た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

新しい一日のための動機づけ。

2007年11月29日 | 写真とことば

さうだ、さうだ、あしたの朝は りんごを かじろう。



※写真は八島ヶ原湿原。
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ある人の言葉(45)

2007年11月27日 | 写真とことば
──年を取るとだんだん声が大きくなるってほんとですか?

──まあなあ。聞いてくれる人が近くにいなくなるからなあ。



※写真は戸隠鏡池。
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※ ・ .  . ・  .

2007年11月17日 | 写真とことば
老いは抽象を嫌う。


嫉妬である。


滑らかさに対する。






写真は善光寺蔵元西之門資料館。
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バスを待つ

2007年11月12日 | essay
 老N氏を病院に見舞う。

 小一時間の見舞いを終え、病院の前のバス停のベンチに腰掛けてバスを待つ。目の前が道路を挟んで廃屋である。もとは幼稚園だったのだろうか、それにしては庭に何の遊具の跡もない。公民館か何かか。それにしては全体の作りが小さい気がする。何だか冗談のように作られた建造物だと思った。二階のベランダにはまだ何かが赤い花を咲かせている。水なんてやらなくても勝手に咲いているのだろう。荒れ放題の庭にはセイタカアワダチソウがはびこる。


 「でも元気そうで安心しました」

 私は今回の見舞いで一つ嘘をついた。個室のベッドに横たわるN氏は三年前の私の記憶とは別人であった。最初部屋を間違えたのではと疑ったほどだ。こんなところ早く出ちゃってください。と、これは本音をつぶやいた。


 廃屋のガラス窓には一面に紙が貼られ、建物の中は確かめようがない。丁寧なことである。崩れかけた靴箱と、セイタカアワダチソウと、二階のベランダにのたうつ赤い花だけでも、中を覗こうという気を失せさせるには十分であったのに。更地にしてゼロから作り直さない限り、この土地が元気を取り戻すことはもうないのだろう。土地を見捨てるとはこういうことなのだろう。病院の前にこんなものがあってはいけない。私はベンチに腰掛けて体を丸めたまま、道路の左右を見渡した。時刻表の告示に違わず、バスはまだ当分来そうになかった。  
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秋を見る。

2007年11月07日 | essay
先月下旬に知人と上高地を歩いた。秋を眺めに行った訳である。夏と冬は遊ぶものであれ、見に行こうという気にはさほどならないが、春と秋がそういう気にさせるのは不思議と言えば不思議である。おそらく、春と秋には始まりも終わりもないのであろう。つねに移ろいゆく光の揺らめきであり、それだけにその瞬間瞬間を記憶に留めようと欲するのだろう。私と知人は何度も佇(たたず)んだ。格別会話をするわけでもなくただ佇んだのである。そうすれば二度と戻らない何かを肌で感じられるとでも思ったのだろうか。それは場所により風であったり、日差しであったり、冷気であったり、恐ろしく澄んだ水面の反射する風や日差しや冷気であったりしたのだが、そういう水辺に立つときは、我々は生きてきた時間を禊(みそ)ぐかのように、静粛にいつまでも眼を瞠(みは)った。
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ある人の言葉(44)

2007年11月04日 | 写真とことば
うまくいくわけゃないんだよ。

うまくいくってことが何なのか

もう十年も忘れてちゃ。

まるで産毛の生え際だね

あんたのいうことを聞いてると。

え? そうだね。それでもアンコール。

それとさ。幕引きくらい自分でしなよ。
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