴、といった体である。それでも温泉場には桜が咲き、食堂で花見をしながら宴会をすることができた。小雨がぱらついたが、ガラス越しなのでぬくぬくと飲める。運転手付きで温泉につかって花見酒。彼らにとってこれ以上の贅沢はないだろう。案の定、しばらくすると桜ほど綺麗ではないピンクに染まった野郎二人が出来上がった。

 これはこれで、また一つの風情であろうか。

 

 

    濡れそぼち 犬も見上げる 花のした

 

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ウダライ

2018年04月10日 | 短編

 

 

 太古の話である。

 ウダライは、頬骨の張った、面長の大男であった。怪力比類なく、性情醜悪にして、こと色欲に関しては見境がなかった。月の満ちた女と見れば、誰かれ構わず押し倒し、子をはらませた。彼の妻は両の指で数えきれないほどいた。

 落ち葉の敷き積もる林間で、葦の生い茂る湖畔で、満月の冷ややかに照らす断崖で、ウダライは快楽におぼれた。相手はまだ胸の膨らみ足らない少女のこともあれば、既婚の女のこともあった。ウダライに妻を寝取られた男たちは、唇を噛んで悔しがったが、力ではかなわないのでどうすることもできなかった。声なき憎しみと妬みを背に浴びながら、ウダライは女を凌辱し続けた。

 しかし彼の命運も尽きるときが来た。彼の最初の妻イメの宿した子、つまり彼の長男に当たるユクベが成長し、父に比肩するほどの大男になったのだ。ユクベがめとったネシカは、高原に咲く百合のように美しい女性であった。ウダライは、自分の息子の妻であるこの女にまで手を出した。それは春雷のとどろく真昼のことであった。ネシカの悲痛な叫び声は集落の隅々まで響き渡った。彼女は必死に抵抗し、逆上したウダライに首を絞められ、絶叫して息絶えたのであった。

 夫であるユクベは怒り狂った。それから十七日目の新月の晩、湧き水のほとりで顔を洗っていた父親は、背後から忍び寄った我が子に、樫のこん棒で百回叩きのめされて死んだ。

 歳月は過ぎた。

 ユクベは髭も伸び、亡きウダライと寸分違わぬ男になっていた。周りには何人もの妻たちがはべっていた。彼はしっかりと父親の血を受け継いだ男であったのだ。

 そんなユクベの栄華は、彼の二人の息子によって撲殺されるまで続いた。

 理由は、ユクベが部族の女を独占し、息子たちにさえ分け前を与えようとしなかったことにあった。

 大雨でできた水溜りに、誰かも判別できないほど打ち砕かれた彼の死体が転がった。

 手を下した二人の息子も、やがてまた、同じ道を歩んだ。

 こうして一族は、父親殺しを、まるでそれが習わしであるかのように繰り返した。忌まわしい歴史は、五世代続いた。

 しかしそれも途絶えるときがきた。

 五世代目のバルカは、少し知恵があった。抑えがたい憤怒に駆られ、目もくらむ日差しを浴びながら父親殺しに手を赤く染めた後で、彼は一人洞穴に引き籠り、三日三晩思い悩んだ。自分がいつの日か同じように息子に殺されることを予見し、恐れた。そして彼は一大決心をした。自分の息子たちをすべて殺してしまうことにしたのだ。自分が殺される前に先手を打つのだ。すでに狩りに参加できるほど成長していた少年も、生まれたばかりの赤子も、みなこの父親の手にかかって殺された。深い淵に投げ入れられた者もいれば、顔を分厚い手で覆われ息絶えた者もいた。狩りの最中に矢じりで突き刺された者もいれば、夕餉の準備に焚かれた火の上で焼かれた者もいた。集落にいるほとんどすべての男の子が彼の血を引いていたので、バルカは狂人のような強い意志でもって自らの決断をやり遂げなければならなかった。

 夏が過ぎ、雲が流れ、木々が幾万の葉を落とし終える頃、一帯には、悲しみに暮れる多数の女たちと、たった一人の大男がとり残された。

 こうして、遠からず、その部族は滅んだ。

 

