た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

創作日記

2013年09月24日 | essay
 久しぶりに一つ、短いながらまとまった物を仕上げつつある。
 農業は半年や一年がかりで実りを収穫するわけだが、物を書くにもそれくらいの、いやそれ以上の気の長さが必要である。それでも出来た果実が渋かったり不味かったりそもそも最後まで実らなかったりするわけだから、たいてい嫌になってしまう。
 嫌になってもそれしか心の向くものがないから、性懲りなしにまた畑を耕し、種を撒くわけである。
 性分というか、業(ごう)である。
 虫の音が聞こえる時節になった。今回の作品は確か蝉の鳴き始めた初夏に着手したので、今のところ三か月かそこら。
 下書きを書き上げた段階で、誰かに読み聞かせたくなった。適当な人が近くにいない。やむなく息子を強引に呼び寄せ、三十分かけて読み聞かせた。なかなか面白いが、何か足らない、と一人前の感想を言う。当然足らないのである。色々足らないのである。仕上がりつつあるどころではない。二稿、三稿と重ねていき、いっぱしの実りを迎えるには冬を越す必要があるか。いや、再度暑い夏をくぐらないと色づかないか。それとも、歳月をどれだけ経ても、ただただ水気が抜けて皺だらけになり、結局一度も完成の日の目を見ずに地に落ちて朽ち果てるか。



 先日、車を走らせ、眺望のなかなか良い露天風呂に入りに行った。夕暮れ時の浴槽で、お笑い芸人の卵だという人と行き会った。喋りが職業だから当然と言えばそうだが、人と出会って話をするのが好きだと言う。さっぱりした気持のいい男である。互いの夢を語り合い、励まし合って、別れた。もちろん、夢はただ語り合うためのものではないことは、二人とも、心に承知している。簡単に励ますものではなく、励ましてもらいたくもないことも、よく承知している。煎じつめれば性分だから続けているに過ぎないことも、重々予感している。それでも、互いの出会いは嬉しかった。励みであった。
 そこの露天風呂は、少しぬるいが、落日と、宵闇の中の街明かりが印象的である。
 またいつか立ち寄りたいと思う。彼にも、またいつの日か、出会ってみたい。互いがそのとき、どうなっていようとも。
 


 題名はどうするの、と息子。それも決めかねている。題名だけ決めて中身が仕上がらなければ悲しいから、完成まで待つと言えばそうであるが、そもそも題名のイメージすら湧かないのである。それはこの作品の焦点が定まり切っていない証拠か。何か足らない一番は、そこか。

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午前九時、中央道のSAにて

2013年09月17日 | 俳句

 空の青 ただのあおにも 秋の色
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雑感

2013年09月10日 | essay
 三人寄れば人は馬鹿話をする傾向がある。いやもちろん二人寄っても馬鹿話はできるのだが、その馬鹿話は往々にして真面目な話をするためのマクラみたいなものである。一方、三人寄った際は、もちろんちょくちょく真面目な話も出てくるのだが、それはえてして本題の馬鹿話のための口ゆすぎみたいな役目しか担わない。
 以上は大変偏った見解であり、おおかた間違っているのだろうが、私個人はそれを真実として疑わない。
 あ、ちなみにこの場合、「寄る」というのは、酒を飲みに「寄る」という意味です。

 先日、近所の知り合い三人と馳走を囲んだ。酒が入るにつれ、断定口調が飛び交う。政治論議がある。経済指南もある。人身攻撃などしょっちゅうである。かと思うと全てが下ネタに結びつけられたりする。結局、やれ飲み過ぎたで話が終わる。
 やれやれと思う。地域経済の循環にはこういう無駄な浪費が欠かせないのだろうが、それにしても、偉大なる浪費である。時間と、金と、健康の。
 あ、ちなみにこの場合、酒を飲みに「寄る」と言ってもおっさん三人のケースです。

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