中房(なかぶさ)温泉はいい温泉である。1400メートルばかりも山道を登ったところにあり、そこからさらに燕岳(つばくろだけ)へ登山する入口になっているのだから、山の中の中である。渓谷に蝉時雨が響き渡り、野猿が道端でお迎えしようかというような奥地である。新緑に目を潤し、清涼な空気に喉を洗う。衣服を脱ぎ捨てて露天風呂に入れば、巨石が取り囲む湯船に、透明だが硫黄臭のある温泉がなみなみと溢れている。湯船は二つ、熱いのとぬるいのがある。まずは熱い方に入る。湯がじんじんと体中のツボを刺してくるが、しばらく入っているうちに熱さも落ち着き、柔らかく体を包んでくれるのを感じる。見上げれば青空に松。これで元気が出てこないはずはない。元気は元気だが、なんともゆったりとした元気である。隣のぬるいのに移れば、効能ある泉水に全身を浸らせているという感覚はさらに増す。このまましばらく眠ってもいいかなと思う。もちろん眠るわけにはいかない。
湯上りには前庭の長椅子に座り、呆然とそよ風に当たる。なんだか来る途中に見た猿になったような気分である。あいつらは文明を眺めてぼうとしていた。自分は自然をながめながらぼうとしている。そんなに大差はない。
またいつか、猿になりにここに来よう。