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松之山温泉一人旅

2018年04月03日 | 紀行文

 旅に出る。

 一泊二日、電車を使っての一人旅である。こういうことを年に一度はしないと、何と言うか、感性が鈍るような強迫観念がある。もっと頻繁に旅したいのだが、仕事と家庭が許さない。仕事と家庭に容易に阻まれるくらいだから、もともと大した感性ではない。

 体調もさほど良くない。年始から痛めた咽喉が長引き、良くなったと思ったら、ぶり返したりする。治りそうでなかなか治らない。貧乏神でもしそうな弱々しい咳が出たりする。情けない。こうなるとじっとして体を休めるより外へ出て空気と気分を入れ換えた方がましだくらいの思い切りで、結局旅を決行した。

 三月三十日、天気良好。松本駅へ向かうバスの車窓越しに、城の堀端の柳を見る。大きな柳である。普段はその存在に気づかなかった。帰るころには、堀一面に桜が咲いているだろうか。

 松本駅から電車に乗り長野へ。そこから北しなの鉄道に乗り換える。沿線にはリンゴの木が幾重にも広がる。見えない天井に押さえつけられたように、どれも一定の高さで終わり、あとは枝を水平に延ばすのみである。その方が収穫しやすいのだろう。リンゴも大変である。人間も似た様なものかも知れない。妙高高原からえちごトキめき鉄道というやたら長い名前の私鉄に乗り換え、直江津へ向かう。

 直江津で一時間以上の待ち時間ができたので、海でも見ようと街を歩く。途中の菓子屋で、越後の笹あめが売っているのに驚いた。夏目漱石の『坊っちゃん』でお清が「越後の笹あめが食べたい」と言った、あの笹あめである。包装には、丁寧に『坊っちゃん』の一節が印刷されてある。物語の中で坊っちゃんは笹あめを買ってもいなければ、もちろん食べてもいない。夢の中でお清が笹までむしゃくしゃ食うだけである。それを現代まで売りにしているのは、やはり夏目漱石が偉大だからこそであろう。大したものである。店の婆さんに訊いたら、歯にくっつきやすいから入れ歯の人には向かないらしい。それで義母へのお土産に買って帰るのはやめた。

 『ニューハルピン』というラーメン屋がやっていたので入る。ラーメンと餃子と瓶ビールを注文する。大瓶は昼に一人で飲むには少々腹が張った。店を出てから再び坂道を歩き、海岸に辿り着く。公園のベンチに座って海をしばし眺める。少し咳が出る。駅まで引き返す。

 直江津からの電車も私鉄であった。やたら私鉄の多い地域である。あとで訊いたら、新幹線が通ったせいで、JRが民間に払い下げたせいらしい。長いトンネルを抜け、まつだい駅下車。目的地である。ほとんど時刻表だけを頼りに来たので、予備知識がない。意外と綺麗な駅である。

 見渡せば、三月下旬にもかかわらず残雪が多い。 場所によっては数メートルもありそうである。日差しは暖かいが、雪を撫でた空気が、少しだけひんやりとする。 

 宿からの送迎に時間があるので、駅に隣接した郷土資料館というものを覗いてみた。小さいが、豪農の持ち家だった立派な民家が移築されている。入ってみると、私以外の観光客など誰もいない。冬場は本当に誰も来ない資料館なのだろう。受付からおばさんが出てきて、一部屋一部屋丁寧に説明してくれた。

  聞くと、この一帯は日本有数の豪雪地帯らしい。私はそんなことも知らないで来たのだ。雪が積もると一階から出入りが出来ないから、二階の部屋から外へ出入りする構造になっている。

 

 養蚕をしていたとかで、屋根裏部屋が広く取ってある。狭い梯子を登ってそこに上がってみる。窓からの明かりはわずかだが、暖房の空気が集まっていて大変暖かい。豪勢な家で一番居心地がいい場所が屋根裏部屋というのも面白い。そのままそこに大の字に寝ころびたかったが、下で受付のおばさんが次の説明のために待っているので、早々に降りた。それにしても隅々まで綺麗に磨かれた家である。移築の時に柱を磨いたら、黒ずんでいた柱から漆が出てきたらしい。私の郷里の実家も古いだけは相当古い。柱が黒ずんでいるのも確かである。今度親に磨いてみろと言おうかと思う。

