それでも君は歩き続ける
そんな君にどれほど勇気づけられていることか!
大事なことは、
今日と同じことを明日もすることだと
君にようやく気づかされた。
たとえその先に何が待ち構えていようと
どれほどの苦難と絶望に襲われようと
それでも君は歩き続ける。
それがいかに力強いことか!
それがいかに美しいことか!
それでも君は歩き続ける
そんな君にどれほど勇気づけられていることか!
大事なことは、
今日と同じことを明日もすることだと
君にようやく気づかされた。
たとえその先に何が待ち構えていようと
どれほどの苦難と絶望に襲われようと
それでも君は歩き続ける。
それがいかに力強いことか!
それがいかに美しいことか!
牛伏川河川敷で、秋のバーベキューをする。
川はフランス式階段工とかいう耳慣れない名称を持つ。石畳でいくつも段差を作り、川の流れを緩やかにしている。大正時代に出来たもので、重要文化財にまで指定されているが、森の中にあって訪れる人はごく少ない。
バーベキューの食材は寿司屋を営む人が用意してくれたので、魚類中心である。当然選択眼が違う。肉厚の巨大なイカの一夜干し、骨まで味のあるノドグロ、脂の乗ったサンマ・・。炭火に最後の野性的な味付けを施された食材は、口の中で豊饒な秋の賛歌を奏でる。簡単に言えば、旨い。どれもこれも旨い。
青空は高い。清流は石畳の上をせせらぎ、日の光を受けて幾重にも煌めく。山は近く、街ははるかに遠い。木々を抜けてきた空気は清冽である。近くにあるあずま屋の屋根には時折ドングリが落ちて音を立て、陽気な鼓笛隊のようである。そのあとはまた静かになる。暑くも寒くもない。緑の芝が風にそよぐ。
一年に数回、目に映るものすべてが金色(こんじき)に輝いて見える日がある。
そんな一日であった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(あまりにも贅沢な気持ちに満たされたので、気が大きくなり、帰りに立ち寄った地元の物産店で、松茸を買おうかという衝動に駆られた。が、値段を見て踏みとどまった。その瞬間に、現実世界に引き戻されたと言える。)
結婚式によばれた。齢四十を過ぎるとなかなか周囲に話がなくなり、五、六年ぶりの招待状である。それも私の教え子の挙式ということで、ずいぶん気合を入れて身支度を整え、祝儀には袱紗(ふくさ)まで巻いて会場に乗り込んだ。ただし慣れないことはするものではなく、受付で袱紗に巻いたまま渡そうとして、受付係の若い子を戸惑わせた。袱紗は自分で開いて水引だけを受付に差し出すのですね。
恩師として招かれた以上、酔いつぶれたり社会の窓が開いてたりはもちろん御法度であり、一定の威厳と品位を最後まで保ち続ける必要があった。ところが普段の生活では威厳も品位もその欠片すら見当たらないのだから、当日は、普段張らない胸を張り、普段の一・五倍はゆっくりと歩き、普段は湛えない上品な笑みを湛えた。気疲れするといえば気疲れするが、それでも普段よりはいい男に見えるのではないかという自惚れと、眼前に広がる華やかさで、それなりに楽しく時を過ごした。ドレスに意匠を凝らす女性陣は、その高揚感たるや男性の比ではないのだろう。
儀式はいいものである。それは人から自由と勝手気ままを奪うが、言葉で人の道を千語説くよりも、一遍に人をちゃんとした人間にさせてしまう。古来から儀式が複雑さを増したのは、人民を統治するうえで欠かせない手段だったのだろう。ではひるがえって統治者の立場にとってはどうか。自由と勝手気ままを誰よりも享受できる王様としては、儀式なぞない方がずっと過ごしやすくないか。思うに、壮大な儀式を執り行う王様自身の自己満足も多分にあろうが、何より、王様の暴走を抑止するためにも、儀式は案外重要な役割を果たしていたのではなかろうか。王様も儀式の間はきちんとしていなければいけない。無茶な命令や気分次第の行動は自然と慎むことになる。
