た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

タヒボベビーダ

2010年02月08日 | 食べ物
 そう言えば昔は不思議な缶ジュースがいろいろあったなあと、ふと思いだした。高校生のころだったか、電車の旅に出かけた時、JRの駅の構内の自動販売機で買った缶ジュースは、生まれてこの方味わったことがないほど不味かった。あんまり不味かったので名前を覚えた。確か「タヒボベビーダ」とか言ったと思う。なんでも樹木の皮から採った汁を使っているとかで、世界のどこかではこういう飲料があるとかないとかが缶の説明書きに書いてあった。あの飲み物はあれ以来一度も見かけていない。ああいう代物を百円でも取って売ろうとした業者の神経がわからない。しかし、変わった物なら一度は味わってみたいという私みたいな野次馬根性の人間がいる限り、商売が成り立つのだろう。

 また、昔のコンビニは個人経営が多く、日の出とともに開店して日没後しばらくしたら閉店するような平和な店が多かったが、これも高校生のころ、そんな店の一つでコーヒーサイダーなるものを買い求めたことがある。名前が確かそのままコーヒーサイダーだったと思う。飲めば、何のことはない、コーラの味がした。ただし本物のコーラとは微妙に違う。自分でも実験してみたが、インスタントコーヒーに炭酸を混ぜたら、やっぱりなんとなくコーラの味がした。そうか、コーラとはコーヒーのサイダー割のことだったのだ。その大発見を有頂天で友人たちに話したら、みんなに馬鹿にされた。そのうち自分でも自信をなくしてコーラ=コーヒーサイダー説を取り下げてしまった。今ではとてもそんな実験をする気が起らないから、実際に炭酸入りコーヒーがどんな味だったか、はっきりとは思いだせないでいる。
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7月6日 カレーの話

2009年07月06日 | 食べ物
 自分はカレーが好きである。カレーならいつでも食べられると思っている。そこがおかしい。自分のようなカレー崇拝は世間に割合多いみたいだが、そうなると世間一般がおかしい。人間の体というのはいろいろなものを食した方が喜ぶに違いないのだ。ご飯やみそ汁が好きというのは、長年の習慣のなせる技だからまだわかる。なぜカレーなのだ。本当はもう食堂に入ってカレーなど注文したくないのである。馬鹿の一つ覚えみたいに思われるのは嫌なのだ。「今日はあっさりと蕎麦でも啜るかな」とか、「香ばしい匂いがするからヒレカツにしてみよう」とか、「この季節はサンマでしょう」とか言ってみたいのだ。もちろん自分も大人である。そういうものを注文するときもある。しかし注文する端から、ああ、やっぱりカレーにしておけば良かったかあと内心後悔するのである。また逆に、カレーを注文した場合でも、ひと匙口に入れた途端、ああ、このわかりきった味をどうして自分はこんなせっかくの旅先のレストランで注文したのだ! とやっぱり後悔するのである。こうなるともはや、カレーに対して憎悪の念すら湧く。しかしカレーは、憎悪の念が湧いても口にできるのである。不思議である。
 結局、刺激なのだろうか、と推測する。複雑に絡み合い畳みかける香辛料の刺激が、胃袋と脳に心地よい満足感をもたらすのだろうか。何しろ現代はお金を出して刺激を得る時代である。いやいや現代まで話を広げる必要はないか。
 ところで今日の昼は外食する必要があり、ラーメンを食べた。ラーメンもなかなか魅力的で魔力的な食べ物である。しかしどうしてもカレーには敵わない。ラーメンはいろいろなラーメンを試してみたくなるが、カレーはカレーでいいのである。
 底が知れない。こういうのを相手にして書くと収まりがつかなくなるから、もう止めにしよう。
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ポールジロー

2009年04月03日 | 食べ物
 旧年度が終わった。年度の終わりにはポールジローと去年の暮れあたりから決めていたので、仕事が終わったその足でバーへ。その足と言っても距離がある。よって自転車である。自転車で飲みに行き、自転車で坂道を駆け上り、帰宅する。普段の行き帰りには車を使うので、なかなか過酷な行事である。それでもバーへ行く。太ももが急性筋肉痛になってでも(そうか、筋肉痛はだいたい急性のものか)、バーに行く。家人をダイニングテーブルに頬杖つきながら待たせてでも、バーへ行く。立派なことである。こういう輩はとうてい長生きできまい。
 
 「何だかさ」
 掌に載せたグラスが温かみを失うころに、ぽつりとつぶやく。
 「たとえば、高校に入った子が卒業していく。つまりそれだけで三年経ったんだ」
 バーテンダーはナプキンを動かす手を止めない。私も相槌を期待していない。
 私はしみたれた風に一口すする。 
 「こっちは何にも変わってないんだ。見送るだけだよ。いつも見送ってばかりいる仕事だ。」
 ────なるほど。
 「立ち止っていると、年をとるね」

 一杯のポールジローは吝嗇してもすぐに無くなった。私はしょざいなく店内を二度見渡してから、鞄を持って立ち上がった。
 「年度の終わりにポールジローだよ」

 さて、早く帰らなければいけない。やはり何といっても、家人を待たせるのは怖いことであるから。
 
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竹鶴35年

2009年03月11日 | 食べ物
 とあるバーで。

 借金してでも飲みたい酒があることを知った。あと数滴ほどボトルに残っているのを追加注文しようとしたら、それは予約が入っているので駄目だと言われた。何でも、東京からわざわざその数滴を嗅ぎに松本まで来る人がいるらしい。ほんとか知らん。閉店後マスターが自分で飲みたいだけなのではなかろうか。

