た・たむ!

言の葉探しに野に出かけたら
         空のあお葉を牛が食む食む

桃の行方

2019年08月26日 | essay

 

 年を重ねると誰でも引きこもりがちになる、と人に言われたが、なるほど自分も若い時と比べて外に飲みに出ることがずいぶんと少なくなった。家庭的な人間となったのである。それでも時には、刺激を求めて、あるいはもう少し自己弁護して言うなら、自分の中の感受性が鈍磨するのを恐れて(なぜ飲みに出ると感受性が鈍磨しないのかはともかく)、夜の街を歩くこともある。そういうときは、なるべく新しい店を見つけようとする。

 二月の寒い時期に小さな居酒屋を見つけた。カウンターに五、六席ほどしかない。小母さんが一人で切り盛りする店である。自分が初めて訪ねたとき、彼女は客のいないカウンターに突っ伏して寝ていた。やれやれとんだ店に来たと思ったが、「ごめんなさい、暇だから眠っちゃった」と目を擦りながら詫びる彼女の姿に、取り繕いや言い訳がましさがない。よく見ると正直者の丁稚のような顔つきをしている。なんだか居心地よさを覚えて席についた。

 背伸びをすれば壁に当たる狭い店だが、窮屈な感じはしない。何年も行きつけた馴染の店のような気分になる。出てくる小皿は格別手の込んだものではないが、どれもいい味を出している。聞くと実家は田舎で、桃を栽培しているとか。親が年老いたので、娘の自分が今年から手伝いに行き始めたのだと言う。へえ、桃ができるんだ。一度たべてみたいな、という話になり、酔った勢いも手伝って、前金を払って予約注文してしまった。 

 それから春が過ぎ、夏が訪れ、自分も仕事が忙しくなった。あの居酒屋と桃のことはときおり頭を掠めるが、再訪する機会を逸していた。それでもあの実直な女将のことだから、桃は送ってくれるに違いない、と思ってみた。いやあの店に立ち寄ったのも一度きりだし、送ってこないのじゃないか、と疑いもした。何で桃なんか注文したんだろうとも思った。桃は確かに好物だが、人から貰うもののような気がしていた。自ら注文したのは初めてである。

 家人に報告すると、へえ、桃なんて珍しいじゃない、と驚いた風を見せ、でも楽しみね、と付け加えた。

 お盆を過ぎて夏の盛りを越し、朝夕にひんやりした空気を感じ始めても、桃は一向に送られてくる気配がなかった。電話一本、メール一つない。スーパーで桃を見かけた家人が、あの桃はどうなったの、とせっついてきた。私より期待していたらしい。うん、どうなったんだろう、と自分もいい加減な生返事をした。

 

 朝から晩まで仕事場に詰める必要がようやくなくなった、八月下旬の雨上がりの夜、私はあの居酒屋を再び訪れた。初めて訪れた時と違い、店内は複数の客でにぎわっていた。

 入口の引き戸を開け、女将と目を合わせたのが数秒間。私の顔を思い出した彼女は、悲痛な声で、「ああ、何回も連絡したのに!」と叫んだ。聞くと、あの日から私の前払い金を封筒に入れて冷蔵庫に貼りつけ、片時も忘れないようにしていたという。桃が出荷できる時期になると、私の書いた電話番号にメールもし、電話もかけ、留守電にもメッセージを残した。が、一向に返事が返ってこない。なんど連絡を取ろうとしても、取れない。そもそも、現物を送る前に連絡する、という約束だったらしい。自分は酔った上の記憶でよく覚えていなかった。それにしても変な話である。こちらの携帯にそんな履歴は一度もない。メモ書きを見ると、番号は間違っていない。間違ってないけど、と言うと、でもそこに掛けたのよ、と言い返す。数回の押し問答の末、自分が酔って書いた9を、彼女が7と読み間違えたことが判明した。そう言われて再度見ると、なるほど丸の部分が潰れて7にも見える。これは自分の悪い癖である。過去にも自分の書いた9を7と読み間違えたことがあった。自分で自分の字を読み間違えたのである。これはこちらが全面的に悪い。私は素直に彼女に謝罪した。