儀式とは、統治者、非統治者の双方が、双方に対する抑止として執り行うものであり、それを当事者たちが意識していたか否かはともかく、歴史上それなりに機能していた。その儀式が、自由を手に入れた現代、次々と簡略化され、疎外されてきている。うーん、それが何を意味するかまでは考えが及ばないなあ。
いろいろなゴタクはともかく、儀式はそれ自体感動するものである。教え子の晴れ姿を見ながら、万感の思いで何度も目頭を熱くした。いい式であった。気が張っていたのでせっかくのシャンパンやワインがさほど喉を通らなかったが、それは致し方ない。
先ごろ、ネット上で、日本一美しい土器の人気投票なるものがあり、茅野市に出土したいわゆる「縄文のビーナス」がグランプリを獲得したという。はい、はい。数年前から彼女に惚れこんだ私としては、至極当然、何を今更、と言いたいところである。
彼女は美しい。だがなぜ美しいかを説明するのは難しい。彼女の美に接するには、まず我々の意識に巣食う、リアリティという名の先入観を排除しなければならない。「縄文のビーナス」は当たり前ながら、生身の人間には全く似ていない。太ももは大きすぎるし、おなかの出方は異常であるし、その割に、乳房はついでに付けたように小さい。顔の造作に至っては、小学生の方がもっとリアルに描けるだろう。
彼女は、お人形さんとして百円均一で籠に山盛りに売られていても、誰も手に取らないような、素朴でへんてこな外観をしている───少なくとも、レプリカでは。レプリカでは駄目だ。複製では、本物の持ついいところが何一つ伝わらない。どんなに精緻に真似しても、本物を目の前にしたときに感じる圧倒的な存在感は出せない。だから彼女のミニサイズ貯金箱とか、彼女の絵入り大学ノートとかは、まったく意味をなさないのだ(そんなものが出回っているかどうかは知らないが)。
本物の彼女だけが持つ魅力は何か。一つ言えるのは、質感である。じっと、二十分も三十分も眺めていると、その質感がエロティックなまでの魅力を帯びて迫ってくる。思わず触れてみたくなる。優しくそっと撫でてみたくなる。こう書くと変態だと思われるかもしれない(先ほどから使っている「彼女」という呼称もその誤解を招きかねない)が、念のため断っておくと私は変態ではない。しかし、この作品はひょっとして変態が作り上げたのでは、と思われるほどの凄みを感じることは出来る(遠い祖先に失礼な話であるが)。女性性というものに対する執念と言ったらよいか。臀部の滑らかな曲線、胸を張った清楚な佇まい、そして媚びを売らないきりっとした無表情。ある意味、女性の理想像を体現している。
こうなるとなぜ乳房を極端に小さくしたかが現代人としては気になるところだが、ひょっとして、と想像を逞しくする。この土偶の制作者は、他の土偶と同じく、祭祀に使うものとして、神様を表現しなければならなかった。例えば乳房を大きくすることなどは、ご神体としてはタブーであったのだ。しかし彼は、ただただ形式的な神様像をこね上げるにはあまりに芸術家肌であった。彼は密かに、自分の理想とする女性(それが実在したかどうかはさておき)をその作品に投影させずにはいられなかった。祭祀用として許されるぎりぎりのところまで、彼は自分の表現力を解放させた。あるいは、解放させ過ぎた。出来上がった像を見て、長老に叱られたかも知れない。おいこら、こりゃエロティックすぎるぞ、と。
こんなことをいろいろ思いながら土器と向き合っていると、楽しくて時間が経つのを忘れてしまう。歴史は謎に満ちている。その謎が当時の人間の息遣いまでも垣間見せるとき、リアリティというものがまったく別の立ち現われ方を始める。
議論好きの知人の提案で、ただただいつものように議論するだけでは面白くない、鉢伏山をハイキングした後、山荘の一室を借りて議論をしようということになった。私は議論も山歩きも決して嫌いではないが、両方を一度にやってしまうひらめきはさすがに持ち合わせてなかった。世の中には物好きのさらに上を行く物好きな人間がいるものである。