 一通りの説明を受けて土間に戻る。おばさんに礼を言い、今度は一人だけで再び各部屋を回る。屋根裏部屋で大の字に寝てみる。

 三時を過ぎたところで迎えの車が来た。二十分ほどかけて松之山温泉へ。運転手の話では、今年は雪が少なく三メートルほどだったが、普段は四メートル積もるという。四メートルとは、どんな情景なのか想像するのも難しい。おそらく、集落全体が雪に埋もれた感じだろう。それでも人は生活していくのだから、人間の営みというのは馬鹿にならない。五月になれば、棚田も美しいらしい。その頃に、今度は車で来てみようかと思う。

 

 宿は凌雲閣という、時代を一つ間違えた様な古い旅館である。文化財に登録されているらしい。廊下はやはりぴかぴかに磨いてある。この辺の人たちは雪深い冬にずっと家を磨いているのではないかしらん。部屋は昔の造りだから小さい。なぜだか知らないが民芸品のような食器棚や引き出しがやたらある。

 早速温泉につかる。何でも日本三大薬湯の一つらしい。三大かどうかは知らないが、薄く緑がかった温泉で、なかなか気持ちがよい。脱衣場の説明書きには、1200万年前の海水が地下に溜まり、マグマに温められて出てきた珍しいものだとか。1200万年前と言えば、人間がまだ猿だった時代である。よくわからないが効きそうである。舐めてみれば確かに塩辛い。よし、これで咽喉を完治させようと、咽喉に効くものなのかも確かめないまま、滞在中に四、五回は入った。

 

 夕食の膳には珍しい山菜が並んだ。熱燗を飲みながらつつくと大変旨い。刺身や肉などはいいから山菜をもっと増やして欲しい。いずれにせよ、一人で囲む膳は、なかなかどうしていいやらわからない。食事の会場には何組かの夫婦や家族連れがいて、皆楽しそうに会話している。一人で箸を動かすのは私と、隣にいる男性だけである。だが彼は温泉場で挨拶したが返してくれなかった。話しかけられるのを望んでいるとは到底思えない。お一つどうぞ、と銚子を勧めたいところだが止めておいた。

  窓の外をふと見ると、丸い月が林の上の群青の空にかかり、とても美しい。が、それを語る相手もいない。一人旅とはこういうものである。それを承知で来ているのだ。咳が出始めたので、酒も二本にとどめて、席を立った。

 夜の温泉街でも散策したいところだが、体調も不安である。月明かりに照らされた残雪も、窓から見ると物々しくいかにも寒そうである。それで大人しくすることにした。こうなると本当にすることがない。また温泉につかり、テレビのチャンネルを一つ二つ切り替えると、早々に布団を被った。

 

 

 翌日も快晴であった。

 朝食の席に、昨晩は見かけなかった婦人が一人いる。わずかに白髪の交じった髪をそのまま束ね、気取らぬ自然体である。駅まで送る車でも一緒になり、会話が生じた。ぽつりぽつりとした言葉の遣り取りは、結局まつだい駅で列車が来るまで続いた。話によると、現在は京都に在住だが、かつて劇団に属して、全国を旅して回ったらしい。劇団の名前は耳にしたことがあった。どおりで開放的な雰囲気のある人である。

 羨ましい人生ですね、と、心から言った。彼女は微笑んで立っていた。

 電車が来たので、その人とは別れた。車内は高校生くらいの若者たちで賑やかであった。日常の人たちである。ちょっとだけ非日常の人もいる。みんな片道数百円で車窓からさんさんと日を浴びながら移動していた。私は座席に深く腰掛け、目を閉じた。

  

      (※写真は、人々が乗車する前の車内。どの路線で撮ったか覚えていない)

 

 咽喉は結局、完治とまでは至らなかった。夜の温泉街も逃したのが少々心残りである。が、まずまずいい旅だったかな、と振り返りながら眠りに落ちた。

 

 

 電車は夕方四時過ぎに松本に着いた。

 城の堀端では、すでに桜が咲き始めていた。 

 

 

 

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