た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

告発

2018年08月23日 | 断片

 暑い夏であった。

 建物の壁という壁、アスファルトというアスファルトに、強力な日差しがくっきりと火傷の跡を残しそうな暑さであった。人々は最初は我慢強く、暑さが果てしなく続くにつれ、次第に投げやりになった。日々交差点で信号待ちをする市民は、ここで倒れこむのはみっともないという、ただそれだけの理由で辛うじて立っている、といった体であった。

 私の職場の近くに、老人が一人で住んでいた。身寄りがないのか、相当の歳なのにほとんど人の出入りがない。室内着そのままの格好につばの狭い麦わら帽子を被り、杖を突きながら、よろよろと買い物に行く姿をよく見かけた。たまにデイサービスの車が来ると、元気のいい女性の声に負けじと、威勢よく受け答えする彼の声が聞こえてくることもあった。が、普段は非常に無口な老人であった。何度か路上で生きあったが、なぜか私の挨拶にも会釈にも、一度たりとも返しをしてくれたことがなかった。私を嫌っているのかも知れない。あるいはただ、性格が偏屈で、誰に対しても似たような態度なのかも知れない。とすれば、デイサービスの女性にだけは心を許しているということか。

 盆を過ぎても暑さの続く交差点で、彼とばったり出会った。彼は杖を突いた方がいいのか突かない方がいいのかわからないほどよろよろした足取りで、近所の商店に向かっていた。食料品を買い込みに行くのだ。私は彼のおぼつかない足取りが心配なのと、そろそろ挨拶を交わしてくれてもよいのではないか、という期待とで、なるべく気取りない風を装い、額の汗を拭いながら、「こんにちは、暑いですね!」と声をかけた。

 老人はびっくりしたように動きを止めた。まるで異生物でも見るように私にひたと視線を注いだ。小さい目をぎらりと見開き、頬をぶるぶると震わせながら、老人は私を凝視した。それから、重い唇を動かして、彼は確かにこうつぶやいた。

 「お前らのせいだ」

 瞬時に私の中で、暑さも、行き交う車の騒音も消えた。町全体が歪んだようにすら思えた。打ちひしがれて佇む私の脇を、老人は杖を突きながらよろよろと通り過ぎていった。何をどう解釈していいか、私にはさっぱりわからなかった。それでもずっとそうしているわけにもいかず、呆然とした顔つきのまま、私は肩を落としてとぼとぼと職場に戻った。

 彼は気が狂っていたのかも知れない。完全にではなくとも、半分がたそうなのかも知れない。今年の暑さが祟ったか。痴呆の可能性もある。普段から誰に対しても、何を言われても、同じような台詞を返していると考えてもおかしくない。

 しかし、と思う。しかし、もし彼が完全に正気だったら? まったく正常な思考を働かせて、彼があの台詞を吐いたのだとしたら?

 だとすれば、どうなのか。私は汗の伝う頬を緩め、苦笑した。苦笑するのも辛いほどの暑さと気怠さだったが、それでも無理やり苦笑した。そうだ。この暑さは、確かに「我々」のせいなのだ。彼はまったく正鵠を得た発言をしただけなのだ。

 窓を閉めきり、エアコンをかけて涼しそうに運転するスポーツカーが、ひときわ高くエンジン音を唸らせ、私の横を通り過ぎた。

 今年は蝉も鳴かない、とふと気づいた。

 影がどこにもないような街であった。車ばかりが行き交っていた。はるか頭上で太陽が高笑いしている気がしたが、それはもちろん、私の気のせいであった。

 

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習作(部分③)

2018年08月12日 | 断片

 長い夕方であった。街は永遠の記念碑か何かのようにくっきりと夕焼け色に染められた。

 黒づくめの男が駅前に現れた。手に牛皮の茶色いバッグを下げている。バッグの中にはぴかぴかするタガーナイフが入っている。夕焼けもそのことは知らない。男はこれから、誰彼ともなくタガーナイフで切りつけて、それから自分も死のうと思っている。真っ赤な血が歩道に点々と飛び散ることだろう。それは夕焼けよりもっとずっと赤く美しいことだろう、と思っている。