日取りは土曜の午前。参加者は四人(よく四人集まったものである)。私を除く三人は一台の車で後から、私は自分の車で一足先に鉢伏山に向かう。おりしも横殴りの雨が降る大荒れの天気で、上に近づくほど、その激しさは増した。霧も立ちこめ、五十メートル先が見えない。ハイキングどころか山荘に辿り着くのも危険な状況を呈してきたので、後続の車に連絡を取ったら、山荘の支配人に昼食の準備までしてもらっていることだし、とにかく山荘を目指そうと言う。
雨がフロントガラスに打ちつけ、風は車体を揺らし、外の冷え込みが車内にまで浸透する。はっと気づけば、霧の中から大きなトラックが材木を積載して真正面に現れた。慌ててバックを試みるが、道は狭く、霧で何も見えず、このまま退がれば脱輪するかもしれない恐怖に襲われる。
ようようのことでトラックをやり過ごし、さらに上を目指す。路面は真っ白な霧に没し、自分をどこに導いているのかさっぱり見えてこないが、行けども行けどもさらに先へと続く。路肩に、朽ちた様な立木がぽつぽつと現れては後方に消えていく。ハンドルを小刻みに切りながら、不思議とだんだん心が穏やかになる。ああ、死へ向かう道のりはひょっとしてこのようなものかも知れないなあ、などと考えたりする。
それでも一時間かけて、何とか死なずに山荘までたどり着けた。もう一台も何事もなかったかのように到着。さすがにハイキングは断念。晴れていたら見事な眺望だという大窓に山嵐が容赦なく雨滴を叩きつける中、我々四人はさまざまな意見を交換し、山荘の主人の作ったビーフシチューに舌鼓を打ち、下山した。
物好きな連中と触れ合っていると、自分もだんだん物好きさ度合いを増してくるのがわかる。愉しいような、怖いような。
都会暮らしの人がときたま田舎を訪れると、商売とか経済とか、そういったものの定義を根本から疑いたくなるようなものに出会うことがある。その建物もそんな出会いの一つであった。
それは食堂であったが、今も経営しているかどうかの前に、そもそも人が住んでいるかどうかを確かめたくなる面構えであった。古民家と言われれば古民家とも言えた。幽霊屋敷と言われればどう見ても幽霊屋敷であった。しかし一応、「丸山食堂」の看板は出ているのであるし、多年の風雨にさらされたとは言え、その文字は何とか判読できた。
東京から電車とバスを乗り継いできた大学生のカップルが、その建物の前で、丸五分間どうしていいかわからずに佇んだ。
男はこの暑いのにワイシャツ姿で、黒いリュックを背負っている。顎と鼻梁のラインが細い。目つきはクールだがなかなか鋭い。腕まくりした長袖の折り目は正しく、四角い黒ぶちメガネと相まって、神経質な印象を彼に与えている。
女はTシャツに色褪せたデニム、腰に巻いたブラウスの巻き方はいい加減で、肩まである黒髪も自然に伸びるに任せた観があり、男よりはずっとざっくばらんな性格を思わせる。顔つきは身なりほど粗野ではなく、均整の取れた目鼻立ちで、ギリシャ彫刻のような気品がある。ただ当の本人は、ギリシャ彫刻のようにおしとやかに納まるつもりは毛頭ないらしい。
いずれにせよ二人とも、大都会からちょっと散策のつもりで電車に飛び乗って、思わずこんな遠方まで来てしまいましたと言わんばかりの軽装である。
「仕方ないな。他にないんだから」
男は腕を組み、いささかうんざりした表情で看板を見上げながら呟いた。
「いいじゃん、風情があって」
女は男と比べてずっと能天気である。腰に手を当て、彼女としては無意識であろうが、しゃべるときにお尻を振った。「こういうところが、案外すごく美味しかったりして」
男は嘆息しながら首を振る。「それはないね」
「まあ、ね。これが旅よ。冒険するつもりでさ、レッツゴー」
狭い村であった。四方を囲む山々は、緑があまりに濃すぎて何だか窮屈そうに見えた。青空は強烈な八月の太陽を持て余していた。油蝉がしきりに鳴いた。ときおり木立の中で何かが悲鳴を上げた。村人たちはみんな昼寝をしているのか、どの通りにも人けがなかった。
若い男女は食堂に入り、ラーメンとカレーライスを注文した。
「はい、はい。ラーメンと、カレーね」
注文を受けた老婆は、絶えずふらつく体を支えるために、瓶ビール用のガラス張りの冷蔵庫とか、椅子の背もたれとか、張り紙だらけの柱とか、とにかくいろんな物に触りながら厨房へと戻っていった。老婆の後を追って、痩せた猫も厨房へ消えた。