  数字の読み間違えは笑い話で済んだが、運悪く桃の出荷はちょうど終了したところ。女将は自家製の桃を食べてもらえなかったことを心から悔しがった。こちらも、話に聞いた桃を食べられなかったことが心残りであった。酒を飲んで談笑しながら、彼女が「とりあえずこれはこのままお返ししますね」と出した封筒を差し返し、じゃあこれで来年の予約を、と願い出た。

 隣席の客とも話が盛り上がり、酔いも回っていい気分になった。酒の追加を注文しようと女将を見ると、細い目が今にも塞がりそうである。正直者の丁稚が、番頭の小言を聞きながら眠くなりました、という顔をしている。

 「眠そうだね」

 「うん、なぜだか眠い」

 問い質すと、早朝から実家の白菜の種植えをやったのだとか。そう言えば最初にこの店に来た時も寝ていたな、と思い出し、含み笑いをしながら席を立った。

 

 店を出たら、夜風は秋の匂いがした。

 桃は来年届くと思う。それまでにもう何度かはこの店を訪れるつもりである。

 

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高橋是清

2019年08月22日 | 怪談

 高橋是清と言う人の自伝を読んでいる。どうもすごい人物である。若いときにアメリカに渡ると、騙されて奴隷のように働かされ、日本に戻ってきてからは実に多種多様な仕事に就いたり辞めたり、一念発起して猛勉強したり、飲んだくれて放蕩したりしている。大事業にも失敗する。そのあと日銀総裁になり、さらには日本の首相にまでなるはずだが、まだそこまで読み進めていない。これだけ乱暴に生きながら、なおかつ大きな仕事を成し遂げるところがすごい。

 翻って我が身を思うと、乱暴にも生きていないが、大したことをしていないなあとつくづく感じる。器も違うが、時代も違う。と、時代のせいにしたがるところが、何より器の小さい所以かもしれない。

  

 雨上がりに湧水を汲みに行きながら、そんなことを考えた。

 

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鷲が峰とマルタイラーメン

2019年08月09日 | 怪談

 仕事と仕事の合間を縫って、夫婦で鷲が峰に登る。前回悪天候で断念した山である。

 牛が背中を丸めた、その背中の稜線を登る感じの山である。険しくはないが木立もない。眺望はいいが、夏の盛りには木立が欲しい。天日に晒され、危うく熱射病になりかけた。

 往復で二時間とかからない山だから、時間を持て余し、麓の八島湿原まで歩く。

 空き地の前を通りかかると、ちょうど昼時で、四方から約束しあったように人々が次々と集結し、弁当を広げ始めた。コンロを焚いている人もいる。ああ、ここならと、我々も携帯コンロを取り出し、念願のマルタイラーメンを作った。隣では魔法瓶の湯でカップラーメンを啜っていた。離れたところでは缶ビールを二、三本空にしている年寄り衆もいた。みんなそれぞれだが、なぜか寄り集まって食事をするのである。こういう暗黙の了解のような場所がどの山にもあるらしい。こんな風景を見ていると、みんな本当は歩きたいのではなく、食事がしたいのだ、それも、自分たちの献立をさりげなく見せ合いたいのだと思ってしまう。つくづく不思議な人種である。我々夫婦ももちろんその仲間である。

 マルタイラーメンはあっさりして美味しかった。

 

 食事を終え、再び歩き出す。次回は何を作ろうか、リゾットにしようか、などと言い合いながら歩いていたら、突然の大雨に打たれた。全身濡れ鼠である。あまりよこしまな考えで歩いていたから、天罰が下ったのかも知れない。

 

 次回は乗鞍か。

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