 空になったグラスを、未練がましく何度も鼻にあてる。

 35年は、私と同じ歳である。ついでにマスターとも同じ年である。こんな芳しい歳の取り方を我々はしているだろうか、と彼に問うたら、首筋のあたりから、と彼が答えた。首筋のあたりから、おやじ臭がしてますよ、と。

 冗談じゃない。35歳はこんなに若く、深みがあるのだ。こんなに素敵なのだ。よし、何だか元気が出てきた。マスター、お勘定。
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人・トニック

2007年10月05日 | 食べ物
 ジン・トニックという飲み物がある。ジンを指定の炭酸で割ってライムを落とした(あるいは飾った)非常にわかりやすいカクテルである。バーに入る。これを注文する。すると必ずといっていいほど他の店とは全然違う味が出る。無論、カクテルならいずれのカクテルでも店により違う味が出るには相違ない。それはそうだろうが、それでもこのロング・カクテルはやけにストライクゾーンが広い気がする。材料の組み合わせそのものが黄金率のようによくできているのもその一因だろう。さほど酒に詳しくないくせに勝手に憶測すれば。
 不思議なことに、今一つの街にいて、街にある四軒のジントニックが四軒ながらいずれも美味しい気がするのだ。最近さらに五軒目に出会った。
 語弊のないように急いで言い添えれば、ストライクどころか「大暴投」のJ.T.も一度ならず味わってきた。何でもいいというわけではない。おそらく飲み客が思うほど作るに易しくないカクテルに違いない。それでも、許容性が高いと感じるのは、店によってどこでこのロング・カクテルの味をまとめるか、その狙いが、これほど多様なものも少ないと心得るからである。酒にさほど詳しくないくせに。
 ライムの苦味でまとめる店がある。ジンの香りでまとめる店がある。炭酸でまとめる店もある。どの味もそれぞれに味わいがある。私好みの味はあるが、それはそれとして多様性を楽しめる。その場の雰囲気を機敏に汲み取るカクテルでもある。
 結局のところ、マスターの人柄が一番滲み出やすいカクテルだと思う次第である。
 
 それで今夜も何だか知らないが、手始めはジントニックから行こうか。
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いくら丼みたび。

2007年10月03日 | 食べ物
なぜかいくらについている。懇意にしているA寿しからの差し入れ。
せっかくだから田舎から送られてきた新米を炊いていくら丼にする。
ステンレスのスプーンだと繊細な風味を損ねるので、箸でかき込む。
真の贅沢は人の恩と心得たり。

秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 食の色にぞ 驚かれぬる
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いくら丼ふたたび

2006年12月02日 | 食べ物
 いくらが届いた。昨年いただいた方から今年も届いた。昨年はお越しいただいた返礼として受け取ったが、今年は別に何があったわけでもない。こちらは何もしていないのにいただいたわけである。こういう親切はなかなかできるものではない。私のような器の小さい人間からしてみれば、ほとんど奇跡に近い。
 
 多くの人は、自分に何かしてくれる人には何かしてあげようと思う。それは当然の理である。私もそうである。何もしていない人に何かしてあげようとする人に出会うとき、私は驚き言葉を失う。

 いくらは早速いくら丼にして食べた。労働時間十二時間を優に越え、殺人的な忙しさであるこの土曜日、海の幸人の恩にどれだけ助けられたことか。
 この方の漬けるいくらは、ちょっと表現に困るほど旨い。様々な漬け方をされたいくらが、小分けにして冷凍されている。楽しみはこれからまだまだ続く。

 いつになれば、私もこういう親切ができるのだろうか。いつか、するのだろうか。
 
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Chardonnay

2006年04月04日 | 食べ物
おいしいワインをいただいたら

一日が終わってしまった。

おいしいワインめ。
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いくら丼

2005年12月17日 | 食べ物
 北海道出身の人からいくらのしょうゆ漬けを贈られた。
 そんな高価なものをいただくすじあいじゃございませんいえほんとそんなそんなそうですか?とその日には喜び勇んでいくら丼にして食ってしまった。
 全部の解凍を待ちきれずご飯に盛り付けて写真に収めたので、本当はこの三倍の量のいくらがあったのだ。
 いかん、私はいくら丼となると事を急いてしまうようだ。まず前提から話し始めなければならない。
 私はいくら丼が好きなのだ。
 ずっとずっと好きなのだ。
 いかん、私はいくら丼となると文章が稚拙を増すようだ。ずっとずっとなんて、三十を過ぎた大人が使う修辞だろうか?
 どうも上手く書けない。
 仕方がないから、いくら丼賛歌を歌おう。


 思い出すのは
 大洋に沈む紅の日の色
 雲に頬寄せる天女の涙となりて
 その数限りなし。

 
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カレーに目が行くのはなぜか

2005年10月15日 | 食べ物
問い :美味しくて珍しいものを食べたくて入ったレストランでメニューを開いた途端、カレーに目が行くのはなぜか。


答え1:美味不味は予測不可能である。香辛料的刺激は確実である。人は冒険しようというときでさえ確実性に惹かれるがゆえに。


答え2:メニューを選ぶことが面倒くさくなったとき、カレーはあらゆる意味で面倒くさくない食べ物として魅力を放つ。一つ、食べ方が簡単。一つ、調理時間が短い(はずである)。一つ、料金が妥当。


答え3:カレーは食欲をそそる。滋養をつける。元気が出る。漢方薬を食べるようなものである。それを知っている体が欲する。


答え4:とにかく旨いっしょ、カレーは。


答え5:カレーは庶民の味。庶民なんだよ、あんたは。


▼真実(トゥルー)はルーの中にあり。綴りが違うけど。
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