「大丈夫かな」と男。
「いろんな意味でドキドキだわ」と女。
「君はほんと、こういうの好きだよね」
半ばあきれ顔で男はそう言うと、尻のポケットからスマートフォンを取り出した。話の途切れたときにそうするのが癖らしい。女はその所作に一瞬顔を曇らせたが、画面に視線を落とした男はそれに気づいていない。
「一応、周辺の観光を調べておくね」
男はちらりとだけ黒眼鏡越しに視線を上げて女に断った。
「ありがと」
男の一瞥を逃さず、女は髪の毛を払いながら笑顔でそれに答えた。
客は彼らの他に誰もいない。
土間にテーブルと椅子を置いただけの食堂内には、もちろんエアコンなど無い。全身真鍮でできた小さな扇風機が一台回っているだけであるが、案外涼しかった。煤けた梁に貼られた品書きには、ラーメンとカレーライスと日替わり定食とビールとラムネ。日替わり定食は、今日はねえさ、と断られたから、ラーメンとカレーにしたのだ。日替わりがないとはどういうことかと、立っているだけでも震えが来ている様子の老婆に問いただす勇気は、二人とも持ち合わせてなかった。
店内のあちこちを興味深そうにじろじろ眺め回していた女は、向かい合わせに座る旅の伴侶に視線を戻した。彼はこまめに指を動かしながら、スマートフォンに集中している。
「ねえ」
彼女は自分の思い付きが楽しくてしょうがないかのように、含み笑いをして頬杖を突いた。
男は右手から顔を上げた。「ん?」
「ビール飲まない? せっかくだから」
「昼間から? 本気?」
「せっかくの旅行じゃない。一本だけ。せっかくだもん。ね。それにさ・・・どんなものが来ても、ビールがあったら食べられそうじゃない?」
これには男も笑った。「消毒?」
「消毒はひどいわね。そんなんじゃないけど・・・」
「賛成。注文しよう。ただし、酔っぱらって午後一杯動けなくなっても知らないよ」
「大丈夫よ、一本くらい」
男は厨房に向かって「すみません」と声をかけた。が、返事はない。
「すみません」
鍋がコンロに当たる音や、菜箸の触れ合う音は聞こえるが、返事はやはりない。
三度目に声を張り上げると、台所から猫がニャアと答えた。
折り紙や広告紙で作った大小さまざまな紙風船が五個、油と埃の混ざったようなものをうっすら被って、窓の桟に並べてある。単なる紙細工であるが、長い年月を経て、桟に根を張っているのではないかと思われるほど、動かしがたい印象を受ける。埃がひどく、触るのに勇気がいる代物である。それらを眺めながら、女はグラスのビールを飲み干した。頬がほんのりと赤い。
彼女は恋人に目を転じた。
ところがかの恋人は依然として、スマートフォンに目を落としている。女は鼻息をついた。酔っているので、感情を包み隠そうという気が薄れている。気付いてもらえない空のグラスを、音を立ててテーブルに置いた。ビール瓶を持ち上げ、九割がた入っている男のグラスに注ぎ、それから自分のグラスに注いだ。
「ユウ君」
「ん?」
「ラーメンが伸びるよ」
「うん。残り食べてもいいよ」
「あたしカレーでおなか一杯。結構おいしいラーメンじゃない。伸びないうちに食べれば」
「うん」
「ねえ」
語気に驚いてユウ君は顔を上げた。
女は怒りを顕わにしている。
「ちょっと、せっかく二人で旅行しているのに、自分の世界に入り過ぎじゃない?」
ユウ君は眉を顰めた。
「僕は帰りのバスの時間を調べていただけだよ」
「停留所で見たじゃない」
「うん、でももう一つ早い便がないかと思ってね。というのもね、駅まで戻る別の路線バ スもあるみたいなんだ」
女は火照った頬を膨らませ、小皿のたくあんを箸で刺すように摘んだ。
「もうここを出たいわけ?」
「この村には見るものはないよ」
「そんなのわかんないじゃない。探索してみなきゃ」
「無駄だよ。ネットで調べてみたけど、何の観光名所もない。やっぱり、無計画にバスに乗ったりするべきじゃなかったんだ」
「嫌なのね。こういう旅が」