 男は青白く頬がげっそりと痩せている。その点を除けば、実のところまずまずの美男子である。眉は凛々しく、鼻筋が通って顔全体に精悍な印象を与えている。だがその整った顔立ちという事実がかえって彼自身を追い詰めてきたのだ。幼い頃から周りにちやほやされた彼は、自分の将来を過分に期待した。期待する割に努力を怠った。これだけ周りからちやほやされるのだから何とかなるだろうと思ったのである。現実はしかし、散々であった。彼はまず親に嫌われた。もちろん親は彼を愛したが、疎ましくも思ったのである。寄ってくる友人たちも、彼の性格を知ると、一人二人と去っていった。最後には女の子たちにも敬遠された。何しろ彼は相手を見下した言い回ししかできなかったのである。互いに笑い、ふざけ合うような場面でも、相手に少しずつ不快の種を植えてつけていることに、彼自身が気づいてなかった。心地よい言葉の遣り取りができなかった。それは、彼のせいだけではない。幼少期に真っ直ぐな愛情を注ぐよりもお金やゲーム機を与え、甘やかしを愛情と誤解して育てた彼の両親の責任もある。

 彼の人生の歯車は段々と狂い始めた。大学を中退してもしばらくはコンビニバイトを続けていたが、人間関係が嫌になり、二年前に辞めた。半年ほど実家に住んでいたが、実家もうんざりして東京に飛び出し、再びコンビニバイトを始めた。その後は引っ越し業や居酒屋などのバイトを転々としていたが、どれも長く続かず、二か月前からアパートに引き籠るようになった。

 貯金は尽き、予定はなく、そんなときに誰も彼を救ってくれなかった。優しい言葉一つかけてくれる人がなかった。ひどい世の中だと思った。自分が周りに優しくしてこなかったせいだとは、思いもしなかった。自分の人生も世の中も、全部いっぺんに終わればいいと思っていた。

 駅前の公園に行く。バッグからタガーナイフを取り出し、通行人をめった刺しにする。それから自分も死ぬ。十日ほど前からそう決めていた。

 よく晴れた七月の金曜日であった。駅前は大勢の人で溢れていた。

 彼は駅ビルの公衆トイレに入った。便器の前に立ったが、尿は出てこなかった。手を洗い、顔も洗った。洗面台の前の鏡に映る自分をじっと見つめた。

 無差別殺人というものについては、最近のニュースで流行りのようにちょくちょく目にしていた。そういうやり方もあるのだと知った。そういう終わらせ方もある。腐った人生の最期に、とびきり腐った行為をするわけだ。世間をあっと言わせてから死ぬのも、悪くない。

 彼はトイレから出た。口笛でも吹くようにいかにも平然とした面持ちで行き交う人々を見回した。皮のバッグを肩の後ろまで持ち上げ、彼はゆっくりと歩んだ。

 時計台の下から、それを始めることを決めていた。

 

 

 里美は急いでいた。急ぐ必要はなかったのに、急いでいた。嬉しくて仕様がないから自然と歩が早まるのだ。行き交うすべての人々に挨拶をしたいくらいだった! こんな美しい夕焼けを浴びている、というだけでも自分は幸せだと感じられた。ましてや自分は今、恋をしている!

 簡易郵便局の前で手押し車に腕を凭れてたたずむ老婆が、里美を見て思わず微笑んだ。

 里美は手足の細いきゃしゃな女性だった。派手なところはないが、彼女を見る者を不思議と安心させる可愛らしさがあった。白いスカートと淡い色のブラウスが良く似合った。信号に間に合おうと小走りになると、揃えた黒髪がぼんぼんのように楽しげに揺らいだ。

