犬の散歩に出た。
雪が降りそうで降らない、化膿したように重苦しい色の曇天だった。朝日はどこか厚い雲の裏に隠れていた。お天道様だってこれほど寒ければ、顔を出したくないに違いない。首筋に入りこむ冷たい風が不快だった。大きなくしゃみをした。すぐにでも引き返してストーブの前に座り込みたかったが、犬がいるから仕方ない。大して可愛い犬ではないが、トイレをしてもらわないとこちらが困る。小さな柴犬で、ふだんは寒がりな癖に、いったん散歩に連れて出ると、当然の特権であるかのように、ぐいぐいと紐を引っ張ってどこまでも行こうとする。トイレをしたらすぐ連れ戻されるとわかっているので、我慢してなかなかしようとしない。実にさもしい犬である。
年明けから続く憂鬱な気持ちを抱えて、私はいつものコースを辿った。生と死のようなことを漠然と考えていた。死ということは存在の消滅だが、果たしてそれだけのことであろうか。精神が死ぬとはどういうことか。精神は物理的な意味で存在するものではない。だとすれば、肉体が消滅しても精神が消滅することはないのではないか?───何を考えてるんだ俺は。これでは霊魂不滅を唱える狂信家と同じではないか。でも、そもそも、物質であれ非物質であれ、完全なる消滅ということは可能なのか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
道端のあちこちを嗅ぎたがる犬を無理に引っ張って歩く。
凍てついた民家が幾つも肩を並べる通りを抜けると、視界が開け、ブドウ畑に出る。夏にでもなれば甘ったるい香りが辺りを漂うが、冬の現在は、一定以上の高さにならないよう矯正された木々が、葉のない枝を呪術師の振り回す腕のように四方に伸ばしているばかりである。くねくねと続く細い道を進むと、そのブドウ畑も終わる。視界はさらに劇的に広がる。水田地帯に出たのだ。
もちろん冬の時期は、稲の刈り跡だけが集団墓地の墓標のように連なって寒風に晒されているばかりである。
遠くに連なる山々を見上げ、左右に広がる枯れた田を従えながら、真っ直ぐに道が伸びている。その中途に、ポツンと一本、大きな木が立っていた。腕を回しても届きそうにないほどの太さの幹である。何の木かは判別しない。それほど注意深く眺めたこともない。しかし、何となくこの広大な風景の中心的存在のような樹木であり、詩的な形の枝ぶりもあって、私はいつもこの木の辺りまで来て、引き返すことに決めていた。
だがその日、木は、地面とすれすれの切株だけ残して、影も形も無くなっていたのである。
思わずあっと声が出るほど、それは異様な光景であった。あれだけの存在感を示していた木が、たった一夜で、姿を消したのである。土地の持ち主が切り倒したのであろうか。それにしても枝葉の残骸すら無い。よほど邪魔だったから、すぐに搬出したのだろうか。しかし昨日までは確かに、そこにあった。たった一夜で────果たしてどれほど不都合のある木だったのか────匂いがしそうなほど痛々しい切り口の上を、今はただ、空っ風が渦巻いていた。しかし、名前も知らない木とは言え、散歩の度にその存在を意識していた私にとっては、まだそこに、何かがある気がしてならなかった。
そのとき、誰かが私に向かって、「お前の仕業だな?」と言った。
枯れ枝を擦り合せたような声であった。小さいがはっきりと聞こえた。私は急に立っていられなくなり、切株に手を突いた。軽い吐き気すら覚えた。しばらくしてから、くらくらする頭を押さえて、ようやく立ち上がった。死というものが本当はどういうものか、おぼろげながらようやくわかったような気がした。
もちろん実際には、そこには私と犬の他誰もいなかったはずだ。霜の降りた山々はただ風にごう、と鳴るだけであくまでも無表情であった。鼻をうごめかして無い餌を漁っていた犬も、私のしゃがみこんだのすら気づいてないようであった。
きっと、私の幻聴だったのだ。
がたがたと震えが来るほどの寒さを覚えた。上着の上にオーバーコートを重ねて着ていたが、全然足らなかった。さっきまで広々としていたはずの景色が、急速に収縮して自分に迫ってくるかのような息苦しさを感じた。田んぼも山々も、何もかも嫌になった。
私は帰りたがらない犬を引き摺るようにして、来た道を足早に引き返した。