「嫌ってわけじゃないけど・・・でも、ほんとに何にもないよ、ここには。古い寺しかない。怪しげな温泉施設が一軒あるけど、温泉に入るにはまだ早いだろ」
「そうなんだ。ユウ君は、観光名所じゃなきゃ、見てもつまんないと思ってるのね?」
「まず間違いないね」
「つまんない男」
「サヤ」
どんなに大人しい男だって、こんなことを言われたら黙っているわけにはいかない。ユウ君は急激に湧いてきた憤りに押し倒されたように、椅子の背もたれに背中を押しあて、歯の隙間から息を荒げた。スマートフォンの電源を切って、機器をテーブルに置く。
重苦しい空気が二人の間に横たわった。
「サヤ、僕らは嗜好が違うのかも知れない」
「違うわね。大いに違うわ。私は名もない山や川を見て十分楽しいけど、ユウ君は立て看板に説明書きと、広い駐車場と併設の土産物屋でもなきゃ、見る価値がないと思ってるのね」
「それは言い過ぎだよ」
「言い過ぎたのかしら」
「僕だって田舎の風景とか自然とか大好きだ。だから今度の旅に賛成したんじゃないか。でも、せっかく二人で来たんだ。いろいろ日程を調節してさ。僕らにとって大事な旅行だろ?これは。だからこそ失敗したくないんだ」
「失敗って何」
「失敗だよ。わかるだろそんなこと? せっかく旅行してるのに、あんまり面白くなかったりとか、大したことなかったりとかしたら、嫌じゃないか。思い出として」
サヤは空気が抜けた風船のように、頭を抱えこみ、首を横に振った。憐憫を込めた軽蔑というものを仕草に表せるとしたら、彼女は見事にそれに成功していた。
「ユウ君、ユウ君のそういうところが、一番思い出をつまんなくさせるのよ」
「そうだね。何しろつまんない男らしいからね」
ユウ君はビールをがぶ飲みして、口元を手の甲で拭うと、憎悪に燃えた視線のやり場に困ったのか、スマートフォンの電源を再び入れた。
サヤも腕組みをし、横を向いて押し黙った。
(後編につづく)
子どもの歓声がはるか遠くで聞こえる。ほとんど罵り声に近い。
食器棚の上に乗った痩せ猫が、じっと二人の客を見つめる。
男の反撃は終わってなかった。酔った席であろうがなかろうが、自分の惚れた人であろうがなかろうが、彼のプライドをここまで踏みにじられて黙って引き下がるわけにはいかなかった。そうするには、彼はあまりに几帳面であった。彼はスマートフォンを見つめたまま、向かいに座る女に向かって呟いた。一語一語、苦しみながら絞り出すような声で。
「君は、いい加減だ」
「あ、そう」
「いい加減で、身勝手だ」
「え? ちょっとちょっと、どういうこと。え、何? いい加減はわかったわ。私はどうせいい加減よ。そりゃ自分でもわかってるもん。でも何? 身勝手って」
「身勝手だよ。君が無計画好きなのはいい。何でもない田舎の食堂や何でもない普通のカレーやラーメンが好きなのもいい。それは君の好みだから文句は言わない」
顔を真っ赤にしたサヤは、彼に言い返す前に、空のビール瓶を右手に振りながら厨房に向かって叫んだ。
「ビールお代わりお願いします!」
もちろん反応はない。ここの老女将は、火事です、と大声で叫んでも、四、五回繰り返すまでは聞こえないだろう。
サヤは体の上半分を椅子からはみ出させて、腹の底から声を上げて怒鳴った。「すみません! ビールお願いします!」
「僕はもう飲まないよ」
肩透かしをくらった彼女は、体勢を慌てて元に戻した。
「ちなみに──ちなみに私、別に普通のカレーやラーメンとやらが好きなわけじゃないですけど。でも続けて」
「え?」
「いいから続けて。何か言いかけてたじゃない。続けてよ」
「僕はもう飲まないって言ったんだ」
「それは聞いたわ。さっき言いかけてたことよ。私が身勝手だってこと。お願いだから続けて」
ユウ君は眼鏡を外し、目を手の甲で擦ってからかけ直した。
「君が行き当たりばったりの旅をするのは構わない。それに僕を巻き込むのも、まあ構わない」
「構わないんだ」
「構わない。僕が構わないと言ったら構わないよ。でもね(ここで彼は感極まったように拳でテーブルをコツコツと叩いた)、君が君の流儀でやるなら、僕が僕の流儀でやることにも文句を言わないで欲しいね」