 彼女は駅を目指した。

 一週間ほど前。大学一年生の彼女はボランティアサークルの二つ上の先輩に告白された。彼女の憧れの人だった。拒む理由は何もなかった。ただ、あまりに性急にことを進めようとする相手に、純真な彼女は動揺した。数日間は悩んだ。昨日、彼女のアパートで初めて二人で朝を迎えた。彼女の中で吹っ切れるものがあった。これで良かったのだと思った。ほんのわずか、これで良かったのかといぶかしがる自分がいたが、しかし彼女はほとんど心から、現実を受け入れた。そろそろ自分も幸せになっていい頃だと思っていた。六歳のとき印刷業を営んでいた父親が事業に失敗した。父親は母親と自分と四歳年下の妹を連れて、二部屋ほどの小さなアパートに引っ越した。日の当たらない、黴臭いアパートだった。父親と母親はよくいさかいをするようになった。しばらく父親が帰ってこないこともあった。その頃から、彼女は心から幸せを感じるということがなくなった。家計を助けるため、高卒で看護師として働き始めた。職場での人間関係に苦労しながら看護の仕事を続けていたが、大学で学ぶ夢を捨てがたく、養護教諭を目指す看護師に認められた一年限りの大学編入制度を利用し、大学に入学した。入学してすぐに入ったサークルで、ほとんど初めての恋を経験した。

 横断歩道の信号が赤なので、彼女は立ち止った。

 これから、女友達と駅前のバーガーショップの前で落ち合い、食事をする予定である。恋人は、夜八時まで塾講師のアルバイトが入っているが、そのあとまた会う約束をしている。彼にまた強く抱きしめられるのだ。熱い口づけも。だがその時刻までは、親友とファミリーレストランでとことん語り合おう。こんなに自分は幸せでいいのだろうかと、ふと彼女は不安になった。今まで苦労した分、少しくらいはいい思いをしても許されるだろうけど、それにしてもあまりそれが過ぎると、後でつけが回って来るような怖い気がした。

 信号が青に変わり、彼女は再び歩き出した。歩き出すと、恋人のいる幸せと間もなく友だちに会える喜びが再び押し寄せ、悩みなどどこかに消し飛んでしまった。

 日は駅ビルにかかり、夕焼けの色が深みを増した。

 涼しい風が吹いた。

 横断歩道を渡り終えるころ、彼女はようやく、時計台の方が何やら騒々しいのに気づいた。

 

 

 井口老人は不思議な光景を眺めていた。

 まるでゆったりとした舞踊を見ているようでもあったし、同時に、地震でも起きたかのような一瞬の出来事でもあった。夢を見ているようでもあり、質の悪い冗談をされているようでもあったが、まさにこれこそが現実であり自分の運命だったのだと思う自分がいた。真っ赤な血に染まったナイフを振りかざした男が、恐怖に引き攣った表情で自分に迫ってきていた。遠くで耳をつんざくような悲鳴が上がっていた。誰かがすでにやられたのだ。だがナイフを振りかざした男は今、明らかに自分を狙っていた。老人はそのことを良く理解していた。同時に全く理解できなかった。なぜそんなに恐怖に顔を歪めながら人を殺さなければならないのか、この見知らぬ男に何があったのか、尋ねてみたい気も起きたが、自分の腕が掴まれ、鮮血を散らすナイフが目の前で高く振り上げられたとき、ああ、この男はわしを本気で殺すのだ、と思った。すでに何人かを刺し殺し、今まさにわしも刺し殺そうとしているのだ。逃げなければ。だが足はどうしたことかびくとも動かない。本気でわしを殺すのか。本気で殺したいなら構わんが、どうしてお前はそんなに大馬鹿なのだ。ただただ人を殺すなど─────

 「やめて!」と鋭い女の声が聞こえ、横から自分に覆い被さってきたものに、老人は視界を遮られた。どん、と激しい衝撃が女の背中から老人に伝わった。刺されたのだ。この人が自分を助けようとして身代わりになり、刺されたのだ。女からナイフを引き抜く男の顔が、喜悦に歪んでいるのが、女の肩越しに見えた。

 「おおお」

 老人は呻いた。

 「おおおおお」

 

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