「誰が文句言ったの」
「君だよ。覚えてないの?」
「文句なんか言ってないわ」
「言ったよ。自分の言ったこと覚えてないの? 君はね、サヤ、自分の価値観に照らし合わせて人をつまんないとか面白くないとか一方的に決めつけることで、自分を正当化しているんだよ。いい加減なやり方が好きなのは君の自由さ。それは勝手にやってくれ。こっちも付き合える範囲で付き合うよ。でも価値観の違う人間を馬鹿にしてだよ、それで自分を正当化して自己満足するなんて、傲慢だよ。ただただ、傲慢なだけだよ」
不幸なことに、二人とも酔っていた。店の中は直射日光が当たらない分ひんやりしており、扇風機も一台回っていたとは言え、アルコールの入った人間には暑さを感じさせた。おまけにラーメンと、さほど辛くはないがカレーとを食して、二人とも汗を掻いていた。これらの諸要因で、二人とも体の中が火照っており、どこかで退くべきところを共に逃してしまっていた。
サヤの充血した目には涙が溜まっている。
「私は、二人で楽しく旅行したいって言っただけよ」
「絶対そんなこと言ってない。絶対そうは言わなかったよ。だから君はいい加減なんだ」
「ひどい。私はどうせいい加減よ(彼女は一筋流れた涙を拭った)。それは認めるってさっきから言ってるじゃない。でも、でも私はね、普段はそれなりに時間に追われて、レポートとかバイトとか頑張ってんだから、せめてバカンスくらい思いっきり開放的に過ごしたいのよ。それもあなたとの旅行じゃない。思いっきり楽しみたいのよ。あなたも一緒の考えかと思ったんだけど。ごめんなさい。じゃああなたは・・・」
喋っていたサヤが急に息を呑んだ。彼女がほとんど恐怖に近い驚きを感じたことに、いつの間にか老婆が傍らに立っていたのだ。どのタイミングで追加注文の声が届いていたのかわからないが、震える手にビール瓶を抱えている。
「へえ。お代わり」
かなり動揺しながら、サヤは差し出されたビール瓶と老婆の顔を交互に見つめた。
「あ、いや・・・すみません、やっぱり・・・」
「いらんかの」
「いえ、その・・・」
相方の方を見たら、彼も気づまりな表情をしているものの、助け舟を出す気はないらしい。それにも腹が立ったが、確かにもう一本大瓶を空ける自信も彼女にはない。窮地に立たされた彼女を救ったのは、バタバタした複数の靴音と、直後に店の戸を開いて発せられた総勢六人の子どもたちの天井まで届く喚声であった。
「ばっちゃ、ラムネくれ!」
「ラムネおいらも!」
「ありゃ、五本しかねえずら、おーい、金ねえやつは入るな!」
「真治は金ねえど。真治は入るな!」
「わしも今日は持ってるだ」
「うわー、違った、四本しかねえずら。わちゃー、ばっちゃ、なんで四本しか入れとらん」
「わちゃー、四本か。四本だったらよー、まだ滝壺に飛び込めんカジとひー坊は無しずら」
「おいら飛び込むだ! 今日飛び込むだ」
「今日飛び込むんだって。ほんまか!」
「ばっちゃ、そんでなんで四本しか仕入れとらん?」
これらの言葉が(実際にはこの二倍を上回る台詞が)ものの十数秒の間に、声変わり前の子供たちから一斉に放たれたのだから、それはまるで、空き缶を六本、階段の上から一斉に転がり落したのと同じようなものであった。耳を塞ぎたくなるような喧騒が、食堂内に飽和した。
彼らはどれもこれも真っ黒に日焼けしていて、遠目には個人の区別がつきかねた。しかし近くで観察すれば、もちろん個々の違いはすぐに見分けがついた。中で一番背が高い(と言っても大人の腰くらいしかなかったが)少年は、おそらく五、六年生で、やたらと腕を組んで、金がない奴は店に入るなとか、ラムネを四本しか仕入れていないことで老婆を詰問したりとか、先ほどから一番うるさく発言していた。筋肉質で、この集団のリーダー的存在であろうが、今一つ彼の言葉をみなが拝聴している様子がない。
金のないと言われた真治は誰よりもひょろっとしているが、四年生くらいだろうか。うりざね顔で、四年生にしてすでに世の中を斜めに見ている嫌いがある。
まだ滝壺に飛び込めないことを指摘されたカジとひー坊は、おそらくまだ三年生にもなってなかろう。甲高い声で同じことを繰り返し叫んでいるから、喧しいのは彼らが一番喧しい。
あと二人はともに高学年か。一人は眼鏡をかけ、六人の中で一番言葉少なであり、どちらかと言うと発言するよりも傍でニタニタ笑いながら観察している方が性に合うといった感じの男の子である。もう一人は太っていて、年下に対して辛辣な言葉を吐くのを信条としており、滝壺に未だ飛び込めない年下二人をラムネの分配から除外しようとした当人である。
六人は一通り喚きたいだけ喚いてから、都会から来た男女に気づいたらしい。まるで外国人に出くわしたかのように、警戒心を顕わにして押し黙った。
老婆が腰を叩きながら「コウノベさんが火曜日にならんと来んから、これしかねえだ。四本を六人で分けりゃええに」と言った。
それに耳を傾ける者はいない。リーダー的存在の少年(ほかの少年たちに「マサやん」と呼ばれていた)が、自分の出番と思ってか、ぎこちなく肩をいからせて一歩前へ出た。
緊張のあまり短く鼻息まで吸って、
「旅行者ずら?」
突然の問いかけに、サヤは
「旅行者よ。あんたたち夏休み?」
フレンドリーな返答に安心したのか、小学生軍団は急に活気づいた。
「夏休み!」「でも今年は短いもん」「短くねえずら」「短いって。真ちゃんそんなことも知らねえだか」「知ってるわ!」「知らねえずら」
ラムネ四本の栓が空いた。少年たちは誰かを小突いたりゲラゲラ笑ったり何かに悪態をついたりしないとジュースを口に含むことも出来ないような連中であった。
ガラス瓶を回し飲みしながら会話は続く。
「恋人かや」と太った少年。「夫婦ずら」とマサやんが知ったかぶる。「夫婦ってことねえべ。若えずら」と眼鏡。「恋人なら、キス、キスしたかや」と一番背の低いひー坊。「当たり前だろ! ひー坊お前馬鹿じゃねえか?」「ひー坊馬鹿じゃ!」「うるせえ!」
興奮して収拾のつかなくなった子どもたちに、老婆が再びガラガラ声で口を挟んだ。
「おめえたち、今日滝さ行くだか?」
「行く! 今から行く!」
「カジとひー坊はまだ飛び込ましちゃなんねえど」
「飛び込むもん!」ひー坊がムキになって言い返す。
「飛び込むもん! おらも飛び込むもん!」慌ててカジも唱和する。
「まださせねえから大丈夫だ」とマサやんが老婆にぼそりと伝える。
涙のとっくに乾いていたサヤは、別の意味で目を光らせて彼らの会話を聞いていたが、ここにきて我慢しきれないように身を乗り出した。
「この辺に滝があるの?」
「すぐそこだ!」「すぐだ、歩いて五分だ」「十分だ、馬鹿」
「お姉ちゃんもついて行ってみていい?」
子どもたちはなぜだか、勝ち誇ったように歓声を上げた。
サヤはテーブルに両手を突いて立ち上がった。それから、自分ですら感情のわからない複雑な表情で、先ほど口喧嘩したばかりの好きだった男を見やった。
「あなたは?」
ユウタは(それが彼の正式な名前である)しばらく前、口喧嘩の最中に恋人の目から涙が伝ったときから、内心ずっと動揺していた。子どもたちに登場されてからは頭痛がした。何が何だかわからなかった。ただ、混乱した頭の片隅で、もし彼女に「あなたは?」と訊かれなかったら、ひどく寂しかったであろうことを、遅ればせながら自覚した。
彼は腰を浮かした。「行くよ。もちろん、行くさ」
滝は豪快に清水を滝壺に注ぎこんでいた。轟が群生するシダを絶えず揺らした。鳥たちが上空を行き交い、川原にはとんぼが舞い、立ちこめる水煙は夏の日差しを幻想的に和らげていた。
都会から来た二人組は呆然と立ちすくんだ。
「きれい」サヤがつぶやいた。
「この高さで・・・飛び込むのか」ユウタは口を開けて仰ぎ見た。
滝の高さは、五、六メートルはあろうか。
リーダーのマサやんが二人を呼んだ。
「こっち来てみな」
靴を脱ぎ、足を濡らしながら石伝いに滝の正面に移動すると、二人はおお、と感嘆の声を上げた。
「虹!」
「虹だ!」
水煙に光が反射して、滝の中腹に虹がかかっている。スマートな半円形で、七色と言うには無理があるが、四色くらいには見える。オレンジとスカイブルーがひときわ鮮やかである。滝の轟にも、森を抜ける風にも、それは微動だにせず、静謐な時間の中でひっそりと輝いていた。おとぎの国の入り口みたい、と女はつぶやいた。くぐってみたくなるね、と男がつぶやき返した。浅瀬を渡ってくるとき、転ばないよう繋いだ手を、二人とも握りしめたままであった。
「おーい」
いつの間に移動したのか、滝の注ぎ口の高い岩場に、日に焼けた上半身にパンツ一枚の姿で、マサやんが手を振っている。他の連中もまるで飛び込みの発表会にでも参加しているように、彼の後ろにぞろぞろとくっついている。
サヤが拡声器代わりに口に手を当て、叫んだ。
「そこから虹が見えるの?」
マサやんが何か答えたが、滝の音が喧しくて聞こえない。
「そこから虹が見えるの?」
彼女はもう一度繰り返した。
「行くぞ!」
マサやんはどうやら跳べという合図に受け取ったらしく、ひときわ大きく叫んだかと思うと、ぱっと岩を蹴って宙に浮き、滝の水と同じ速度で滝壺に消えていった。
子どもたちのはやし立てる声が滝の音に掻き消される。滝の上と下では会話が通じないらしい。
「カジとひー坊は跳んじゃダメよ!」
老婆に何となく恩義を感じていたサヤは、老婆の忠告を繰り返した。どうせ聞こえてはいないだろう。
「駄目だな、写らないや」
スマートフォンをカメラにしてかざしていたユウタは、虹を撮るのを諦めた。
女は男のシャツを掴んだ。「ユウ君、上に登ってみようよ」
「え? 飛び込むつもり?」男はたじろいだ。
「違うの。虹を上から見てみるの。どんな風に見えるか、見てみたくない?」
「虹を上から?・・・どうかなあ。角度が違えば見えないんじゃない」
「そうかも知れない。でも、そうじゃないかも知れない」
シャツを掴む手が緩んだ。「・・・止めとく?」
「いや、行こう」
「ユウ君」
ユウタはサヤの手を取り、少し照れくさそうに微笑んでみせた。「登ってみよう。そうだね。ひょっとして何かが、見えるかも知れない」
(終わり)
久しぶりの休日(それもたった一人の)をどう過ごすか、という判断は案外難しい。久しぶりだけに休日の過ごし方を忘れているし、久しぶりだけに期待外れになることを恐れ、それゆえあまり期待を込めて予定を立てづらい。後者は私特有のものかもしれない。
それで今回の休日も、無計画のまま当日を迎えた。天気が悪くないのでとりあえず車を飛ばす。
ハンドルを握っているうちに、そうだ、紅葉を見よう、と思い立って白駒池を目指す。中途で陶芸体験のできるカフェを通りかかり、そういえば何年も前に、家族でやったなあと回顧し、せっかくだから一人でもやってみようかと立ち寄る。
玄関に置く観賞用の陶器が欲しかったので、誠に分不相応であるが、芸術作品を作りたいと申し出たら、指導員の女の人に笑われた。しかし丁寧にアドバイスしてくれた。
ひんやりした土をこねる。芸術作品だから、ろくろではなく手びねりである。なんとなく船のような三日月のような形を夢想する。まるで脈拍を測るように親指で押さえながら土の塊を移動させ、延ばし、形を整える。三十分やったところで、指導員の人に「どうですか」と聞かれたので、「全く先が見えません」と答えたら、慌ててアドバイスを追加してくれた。
それでも一時間近くこねているうちに、なんとか船のような三日月のような形になった。お昼の時間だが、集中しているから腹も空かない。いつまでも土に触れていたい気持ちである。どうしてこんなに楽しいのかと不思議に思うが、壁に貼られた縄文土器のポスター(茅野市にある、国宝二体だ)を眺めてつらつら考えるに、縄文時代から土をこねまわしていた祖先のDNAが脈々と受け継がれているのではなかろうか。
指導員の人も、いいじゃないですかと褒めてくれた。彼女も昼休みがあるのだろう。色を指定して会計を済ませ、割引券が出たので喫茶室でコーヒーを飲み、そこを出る。
手びねりでずいぶん時間を食ったが、結局白駒池にも立ち寄った。天候不順が続いたせいか色づきは今一つであった。茅野市に下りて、考古館の国宝二体に挨拶する。去年も一度見に来ている。
無計画もなかなかに忙しい。